0.1パーセントの痛みと、泥臭い命の現場
陣内に渡されたメモを頼りに、長谷川がたどり着いたのは、墨田区の古びた商店街の外れにある「ひまわり訪問看護ステーション」だった。
入り口の引き戸は立て付けが悪く、中からは消毒液と湿布の匂いが漂ってくる。大理石が敷き詰められた大学病院のロビーとは、あまりにもかけ離れた世界だった。
「アンタが、陣内さんが言ってた見習いかい?」
白衣ではなく、動きやすいポロシャツとチノパン姿の恰幅の良い女性が、怪訝そうに長谷川を上から下まで舐め回した。このステーションの所長であるベテラン看護師、武田だ。
長谷川は反射的に、営業スマイルを浮かべて名刺を取り出そうとした。
「あ、はい。私、東央ファーマでMRをしておりました長谷川と……」
「名刺はいらないよ。ここは名刺で仕事する場所じゃない。それに、そのブランド物のスーツと革靴、今すぐそこの更衣室でジャージにでも着替えてきな。邪魔で仕方ない」
武田の冷たいあしらいに、長谷川は頬を引きつらせた。
病院の医師たちは皆、長谷川の仕立ての良いスーツと洗練されたマナーを褒め称えてくれたものだ。だがここでは、自分の武器が何一つ通用しない。
着替えて出てきた長谷川に、武田は大人用のおむつが詰め込まれた巨大な段ボール箱と、点滴のパックが入った重いクーラーボックスを押し付けた。
「さあ、行くよ。今日は午前中だけで五件回るから、遅れないでついてきな」
電動自転車のペダルを立ち漕ぎする武田の後を、長谷川は重い荷物を抱えて必死に追いかけた。
夏の刺すような日差しと、アスファルトからの照り返しで、安物のジャージはすぐに汗で肌に張り付いた。エアコンの効いた社用車で移動していた頃には想像もつかない重労働だった。
一件目、二件目と回るうち、長谷川は医療の「最底辺」の現実を目の当たりにした。
そこには、綺麗な病院のベッドで静かに横たわる患者はいなかった。狭く散らかった四畳半で、認知症の配偶者を老老介護する老人。床ずれの痛みに顔を歪める寝たきりの患者。排泄物の臭いと、生活の困窮が入り混じる、生々しく泥臭い「命の現場」が広がっていた。
「武田さん……少し、休憩を……」
三件目のアパートを出たところで、長谷川は膝に手をついて荒い息を吐いた。
「バカ言ってるんじゃないよ。次の佐藤さんは、先週から急に状態が悪化して、食事が喉を通らなくなってるんだ。急ぐよ」
佐藤という名の高齢男性が暮らす木造アパートに入った瞬間、長谷川は思わず鼻を覆いそうになった。胃液の酸っぱい臭いが部屋に充満していたのだ。
布団の上に横たわる佐藤は、骸骨のように痩せこけ、苦しそうに浅い呼吸を繰り返していた。
「佐藤さん、武田ですよ。具合はどうですか」
武田が優しく背中をさすると、佐藤は掠れた声で呻いた。
「武田さん……胃が、焼けちぎれるみたいに痛いんだ……。あの新しい薬に変えてから、ずっと吐き気が止まらなくて……」
武田の顔が険しくなった。彼女は枕元に置かれた薬袋を手に取り、中身を確認する。
「やっぱり……大学病院の先生が出したこの薬、すぐに服用を止めさせた方がいい。最新の特効薬だって触れ込みだったけど、胃粘膜への副作用が強すぎるんだ」
武田が手にしたその薬のパッケージを見た瞬間、長谷川の全身の血の気が引いた。
見間違えるはずがなかった。それは、東央ファーマが社運を賭けて開発し、長谷川がトップの成績で全国の病院に売りさばいていた新薬「アルモクス」だったのだ。
「……副作用の確率は、臨床データ上、わずか0.1パーセント未満……安全性の高い、画期的な新薬です……」
長谷川の口から、かつて医師に向けて放っていたセールストークが、無意識にこぼれ落ちた。
武田は鋭い視線を長谷川に向けた。
「アンタ、今なんの冗談を言ったんだい?」
「あ……いえ……」
「0.1パーセント? データ上? ふざけるんじゃないよ!」
武田の怒号が、狭い部屋に響き渡った。
「アンタたち製薬会社の人間や、上から目線の医者にとっては、ただの『0.1パーセントの誤差』かもしれない。でもね、その0.1パーセントを引き当てて、今ここで胃を焼き切られるような痛みに苦しんでいる佐藤さんにとっては、それが『100パーセントの現実』なんだよ!」
長谷川は、ハンマーで頭を殴られたような衝撃を受けた。
『患者の命を、お前はただのエクセル上の売上数字としてしか見ていなかったんだ』
昨夜、陣内に路地裏で突きつけられた言葉が、再び脳内でフラッシュバックした。
自分が「安全です」と自信満々に語り、営業成績のグラフを右肩上がりに伸ばしていたその裏側で。改ざんされたデータによって隠蔽されていた「0.1パーセントの副作用」に苦しむ人間が、確かにここにいたのだ。
自分の売った薬が、人を救うどころか、目の前でこの老人の命を削っている。
「う、あ……」
長谷川はたまらず部屋を飛び出し、アパートの外の側溝に向かって激しく嘔吐した。
胃液だけが込み上げ、涙と鼻水が顔中をぐしゃぐしゃに汚した。
「綺麗なスーツを着ていれば、自分の手が汚れていることに気づかずに済む。便利なシステムだ」
吐き気を堪えてしゃがみ込む長谷川の背後に、陣内が立っていた。
いつから見ていたのか、彼はいつもと同じように無感情な瞳で、路地裏のコンクリートを見下ろしていた。
「陣内さん……俺は……俺が、あの人を苦しめていた……」
長谷川は泥だらけの地面に手をつき、嗚咽を漏らした。
「そうだ。お前が売った薬が、その老人を殺しかけている。データ改ざんを知らなかったという言い訳は、現場の痛みには一ミリも通用しない。それが、お前が見ようとしなかった事実の重さだ」
陣内は吸い殻を携帯灰皿にしまい、長谷川の襟首を掴んで強引に引きずり起こした。
「泣いて罪悪感に浸る暇があるなら、自分のケツは自分で拭け。お前が売った毒の責任を、お前自身の足で償ってみせろ」
容赦なく突きつけられた、逃げ場のない現実。
それは、長谷川の薄っぺらいエリートのプライドを根底から破壊する、致死量の劇薬だった。
しかし、その絶望のどん底で、長谷川の目には初めて「数字ではない、本当の命の輪郭」が映り始めていた。




