第13話 辺境貴族リズ・ヴァーレン
海というものは、もう少し青いものだと思っていた。
港湾都市クロイツハーフェンへ近づくにつれ、船べりの下を流れる水が黒ずんでいく。船底から滲んだ油に、荷揚げ場の染料、鉱石船から落ちた粉塵。波が桟橋にぶつかるたび、泡の縁だけが妙に白かった。
王国最大の交易港ともなれば、海まで働きづめなのね。
潮風が吹いた。塩気に魚油と濡れた木材の匂いが混じり、髪の毛先が頬に貼りつく。指で払っても、すぐに戻ってきた。
……まったく。歓迎の仕方が少々強引ではありませんこと?
客船が速度を落とす。岸壁から鐘が聞こえた。その後を追うように、荷車の車輪、縄を引く男たちの掛け声、木箱を積み直す鈍い音が重なる。
どれも賑やかな港にはふさわしい音。
ただ、響きの揃わない鐘が一つあった。ほかの荷役が動いているのに、その鐘が鳴るたび、一角だけ人の流れが滞る。
見たいものは、まずあちらにありそうね。
「お嬢さん、降りるなら支度しな。ここから先は港の連中の縄張りだ」
声をかけてきたのは、片目を布で覆った老船員だった。手の甲は縄に擦られて厚くなり、指の間には落ちない黒い油が染みている。
「ご忠告、感謝いたします」
「感謝だけじゃ足りんぞ。港の夜は女一人で歩くもんじゃない。護衛はいないのか?」
「おりませんけれど、問題が?」
「あるから聞いてるんだ。身なりのいい若い女は、目をつけられる」
この外套で『身なりがいい』と分かるなら、なかなか鋭いお方だ。針目や袖口まで見ていらっしゃるのだろう。
「でしたら、目をつけた方に後悔していただくことにしますわ」
「……そういう返事をする奴ほど、面倒を連れてくるんだよ」
「先に面倒を用意しているのは、そちらでしょう?」
老船員は呆れたように鼻を鳴らした。それでも、渡り板がしっかり岸壁に掛かるまで、手を離さずにいてくれた。
「財布と喉笛を守りな、お嬢さん」
「ええ。そちらも、お気をつけて」
板が足元で軋む。
桟橋へ一歩降りたところで、通行許可証を取り出した。
リズ・ヴァーレン。20歳。王国北西端の小領地を継いだ若い女当主。海運業者との契約を結ぶため、供も連れずに港へやって来た変わり者。
書類によれば、そういう人物だった。
10日前までは、領地の履歴も、納税の記録も、そんな貴族の名前さえ存在しなかったのに。
もっとも、まったくの嘘というわけでもない。
《ブラッドアルカナ》で、自分の血と《名核》から必要な履歴だけを枝分かれさせた。誰かの名前を盗んだのではなく、使う名前を自分で選んだのだ。簡易な照合なら通る。ただし、強い名証術に踏み込まれれば、たちまち綻びが露わになる。
公爵令嬢リゼリア・ノワールヴェインは、王国の記録では既に処刑された人間だ。
あれから3年。
黒薔薇を探す者は今もいる。死んだはずの令嬢が本名を名乗って港の検問を通ったところで、王国がご丁寧に見逃してくださるほど間抜けではないでしょう。
だからこそ、リズ。
王国が押しつけた番号ではなく、自分で選び、自分で手放せる名前。
それで十分だ。
胸元の革袋には、黒い封蝋の欠片が一つ入っている。
白い王冠を、上下逆さまにした印。
3か月前、行き倒れた商人の遺品から見つけたものだった。男は顔も故郷も思い出せず、ただ「黒い船に名前を積んだ」という《記憶痕》だけを残していた。
その封蝋が流れ着いたのが、この港。
《無名簿》――奪われた公名だけでなく、血縁や記憶痕まで値段をつけて並べる裏帳簿。
それが《黒宴》と呼ばれる闇競売へ出品されるらしい。
父へ繋がる手掛かりかもしれない。そう思わせるものは、これまでにも数えきれないほど見てきた。追ってみれば、ほとんどは誰かが都合よく置いた餌。
希望だけを理由に飛びつけば、ろくな目に遭わない。
……存じておりますわ、お父様。
だから、今回も確かめに来たのです。
◇
港湾検問所では、真鍮の門の前に旅人の列ができていた。
門の内側には《公名鏡》。通行許可証の文字だけでなく、そこに立つ本人の《名核》まで照合する装置だ。紙切れを偽造しただけなら、その場で捕まる。
「次の方。お名前とご用件をお願いします」
検問官は書類から目を上げない。机の端には、返却された通行札が山積みになっていた。
「リズ・ヴァーレンです。港湾商会との契約交渉に参りました」
「ヴァーレン……辺境小領主、と。お供の方は?」
「今回は連れておりません」
そこで、ようやく顔を上げた。
