第10話「帰る場所」
他の客は全て二階に上がっていた。食堂にはランプの灯りが一つだけ残っている。
階段を降りてくる足音が聞こえた。
レナートだった。二階の自室から食堂に入ってきた。迷いのない足取りで、窓辺の席に向かった。
「また来たんですね」
シルヴィアの声が、閉店後の食堂に落ちた。「殿下」ではなく。呼称を使わない、あの距離の声。
今回は「国王陛下の名代によるクレーネの町の視察」という正式な名目での二度目の再訪だった。前回から約三週間後。日中はマルコと共に町の視察を正式にこなし、領主配下の役人に挨拶をし、通商路の状況を確認した。
だが閉店後の食堂は——二人の場所だった。
レナートは椅子を引いた。
「ああ」
マルコは二階にいる。
二人きりだった。
シルヴィアは棚の奥から茶葉の缶を取り出した。あの茶葉。少しだけ上等な、普段は客に出さない茶葉。湯を注ぎ、茶杯を二つ。
窓辺の席のレナートの前に一つ。その向かいに一つ。
シルヴィアは向かいの椅子を引いて座った。
「国王陛下の名代が、こんな小さな宿で茶を飲んでいていいのですか」
声に、かすかな笑みが混じっていた。唇の端がほんの少しだけ上がっている。
レナートは茶杯に手を伸ばした。
「ここでしか飲めない茶がある」
シルヴィアは茶杯に口をつけた。少し冷ましてから、一口。
それからレナートを見た。
「あなたにまだ聞いていなかったことがあります」
レナートが待った。茶杯を持ったまま、動かなかった。
「探していた場所は——見つかりましたか」
あの夜、同じ食堂で、同じ構図で、シルヴィアは同じことを聞いた。あなたの探している場所は、見つかりそうですかと。
あのときレナートは答えなかった。食堂を見渡し、「わからない」と言い、「ここにいると、探さなくていい気がする」と言った。
今夜は違った。
「見つけた」
声が低かった。だが揺れなかった。
「ここだ」
断言だった。
シルヴィアの目が潤んだ。
視界がにじんだ。まつ毛の縁に、熱いものが溜まった。
涙は落ちなかった。
「そう」
一言。
それだけだった。
だがその一言の中で、声が震えていた。平坦に保とうとして、保てなかった。喉の奥で、何かがほどけていた。
レナートの手がテーブルの上を滑った。
ゆっくりと。茶杯を置き、指がテーブルの木目の上を動いた。
シルヴィアの手に触れた。
手の甲に、手の甲が重なった。
どちらも引かなかった。
以前、焼き菓子の皿の上で指先が触れたとき、同時に手を引いた。あの出発の朝、包みを渡す手と受け取る手が触れたとき、どちらも引かなかった。五秒。
今夜は——それより長かった。
指が絡むわけではなかった。手の甲に手の甲が触れているだけだった。
それだけで十分だった。
ランプの灯りが二つの手の影を食堂の床に落としていた。茶杯から湯気はもう立っていなかった。窓辺の席。あの席。毎朝拭いていた席。毎晩目がいった席。埃が積もらなかった席。
ここが私の場所だ。
そしてこの人は、ここに帰ってくると言った。帰ってきた。
二階から降りてきた。表の扉からではなく、この建物の内側から。銀の鈴は鳴らなかった。旅人が訪れたときに鳴る鈴は、今夜は静かだった。
この人はもう、外から来る旅人ではない。
待ったのではない。私がここにいることを、選び続けた。あの人も、ここに来ることを、選び続けた。
それだけのことだ。
それだけのことが——こんなにも、温かい。
◇
レヴィアンス王国。ハイゼンベルト伯爵家。
王都の公文書館に、一通の書面が届いた。
ハイゼンベルト伯爵家当主の署名が入った、婚約解消届。嫡男グレンと庶子リゼットの婚約を解消する旨の書面。
公文書官が書面を確認し、日付印を押した。受理された。
同じ日の夕刻。
グレンは自室の窓辺に立っていた。
外套も脱がず、椅子にも座らず、窓の外を見ていた。夕暮れの庭。薔薇の手入れは行き届いている。屋敷の外側は、何も変わっていない。
机の上に、使用人が持ってきた書簡が一通あった。公文書館からの受理通知。
開封していなかった。
開封する必要がなかった。中身はわかっている。
グレンは窓の外を見ていた。
何も言わなかった。
何も言えなかった。
屋敷の廊下を歩く使用人の足音が聞こえた。以前より少ない足音。辞めた者もいる。残った者も、足取りがどこか硬い。
グレンは窓から離れなかった。
◇
同じ屋敷の、別の部屋。
リゼットは自室の椅子に座っていた。
膝の上に、両手を重ねていた。
あの帳簿は、棚に戻してある。兄の書斎から持ち出した、シルヴィアの社交記録。
三年分の記録。一頁も欠けることなく、一行の書き損じもない帳簿。
あれを読んだ夜から、わかっていた。
わたしにはできない。
兄の隣に立つことで得られた場所は、最初から、わたしの力で守れるものではなかった。
「わたしは最初から、あの場所にいるべきではなかったのかもしれない」
声は小さかった。
泣かなかった。
泣けなかった。
窓の外が暗くなっていく。ランプの灯りが、膝の上の手を照らしていた。
婚約者ではなくなった。
庶子としての部屋に、庶子としての立場に、戻った。
それだけのことだった。
リゼットは椅子から立ち上がった。
窓辺に歩み寄り、外を見た。
庭の薔薇が、夕闇の中でぼんやりと浮かんでいた。
◇
エルデシア王宮。東翼の私室。
国王アルベルトは窓辺に立っていた。
手元にマルコからの報告書がある。クレーネの町の状況。宿の経営。女将の人柄。簡潔に、事実だけが記されていた。
報告書を読み終え、窓の外に目をやった。
夕暮れの空が、王都の屋根の向こうに広がっている。東に伸びる街道は、もう影の中に沈みかけていた。
壁の肖像画に目をやった。第二王妃の若き日の顔。穏やかな目。
「……あの子の選んだ場所か」
呟いた。
否定も肯定もしない声だった。だがその目の奥に、亡き第二王妃の面影を見ているような色があった。
国王は報告書を引き出しにしまった。
窓の外では、最後の夕光が街道の先に沈んでいくところだった。
東の街道。その先に、小さな町がある。銀の鈴が掛かった扉のある宿がある。
国王はしばらく窓の外を見ていた。
やがて窓から離れ、机に向かった。ランプの芯を短くした。灯りが落ちる。
肖像画の顔が、薄い影の中に沈んでいった。
私室に静けさだけが残った。
(完)
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