第11話 星盾が聞いた歌
「小さいお姉ちゃん、もう少し右!」
「小さい、は不要です」
礼拝堂の高窓に布飾りを結びながら、つい反論してしまった。
足元の踏み台が、ぎしりと鳴る。つま先を伸ばしても結び目は指先に触れるばかり。あと少しだけ高さがあれば、こんな苦労はしないのに。
「シュテル様、代わりましょうか?」
下から修道女が手を差し伸べてくれた。
「結べます。端を押さえていただければ十分です」
「先ほどから十分ほど、そう仰っていますけれど」
「……正確には8分です」
子どもたちが声を立てて笑う。
窓から差し込む朝日が、白い床に青い飾り布の影を落としていた。蝋燭の熱と香油の匂いに、台所から流れてくる焼き麦の香ばしさが混じる。
王都北方の小さな救護院。ここに巡回勤務で来て、3か月になる。
聖オルディア教会に属する聖盾審問官として、祈祷やその運用が人を傷つけていないか調べるのが職務だ。けれど、この院で最も頻繁に頼まれるのは、屋根の補修と子どもたちの読み書き、それから高いところの飾りつけだった。
……最後の仕事の配分には、少々疑問がある。
「もう一段高い踏み台がありますよ。使われますか?」
「最初から教えてください」
「ご自分でできると仰ったので」
修道女は笑っている。悪意はないと分かっているから、叱るわけにもいかない。
高い踏み台に移り、ようやく布の両端を結んだ。引いて確かめる。強く引っ張ってもほどけない。
「できました」
「やった、小さいお姉ちゃん!」
「成人しています。それに、今の作業で背丈は関係ありません」
「踏み台、変えたのに?」
「……歌の準備をしましょうか」
答えを待たずに降りると、また笑い声が弾けた。
ああいうところだけは、子どもたちは驚くほど鋭い。
◇
朝の祈りを終えると、修道女が聖歌集を配った。
木の長椅子が擦れ、子どもたちが思い思いに腰掛ける。片側を開きすぎた子に詰めるよう頼み、聖歌集の頁を確かめて回った。
同じ頁。同じ旋律。
声の高さや拍子が揃わないのは、いつものことだ。まだ文字を拾いながら歌う子もいる。それでも、間違えても笑い合えるこの時間を、私は気に入っていた。
その歌声に、知らない言葉が混じった。
『白い冠に、名前を預け――』
旋律は同じなのに、歌詞が違う。
「少し待ってください」
指揮を止め、声のした方へ顔を向ける。
端の席に座る少女が、目を丸くしていた。7歳ほどだろうか。胸元には中央教会から配られた、白い祈祷章が下がっている。
「今のところ、もう一度歌っていただけますか?」
「間違えた?」
「確かめたいだけです。叱っているのではありませんよ」
少女は少し安心したように頷き、短く息を吸った。
『白い冠に、名前を預け。
黒い船から、光へ帰る』
子どもたちが顔を見合わせる。聖歌集をめくっていた修道女も、首を横に振った。
白い冠。黒い船。
少なくとも、今朝開いている聖歌集にはない節だった。
「誰に教わったのですか?」
「お姉ちゃん」
「こちらの修道女ですか?」
「ううん。違うお姉ちゃん。歌がすごく上手だった」
「その方のお名前は覚えていますか?」
「……お姉ちゃん」
「普段は何と呼んでいました?」
少女の唇が閉じる。
困った顔をして、膝の上の聖歌集を握り直した。
「名前……あったのに」
「急がなくて大丈夫です」
「顔は覚えてる。髪が長くて、手があったかくて……」
胸元の祈祷章が、一度、白く瞬いた。
その変化に気づいたのは、私だけだったらしい。
「もう少しで思い出せそう?」と修道女が尋ねる。
「えっと、えっとね――」
祈祷章が赤く変わった。
少女が胸を押さえ、そのまま身体を折る。
「痛い……!」
駆け寄ろうとした修道女を、片手で制した。
「触らないでください。まだ章を外してはいけません」
痛みを伴う魔力が、章から少女の胸へ流れ込んでいる。引きちぎれば、行き場を失った分まで身体に戻るかもしれない。
「聞こえますか。胸の前に手を出しても構いませんか?」
少女が涙を溜めた目で頷く。
「では、すぐに止めます」
手のひらを祈祷章へ向けた。
「星盾」
青白い星の紋が浮かび、薄い盾が章と胸の間に滑り込む。
盾に必要なのは厚みではない。流れ込む魔力を受け止め、少女の身体から逸らせる位置と角度。その一点へ意識を絞る。
鈍い衝撃が腕へ返った。