「失礼ですが、女爵が護衛もつけずに?」
問いそのものはもっともだ。問題は、問いに答えた後も疑いが続くかどうか。
「辺境では、歩けない者から置いていかれますので。お付きの者がいなければ何もできない当主では、領地を守れませんわ」
「……なるほど。では、こちらへ手を」
検問官が示した台に、右手を載せた。
手袋の内側には、皮膚と見分けがつかないほど薄く整えた《ブラッドアルカナ》を貼っている。
鏡が光った。
骨の内側を冷たい指でなぞられるような感触が走る。札の術式が働き、偽装した宿泊履歴、領地印、納税記録が照合に応じて差し出された。
次は、公名。
心臓がひとつ強く打つ。
この部分だけは、術式を綺麗に整えれば済むものではない。今ここにいる人間が、自分自身を『リズ』と認識していなければ、鏡は異物として弾く。
『公名、リズ・ヴァーレン』
『爵位照合、辺境小領主』
『入港目的、商取引』
『異常なし』
緑の灯が点いた。
手袋の下がじんわり熱い。血と魔力を削って身分を保つ以上、長居するほど不利になる。
「ようこそ、クロイツハーフェンへ。ヴァーレン女爵」
「歓迎のお言葉、感謝いたします」
通行札を受け取り、門を抜ける。
振り返らず、歩幅も変えない。
貴族の身分を疑われた直後に、逃げるような歩き方をする貴族がどこにいるというのか。
――門は通れた。
だからといって、身分を信じてもらえたわけではない。
今後どこで何を話し、誰に会い、どんな癖を見せるか。それらすべてが、リズ・ヴァーレンという人物の履歴になっていく。
紙の上の経歴より、よほど扱いの難しいものですわね。
◇
港へ降りて最初に足を止めたのは、荷役場の認証柱だった。
白い石板へ手を当てるたび、名前と作業区画が読み上げられる。その日の賃金は、照合された公名へ支払われる仕組みらしい。
「ダリオ・ベルン。第3埠頭」
「ミナ・ロウ。香辛料倉庫」
列の進みは早い。人夫たちは呼ばれた区画へ歩き出し、次の者が手を置く。
ところが、痩せた男の番で流れが止まった。
『登録名、不在』
「おい、昨日は通れたぞ。もう一回だ」
男が掌を押しつけ直す。
『該当する公名は存在しません』
「ふざけるな。俺はヨハン・メルクだ。この埠頭で15年働いてるんだぞ」
後ろの人夫が溜息をついた。
「顔は知ってるが……お前、そんな名前だったか?」
「だったか、って何だよ。昨日も一緒に積み込みをしただろ!」
受付係が男の腕を取る。
「登録がないなら作業区画へ入れません。後ろの方を通してください」
「家には妻と娘がいるんだ。今日の賃金がなきゃ――」
「家族記録にも該当がありません」
言い終わる前に、男の顔から血の気が引いた。
腕に下げた通行札は使い込まれ、縁には指の脂が染みている。なのに、そこにあるはずの名前だけが白く抜け落ちていた。
3年前の光景が胸を掠める。
名前を呼ばれても、公の装置に存在を認められなかった父親。
その手を離そうとしなかった幼い娘。
ここで魔札を使えば、黒薔薇が港へ現れたと知らせることになる。
見過ごすか。
……その二者択一を、自分に許すつもりはない。
小銭入れを開き、銅貨を一枚、指先から滑らせた。
石板の足元へ転がる。
「あら、失礼」
拾おうと屈んだ際に、男の札へ指を添えた。
札にはまだ《記憶痕》が残っている。
塩で荒れた手。固く焼けたパン。朝、娘が手首に結んでくれた赤い紐。『ヨハン』と呼ぶ二つの声。
名前を失ったのは、男自身の意思ではない。
直接術式を流すのは危険だ。残った痕跡を確かめるだけで手を離す。
「ヨハン・メルクさん」
ごく普通に、呼んだ。
男が振り向く。石板が一瞬、青く点滅した。
『認証競合』
受付係がこちらを見る。
「……どちら様ですか? この方とお知り合いで?」
「落とした銅貨を拾っただけですわ。お騒がせしました」
「ですが今、名前を――」
「ご本人が名乗っておいででしたでしょう?」
拾った銅貨を掌に載せ、笑みを向けた。
相手がそれ以上尋ねようとする前に、人波へ紛れる。
背後から声がした。
「俺はヨハンだ! ヨハン・メルクだ!」
今度は、先ほどの人夫ではない女の声が続いた。
「そうよ、ヨハン! いつも第3埠頭にいるじゃないか!」
立ち止まりそうになった足を、そのまま前へ出す。
名前を呼ぶだけで、帳簿が元通りになるわけではない。彼の家族の記録も、賃金も、失ったままだ。
けれど、ひとりが自分の名前を取り戻そうと声を上げ、もうひとりがそれを覚えていると言った。
