圧倒的な称賛と、自分だけのモノサシ
「塩むすびの味は、どうだった」
不意に背後から声をかけられ、大和は弾かれたように振り返った。
路地の暗がりから、陣内がゆっくりと歩み寄ってくる。手には、温かい缶コーヒーが二つ握られていた。
「陣内さん……見てたんですか」
「途中からな。ほらよ」
放り投げられた缶コーヒーを受け取ると、冷え切った手に心地よい熱が伝わってきた。大和は泥だらけのズボンの膝を払い、慌てて立ち上がった。
陣内は空っぽになったトマトの段ボール箱を一瞥し、そして、大和がマジックで書き殴ったあの段ボールの切れ端を見つめた。
「……合格ですか?」
大和が恐る恐る尋ねると、陣内はふっと息を吐き、視線を大和の顔に戻した。
その目は、昼間のような冷酷な刃ではなかった。静かで、しかし確かな熱を帯びた、深い承認の眼差しだった。
「ただ売り切っただけなら、不合格にするつもりだった。だが、お前は腐りかけのトマトの価値を自分なりに再定義し、それを必要とする人間を見つけ出し、自分の言葉で届けた。プライドを捨てて地べたに這いつくばり、泥にまみれてな」
陣内は一歩、大和に近づいた。
「よくやった。本当に、よくやったな、大和」
低く、しかし力強い声だった。
それは単なる労いではなく、大和の「行動そのもの」に対する、圧倒的で情熱的な称賛だった。
大企業の面接官から「優秀ですね」と評価された時とは全く違う、魂の根底を揺さぶられるような強烈な肯定感。大和の目から、堪えきれずに涙がボロボロとこぼれ落ちた。
「俺……必死でした。内定のこととか、世間の目とか、途中からどうでもよくなって。ただ、目の前の人に、このトマトの本当の価値をわかってほしくて……」
嗚咽を漏らしながら語る大和の肩を、陣内は力強く叩いた。
「それが、自分の足で立つということだ。他人の用意したレールに乗っているうちは、世間や不祥事に怯え続けるしかない。だが、今日お前が泥まみれになって見つけた価値は、神崎修司のスクープだろうが、世間のバッシングだろうが、絶対に奪えない」
陣内は、段ボールの切れ端を指差した。不格好な文字で書かれた、手作りのポップ広告。
「他人が作った『大企業』という定規は折れた。だが、その段ボールの切れ端……それが、今日からのお前の新しい定規だ。見栄えが悪くてもいい。自分が信じた価値を、自分の手で形にしろ」
大和は涙を拭い、段ボールの切れ端を両手でしっかりと握りしめた。
数日前まで、自分は全てを失った空っぽの人間だと思っていた。だが今は違う。自分の中には確かに、泥臭く這い上がる熱と、自ら価値を生み出す力が宿っている。
「……はい。俺、もう一度最初からやってみます。世間体じゃなくて、自分が本当にやりたいと思える泥臭い仕事を探します」
大和の顔から、もう被害者特有の暗い影は消え去っていた。真っ直ぐに前を見据えるその瞳は、夕闇の中でも力強く光を宿している。
陣内は満足げに鼻を鳴らすと、タバコを取り出して火をつけた。
「ここはもう、お前のような奴が長居する場所じゃない。俺の劇薬は打ち止めだ。さっさと行け」
「陣内さん……! 本当に、ありがとうございました!」
大和は直角に腰を折り、深く、長いお辞儀をした。
そして、段ボールの切れ端を大事そうにカバンにしまうと、東京の冷たい夜風の中を、確かな足取りで歩き出した。振り返ることはなかった。
陣内は紫煙を細く吐き出しながら、若者の背中が見えなくなるまでその場に立ち尽くしていた。
「……うるさい奴が一人減って、せいせいしたぜ」
独り言のように呟いた陣内の口元には、かすかな笑みが浮かんでいた。
神崎修司が振りかざす眩しすぎる正義の光。その光が落とす濃い影の中で、今日また一つ、小さな命が自らのモノサシを手に入れ、再生を果たした。
だが、世界にはまだ、理不尽な定規に縛られ、行き場を失った迷い人たちが溢れている。
陣内は携帯灰皿にタバコを押し付けると、再び足立区の喧騒の中へと姿を消した。
次なる絶望に、容赦なき劇薬と、圧倒的な称賛を届けるために。




