裏の再生屋と、逃げ道を塞ぐ劇薬
渡されたファイルに記されていたのは、東京都足立区の端にある、シャッターが目立つ寂れた商店街の住所だった。
「丸善青果」
六本木のきらびやかな高層オフィスに通うはずだった大和にとって、そこはまるで別世界のように思えた。
翌朝、大和は重い足取りで指定された場所へ向かった。
たどり着いたのは、色褪せた日よけテントが風に揺れる小さな八百屋だった。店頭には、形が不揃いなトマトや、少し傷のついた野菜が無造作に並べられている。店番をしているのは、不機嫌そうに新聞を読む、エプロン姿の白髪の老人だけだった。
「……あの、陣内さんに言われて来ました。桐谷大和です」
老人は新聞から目を離さず、鼻で笑った。
「ああ、あの野郎が寄越した坊ちゃんか。そこに立ってろ。客が来たら声を出すんだ。この箱のトマトを売り切るまで、昼飯は抜きだからな」
それが、大和の「研修」の始まりだった。
大学で学んだ最新のマーケティング理論も、面接で鍛え上げた自己PRも、ここでは何の役にも立たなかった。
「いらっしゃいませ」と蚊の鳴くような声で言っても、足早に通り過ぎる主婦や老人たちは、大和を怪訝そうに見るだけだ。大和の心には、羞恥心と惨めさが渦巻いていた。
(なんで俺が、こんなホコリっぽい街でトマトなんか売らなきゃいけないんだ。俺はもっと、大きくて価値のある仕事をするはずだったのに……)
昼過ぎ。商店街のアーケードの柱に寄りかかるようにして、一人の男が立っていた。陣内だった。
彼はタバコの煙を細く吐き出しながら、大和の惨状を冷ややかに眺めている。
「……陣内さん。やっぱり無理ですよ。俺、こういうのは向いてないし、もっと……」
「もっと、お前にふさわしい高度な仕事があるはずだ、か?」
陣内の声が、大和の言い訳を鋭く遮った。その目は、昨日よりもさらに冷酷に大和を射抜いている。
「お前はさっきから、道行く人間の目も見ずに、自分がどう見られているかばかり気にしている。お前の頭の中にあるのは『内定を取り消された哀れなエリート』という悲劇の主人公の物語だけだ。目の前のトマトがどんな味で、それをどうやって客に届けるか、そんなことは微塵も考えていない。違うか?」
大和は絶句した。自分の薄っぺらいプライドを見透かされたような感覚に、背筋が凍る。
「神崎修司のスクープを恨むのは勝手だ。だが、お前が今ここでトマト一つ売れないのは、神崎のせいじゃない。お前自身の問題だ。お前は『ITベンチャーの内定者』という看板がなければ、通行人に声をかけることもできない。お前自身には、中身が何一つないんだよ」
陣内の言葉は、容赦なく大和の自尊心を粉砕した。
大和は拳を握りしめ、地面を睨みつけた。悔しさと情けなさで視界が滲む。
「……あんたに、俺の何がわかるんだよ」
「わからないさ。だが、一つだけ断言してやる。お前がその、世間という『他人の定規』を捨てない限り、お前は一生、他人の不祥事や社会の都合で人生を壊され続ける。自分がどうありたいか。何を成したいか。そのモノサシを自分で握れ」
陣内は吸い殻を携帯灰皿にしまい、踵を返した。
「今日中に、その傷んだトマトを全部売ってみせろ。一言でも『内定取り消し』だの『理不尽』だのと言い訳したら、その時点で終わりだ。お前の人生は、本当にそこでゲームオーバーだ」
陣内はそれだけ言い残すと、人混みの中へと消えていった。
残されたのは、箱いっぱいの熟れすぎたトマトと、打ちひしがれた大和だけ。
東京の空はどこまでも高く、無機質だった。世界は残酷で、正義は常に誰かを踏みつけながら進んでいく。
だが、その見捨てられた街の片隅で、大和は初めて「自分」という空っぽな存在と向き合い始めていた。
「……トマト、いかがですか!」
ひび割れた声で、大和は再び叫んだ。
それは、彼が生まれて初めて、誰の評価でもない、自分自身の意志で踏み出した、不格好な一歩だった。




