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あなたの隣は最初から、私の場所じゃなかったみたいなので。  作者: 月雅
第2章

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第10話「帰る場所」

他の客は全て二階に上がっていた。食堂にはランプの灯りが一つだけ残っている。


階段を降りてくる足音が聞こえた。


レナートだった。二階の自室から食堂に入ってきた。迷いのない足取りで、窓辺の席に向かった。


「また来たんですね」


シルヴィアの声が、閉店後の食堂に落ちた。「殿下」ではなく。呼称を使わない、あの距離の声。


今回は「国王陛下の名代によるクレーネの町の視察」という正式な名目での二度目の再訪だった。前回から約三週間後。日中はマルコと共に町の視察を正式にこなし、領主配下の役人に挨拶をし、通商路の状況を確認した。


だが閉店後の食堂は——二人の場所だった。


レナートは椅子を引いた。


「ああ」


マルコは二階にいる。


二人きりだった。


シルヴィアは棚の奥から茶葉の缶を取り出した。あの茶葉。少しだけ上等な、普段は客に出さない茶葉。湯を注ぎ、茶杯を二つ。


窓辺の席のレナートの前に一つ。その向かいに一つ。


シルヴィアは向かいの椅子を引いて座った。


「国王陛下の名代が、こんな小さな宿で茶を飲んでいていいのですか」


声に、かすかな笑みが混じっていた。唇の端がほんの少しだけ上がっている。


レナートは茶杯に手を伸ばした。


「ここでしか飲めない茶がある」


シルヴィアは茶杯に口をつけた。少し冷ましてから、一口。


それからレナートを見た。


「あなたにまだ聞いていなかったことがあります」


レナートが待った。茶杯を持ったまま、動かなかった。


「探していた場所は——見つかりましたか」


あの夜、同じ食堂で、同じ構図で、シルヴィアは同じことを聞いた。あなたの探している場所は、見つかりそうですかと。


あのときレナートは答えなかった。食堂を見渡し、「わからない」と言い、「ここにいると、探さなくていい気がする」と言った。


今夜は違った。


「見つけた」


声が低かった。だが揺れなかった。


「ここだ」


断言だった。


シルヴィアの目が潤んだ。


視界がにじんだ。まつ毛の縁に、熱いものが溜まった。


涙は落ちなかった。


「そう」


一言。


それだけだった。


だがその一言の中で、声が震えていた。平坦に保とうとして、保てなかった。喉の奥で、何かがほどけていた。


レナートの手がテーブルの上を滑った。


ゆっくりと。茶杯を置き、指がテーブルの木目の上を動いた。


シルヴィアの手に触れた。


手の甲に、手の甲が重なった。


どちらも引かなかった。


以前、焼き菓子の皿の上で指先が触れたとき、同時に手を引いた。あの出発の朝、包みを渡す手と受け取る手が触れたとき、どちらも引かなかった。五秒。


今夜は——それより長かった。


指が絡むわけではなかった。手の甲に手の甲が触れているだけだった。


それだけで十分だった。


ランプの灯りが二つの手の影を食堂の床に落としていた。茶杯から湯気はもう立っていなかった。窓辺の席。あの席。毎朝拭いていた席。毎晩目がいった席。埃が積もらなかった席。


ここが私の場所だ。


そしてこの人は、ここに帰ってくると言った。帰ってきた。


二階から降りてきた。表の扉からではなく、この建物の内側から。銀の鈴は鳴らなかった。旅人が訪れたときに鳴る鈴は、今夜は静かだった。


この人はもう、外から来る旅人ではない。


待ったのではない。私がここにいることを、選び続けた。あの人も、ここに来ることを、選び続けた。


それだけのことだ。


それだけのことが——こんなにも、温かい。



レヴィアンス王国。ハイゼンベルト伯爵家。


王都の公文書館に、一通の書面が届いた。


ハイゼンベルト伯爵家当主の署名が入った、婚約解消届。嫡男グレンと庶子リゼットの婚約を解消する旨の書面。


公文書官が書面を確認し、日付印を押した。受理された。


同じ日の夕刻。


グレンは自室の窓辺に立っていた。


外套も脱がず、椅子にも座らず、窓の外を見ていた。夕暮れの庭。薔薇の手入れは行き届いている。屋敷の外側は、何も変わっていない。


机の上に、使用人が持ってきた書簡が一通あった。公文書館からの受理通知。


開封していなかった。


開封する必要がなかった。中身はわかっている。


グレンは窓の外を見ていた。


何も言わなかった。


何も言えなかった。


屋敷の廊下を歩く使用人の足音が聞こえた。以前より少ない足音。辞めた者もいる。残った者も、足取りがどこか硬い。


グレンは窓から離れなかった。



同じ屋敷の、別の部屋。


リゼットは自室の椅子に座っていた。


膝の上に、両手を重ねていた。


あの帳簿は、棚に戻してある。兄の書斎から持ち出した、シルヴィアの社交記録。


三年分の記録。一頁も欠けることなく、一行の書き損じもない帳簿。


あれを読んだ夜から、わかっていた。


わたしにはできない。


兄の隣に立つことで得られた場所は、最初から、わたしの力で守れるものではなかった。


「わたしは最初から、あの場所にいるべきではなかったのかもしれない」


声は小さかった。


泣かなかった。


泣けなかった。


窓の外が暗くなっていく。ランプの灯りが、膝の上の手を照らしていた。


婚約者ではなくなった。


庶子としての部屋に、庶子としての立場に、戻った。


それだけのことだった。


リゼットは椅子から立ち上がった。


窓辺に歩み寄り、外を見た。


庭の薔薇が、夕闇の中でぼんやりと浮かんでいた。



エルデシア王宮。東翼の私室。


国王アルベルトは窓辺に立っていた。


手元にマルコからの報告書がある。クレーネの町の状況。宿の経営。女将の人柄。簡潔に、事実だけが記されていた。


報告書を読み終え、窓の外に目をやった。


夕暮れの空が、王都の屋根の向こうに広がっている。東に伸びる街道は、もう影の中に沈みかけていた。


壁の肖像画に目をやった。第二王妃の若き日の顔。穏やかな目。


「……あの子の選んだ場所か」


呟いた。


否定も肯定もしない声だった。だがその目の奥に、亡き第二王妃の面影を見ているような色があった。


国王は報告書を引き出しにしまった。


窓の外では、最後の夕光が街道の先に沈んでいくところだった。


東の街道。その先に、小さな町がある。銀の鈴が掛かった扉のある宿がある。


国王はしばらく窓の外を見ていた。


やがて窓から離れ、机に向かった。ランプの芯を短くした。灯りが落ちる。


肖像画の顔が、薄い影の中に沈んでいった。


私室に静けさだけが残った。


(完)


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― 新着の感想 ―
第2章がこんなにたっぷり読めるなんて!最高でした! シルヴィアとレナートの交流が奥ゆかしくてたまりません 陛下がどう動いていくのかも楽しみです リゼットちゃん結構好きなので切なかったです これからも応…
結局この2人はどうなったのか、後日談を読みたいです 余韻を楽しんでくださいにしては、殿下がこのあと平民にくだるのか、他国の元侯爵令嬢なら身分も合うので王子妃として迎えるのか、そのあたりがもやります。
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