星の紋に細い亀裂が走り、指先が痺れる。もう一度押し込もうとする魔力を、盾の端から空気中へ逃がした。
少女の肩から力が抜ける。
「……もう、痛くない」
「よかった。息をゆっくり吸ってください」
小さな胸が上下するのを見届けてから、ようやく腕を下ろした。掌が熱い。あと少し反応が遅ければ、盾の方が先に割れていただろう。
「何が起こったんですか?」
修道女が少女を支えながら尋ねる。
「祈祷章から、記憶をたどろうとする動きに反応した魔力が流れました。偶然の故障か、意図された術式かは、まだ調べる必要があります」
「でも、それは中央教会から配られたものです。子どもたちを守るための、新しい祈祷章だと……」
「承知しています。だからこそ、確かめましょう」
少女の胸元で、赤い明滅は止まっていた。
祈るための道具が、何かを思い出そうとするたび痛みを与える。
守護のために作られたのなら、あまりにも奇妙な働きだ。
「この章は、ここにいる子ども全員が受け取ったのですか?」
「はい。先月、中央から孤児全員に施すようにと」
長椅子に並ぶ小さな胸元へ、自然と目が向いた。
祈祷章は、どれも同じ形をしている。
「今日の使用は、すべて中止してください。診察を終えたら、院長へも報告します」
「中央の承認を受けた品ですよ。勝手に外してしまっては……」
「承認した方は、この子が痛がるところをご覧になったのでしょうか」
声が少し低くなった。
いけない。修道女を責めても、章は安全にならない。
「まず、着用を続ける危険を調べます。外すかどうかも、子どもたちに説明してから決めましょう。勝手に取り上げることはしません」
修道女は少女の背をさすり、ゆっくり頷いた。
◇
診察室の窓を開くと、冷たい風が薬草の匂いを運んできた。
祈祷章を胸につけた子どもは14人。
装着具を観察したところ、どの章にも同じ術式の痕跡があった。記憶そのものを消す構造なのか、それとも思い出そうとする行動を妨げるだけなのか。まだ断定できない。ただ、少女の痛みを見た以上、放置はできなかった。
最初に座った少年は、胸元を両手で押さえた。
「外すと、神様に怒られる?」
そう教えられてきたのだろう。
返事を急げば、この子は安心するかもしれない。けれど、私に神の心を言い当てる力などない。
「神様のお気持ちを、私が代わりに決めることはできません。でも、痛いのに我慢し続けることが、祈りの条件だとも教わっていません」
「じゃあ、外してもいい?」
「私は外す方が安全だと考えています。方法と、熱さが残るかもしれないことも説明します。それを聞いて、どうしたいか教えてください」
少年は章を見つめ、それから顔を上げた。
「外してほしい」
「分かりました。始めますね」
薄い星盾を、胸と章の間へ差し入れる。
次に、刃先を糸ほどに絞った星刃を形成した。
留め具に刻まれた術式の接続線だけを切る。章そのものを壊せば、蓄えられた魔力がどこへ向かうか分からない。
青い光が細く走り、留め金がほどけた。
星盾に小さな衝撃が返ってくる。
章が布の上へ落ちると、少年は驚いたように胸を撫でた。
「……あったかい」
「熱すぎませんか?」
「ちょっとだけ」
「冷やしましょう。苦しかったら、すぐ教えてください」
水に浸した布を渡し、名前と反応を記録する。
次の子にも、同じ説明をした。
大丈夫だと言っていた子が途中で怖くなり、一度手を止めることもあった。章を外したくないという子には、急がせず、術式を遮断した状態で理由を聞いた。
誰かの胸に触れるのだから、私の都合で順番を決めてよいわけではない。
10人目が終わった頃には、指先が細かく震えていた。
薄い盾でも、魔力の逆流を何度も受け止めれば負担は積み重なる。手を握ろうとすると、掌の筋が強張った。
「少し休んでください」
修道女が椅子を引く。
「残り4人です。先に終わらせたいのですが」
「その手で続けて、術式を取り違えたらどうなります?」
痛いところを突かれた。
守りたい相手を前にして、自分が焦るのはよくない。間違った刃を入れれば、傷つくのは私ではなく子どもだ。
「……では、5分だけ」
「10分は必要です」
「7分では?」
「どうして交渉になるんですか」
先ほどの少女が、棚から小さな砂時計を持ってきた。
「じゃあ、これが終わるまで座ってて」
