理不尽な現場と、血肉になる経験
「トマト、いかがですか! お安くなってます!」
声を張り上げても、現実は甘くなかった。
大和の必死の呼びかけは、夕暮れ時の忙しない足立区の商店街に虚しく吸い込まれていく。通行人は一瞥をくれるだけで、誰も立ち止まらない。
開始から三時間が経過していた。喉は枯れ、足は棒のようになり、ワイシャツは汗とホコリで薄汚れている。
箱の中の熟れすぎたトマトは、まだ半分以上残っていた。
「……くそっ、なんで売れないんだよ」
大和は忌々しげにトマトを睨みつけた。
大学のゼミで学んだ消費者行動のフレームワークや、面接官を感心させた流暢なプレゼン術を頭の中でなぞってみる。だが、目の前の足早に歩く主婦や、自転車を立ち漕ぎする学生には、そんな机上の空論は一ミリも通用しなかった。
店番の老人が、パイプ椅子に座ったまま鼻を鳴らした。
「声だけデカくても駄目だ。お前の声には『買ってくれ』っていう自分の都合しか乗ってねえ。客は、お前の哀れな事情なんざ知ったこっちゃないんだよ」
痛いところを突かれ、大和は唇を噛んだ。
陣内にも同じことを言われた。「目の前のトマトがどんな味で、それをどうやって客に届けるか考えていない」と。
大和は改めて、売り物のトマトを手に取ってみた。
一部が黒ずみ、皮はブヨブヨに柔らかくなっている。見栄えは最悪だ。スーパーの綺麗にパッケージされた野菜に慣れた都会の人間が、わざわざこれを買おうとは思わないだろう。自分だって、サラダには絶対に使いたくない。
(サラダには、使いたくない……?)
その瞬間、大和の頭の中で何かが繋がった。
生で食べるには適さない。だが、これだけ熟れて柔らかくなっているということは、裏を返せば「甘みが増して、すぐに火が通る」ということではないか。
大和は慌てて老人に振り返った。
「あの、マジックと段ボールの切れ端、貸してもらえませんか!」
老人は怪訝な顔をしたが、無言でレジ裏からマジックと破れた段ボール箱を放り投げた。
大和は地べたにしゃがみ込み、スーツの膝が汚れるのも構わず、不格好な文字を書き殴った。
『見た目は悪いですが、中身は完熟です。水なしで煮込むだけで、絶品のトマトカレーやパスタソースになります! 忙しい今日の夕飯にどうですか?』
綺麗なキャッチコピーではない。ただ、自分が気づいた「このトマトの本当の価値」と、「それを必要としているであろう人」を想像して書いた、泥臭いメッセージだった。
大和はその段ボールの切れ端を箱の前に立てかけ、呼びかけ方を変えた。
「完熟トマトです! 生では美味しくありませんが、煮込み料理なら最高のダシが出ます! 切って煮るだけ、夕飯の時短にいかがですか!」
自分の内定取り消しの悲劇も、世間の目も、大企業の看板も、大和の頭からは完全に消え去っていた。ただ目の前の、見栄えは悪いが価値のあるトマトを、誰かの食卓に届けたい。その一心だった。
十分後。
自転車を押しながら歩いていた、くたびれた表情の小柄な女性がピタリと足を止めた。保育園のバッグをカゴに乗せている。
「あの……これ、本当にすぐソースになるんですか? 子供がカレーなら食べるんですけど、今日はもう作る気力がなくて……」
「なります!」
大和は食い気味に身を乗り出した。
「これだけ熟れてるので、包丁を入れたらすぐに崩れます。悪い部分だけ削ぎ落として、ひき肉と一緒に煮込めば、ルーを使わなくても甘くてコクのあるトマトカレーになります。絶対に、お子さんも喜びます」
大和の言葉には、不思議なほどの熱と確信がこもっていた。
女性は少し驚いたように大和の目を真っ直ぐに見つめ返し、やがてふっと微笑んだ。
「……じゃあ、一袋もらえる? お兄さんの熱意に負けたわ」
「ありがとうございます!」
女性から受け取った数百円の硬貨。
それは、大和が自分の人生で初めて、会社の看板でも学歴でもなく、自分自身の頭で考え、自分の足で行動して稼ぎ出した「価値」だった。硬貨の冷たい感触が、手のひらを通して胸の奥を熱く焦がした。
その小さな成功体験を皮切りに、大和の目は完全に変わった。
夕飯の買い物客が増える時間帯、大和は客の顔ぶれを見ながら、時には「ミネストローネに」、時には「そのまま冷凍して氷代わりに」と、不格好なトマトの活路を必死に提案し続けた。
すっかり日が落ち、商店街の街灯が点き始める頃。
「……ありがとうございました!」
大和の深いお辞儀とともに、最後のひと袋が常連らしき老婦人の手へと渡った。
空っぽになった段ボール箱を見下ろし、大和はその場にへたり込んだ。ワイシャツは汗で肌に張り付き、革靴は泥だらけだ。全身の筋肉が悲鳴を上げている。
だが、不思議と心は羽のように軽かった。
「内定取り消しの哀れな学生」という重苦しい殻が、汗とともに少しだけ流れ落ちたような気がした。
「……ほらよ、売り切った報酬だ」
頭上から声が降り、ラップに包まれた不格好な塩むすびが二つ、ポンと膝の上に落ちてきた。
見上げると、店番の老人が相変わらず仏頂面で立っていた。
「声はデカいし邪魔だったが……まあ、悪くない目つきになったじゃねえか」
大和は泥だらけの手をズボンで乱暴に拭い、まだ温かい塩むすびにかぶりついた。
具も何もない、ただの塩と米。だが、これまでの人生で食べたどんな高級な食事よりも、それは臓腑に染み渡るほど美味かった。
涙腺が緩みそうになるのを必死に堪えながら塩むすびを頬張る大和の姿を、少し離れた路地の暗がりから、陣内が静かに見つめていた。