今日のところは、それで一歩。
そして、あの認証柱が示した異常も、忘れてはいけない。
《無名簿》は、物騒な噂話では済まなさそうだ。
◇
表通りには両替商と船員宿がひしめき、その先へ入ると、今度は店の看板から名前が消え始めた。
赤い屋根の香辛料店を左。壁に魚骨を打ちつけた建物を右。海蛇の落書きがある石段を下る。
道順を頭の中で並べ直す。
名前が記されていないなら、場所そのものを覚えればよい。案内を頼んだ相手が途中で道を変えたとしても、戻る経路は分かる。
階段の先で、錆びた小鐘が風に鳴っていた。
《錆鐘亭》。ヴァン・ヘルトが客を迎える酒場。
扉を押すと、煙と酒の匂いがまとわりついた。入口近くには酔い潰れた船員、奥には賭け卓。壁の燭台は煤を被り、床にこぼれた酒が靴底へ粘りつく。
悪趣味な香水よりは、まだ正直な匂いですこと。
視線が集まる。
少し上等な外套を着た若い女が、この店には珍しいのだろう。もっとも、みなすぐに興味を失ったふりをして、手元の酒杯へ目を戻した。
……ずいぶんお行儀のよい見物人たちですわね。
最奥の卓には、指輪を6つもつけた太った男。首から下がる金鎖が、杯を持ち上げるたび音を立てる。足元には護衛が2人。
「ヴァン・ヘルトさんでいらっしゃいますね」
男は酒杯を口元で止めた。
「そう呼ぶ客は、だいたい面倒を運んでくる。今日は何を買いに来たんだ?」
「情報を。できれば、きちんと使えるものが望ましいですわね」
「うちの商品に文句があるなら、ほかの店へ行けばいい」
「まだ買ってもいないのに、文句を申し上げるほど無作法ではございませんわ。お値段と品質を確かめに来たのです」
向かいの椅子を引くと、男が片眉を上げた。
「リズ・ヴァーレン女爵。辺境からわざわざ、ご苦労なことだ」
「お調べが早いのですね。商売熱心な方は嫌いではありません」
「調べても分からないこともある。たとえば、あんたの領地を実際に見たという奴がいない」
「中央の方々から忘れられているのは、辺境の宿命ですもの。よろしければ、今度ご案内いたしましょうか?」
「遠慮しとく。帰り道が分からなくなりそうだ」
「でしたら、地図をご用意いたしますわ」
ヘルトが低く笑った。
公名鏡を通ったのに、素性を疑われる。
当然の反応だ。
記録が正しいかどうかだけを見ている相手なら、もう話は終わっている。この男は、記録の外側まで嗅ぎ回っている。
杯を置いたとき、指輪の一つが卓を小さく叩いた。
「《黒宴》を探しているそうだな」
「ご存じなら、話が早くて助かりますわ。開催日は?」
「3日後だ。場所は招待状を持つ奴しか知らん」
「では、《無名簿》は出品されますの?」
ヘルトの笑みが消えた。
……ようやく、余計なお愛想を省いていただけたようね。
「それをどこで聞いた?」
「あなたにお伝えする必要がございまして?」
「ここじゃ、知らなくていいことまで聞いた客は長生きしない」
「奇遇ですわね。わたくしも、知らないままでいるほうが危険だと思っておりまして」
男は指輪を回した。
それを合図に、足元の護衛が片足を引く。
上着の内側へ手が入った。
階段で眠っていた男は、いつの間にかこちらへ顔を向けている。賭け卓の客たちは硬貨を転がしているのに、誰一人として勝敗を見ていない。
数は、見える範囲で少なくとも6人。
出口は背後の扉が一つ。階段の上に窓。卓の右に燭台。左の壁際には、まだ本当に酔っている客もいる。
あの人たちを巻き込むのは、御免被りたいところだ。
「商談は終わりですの?」
「これから始まるんだよ。あんたがどんな女か、もう少し確かめたい」
ヘルトが指を鳴らした。
背後で、閂の落ちる音がした。
「手首と喉は傷つけるな。生け捕りだ。血も無駄にするんじゃないぞ」
……血?
《無名簿》を買いに来たつもりが、どうやらこちらにも値札を付けたい方がいらっしゃるらしい。
「わたくしを売るおつもりなら、せめてご本人にお値段くらい相談なさってはいかが?」
「注文の多い買い手でね。こっちだって苦労してるんだよ」
「それはお気の毒に。ですが、わたくしにも譲れない条件がございますの」
「何だ?」
男が笑う。
笑っていられるのは、今のうちかしら。
「勝手に付けた値札で、人を買おうとなさらないことですわ」
最初の剣が鞘から抜かれた。
……では、どなたから飛び込んでいらっしゃるのかしら。
手札を見せるには、まだ少し早い。