「7分のものですか?」
「うん。途中で立つのはだめ。大人は約束を守るんでしょ?」
……見事に言葉を返されてしまった。
「分かりました。約束します」
椅子に座ると、思っていた以上に足が重かった。
少女は隣へ腰を下ろし、膝の上に聖歌集を置いた。
「ねえ、名前って、忘れちゃったらなくなるの?」
「覚えている人がいなくなることと、その人がいなかったことは違いますよ」
「でも、誰も思い出せなかったら?」
「歌を覚えていたり、使っていた物が残っていたりするかもしれません。ほかにも手掛かりはあります」
「シュテルは、あのお姉ちゃんの名前を探してくれる?」
胸の奥で、小さく何かが引っ掛かった。
名前を探す、とこの子は言った。会いたいではなく、まず名前を。
「はい。ただし、見つかると約束できるわけではありません」
「……そっか」
「でも、調べることはできます。一緒に覚えていることを集めましょう」
少女は少し考え、私の袖を引いた。
「じゃあ、私の名前は?」
「エナ・ベルです」
「呼んで」
「エナ」
「もう一回」
「エナ・ベル」
エナは胸を張るように息を吸い、照れくさそうに笑った。
たったそれだけのことで、目の前の子がこんな顔をする。
名前を呼ぶのに、許可も認証も要らないはずなのに。
記録術紙に、エナの公名と章の反応を記した。
砂時計の砂が落ち切るまで、今度はきちんと座っていた。
◇
14人目の章を外し終えたのは、昼の鐘が鳴る少し前だった。
外した章は封印布に包み、反応を一つずつ記録した。術式を安全に停止できたことと、作られた意図が分かったことは別だ。どこで作られ、なぜ記憶に干渉するのか。中央の説明だけでは、まだ足りない。
修道女に子どもたちの経過観察をお願いし、エナを呼んだ。
「さっきの歌を教えてくれたお姉さんには、どこで会いましたか?」
「夜。下のお部屋」
「地下の礼拝室ですか?」
「たぶん。寒くて、石の匂いがした。お姉ちゃん、ずっと歌ってた」
「ほかに覚えていることはありますか?」
エナは聖歌集の角を撫でながら、うつむいた。
「……泣いてた」
「誰が?」
「お姉ちゃん。歌いながら、泣いてたの」
朝、礼拝堂に響いた明るい歌声を思い出す。
同じ旋律を、地下で泣きながら歌っていた人がいる。
「教えてくれてありがとう、エナ。ここからは私が調べます」
◇
地下への階段は、礼拝堂の奥にある。
扉を開けると、薬品と湿った石の匂いが上がってきた。足元の段は冷え、壁に置かれた古い燭台には埃が積もっている。それなのに、手すりの一部だけは妙に滑らかだった。
最近、何度も人が通っている。
食料庫のさらに奥。普段は使われていないはずの礼拝室には、寝台が6つ並んでいた。
そのうち5つの毛布には、畳み直したばかりのような折り目がある。枕元には薬の小瓶。床には寝台を引きずった傷が残っていた。
壁の背丈を測る印には、数字だけが添えられている。
12。
19。
24。
名前が、一つもない。
患者の記録を置く棚を開く。整然と綴じられた書類の中に、最近の日付がついた移送簿があった。
移送人数、5人。
理由は『特別救護』。
行き先の施設名は、空欄。
費用負担元――クロイツハーフェン港湾救護基金。
書類の下端に、見慣れない封蝋が押されていた。
白い王冠を上下逆さまにした印。
その隣には、黒い船と仮面の小さな図。
訓練の資料で、一度だけ見たことがある。
港の闇競売。《黒宴》。教会は関与を否定しているはずだ。
……では、なぜ救護院の移送簿に、この印があるのだろう。
紙を持つ指に、自然と力が入る。
移送を受けた施設が本当に存在するのか。
5人は、どこへ着いたのか。
それよりも先に確認したいことがある。
――本人たちは、そこへ行きたいと答えたのか。
「その記録を戻しなさい」
背後から声がした。
救護院長の司祭が、入口に立っている。
振り返ると、司祭の後ろで扉が静かに閉まった。
「院長。こちらの5名について、お尋ねしたいことがあります」
「戻しなさいと言ったはずだ」
「行き先が書かれていません。どちらへ移されたのでしょう?」
院長は答えなかった。
代わりに、閉まった扉の向こうから足音が近づいてくる。
1人ではない。
私は移送簿を閉じず、ゆっくりと顔を上げた。
「……中央教会の方も、ご一緒ですか?」




