泥まみれの土下座と、生きた知識
「……武田さん。佐藤さんの、過去のお薬手帳とアレルギーの記録、全部見せてください」
嘔吐で顔をぐしゃぐしゃにしたまま部屋に戻ってきた長谷川の目に、さきほどまでのエリートの怯えはなかった。泥にまみれ、必死に何かにしがみつこうとする、剥き出しの執念があった。
武田は無言で記録の束を差し出した。
長谷川はそれをひったくるように受け取り、凄まじいスピードでページをめくっていく。
東央ファーマのトップMRとして、長谷川が叩き込んできた薬理学の知識は本物だった。ただ、これまではそれを「どうすれば自社の薬が他社より優れていると錯覚させられるか」というプレゼンのためにしか使っていなかった。
だが今は違う。目の前で苦しむ一人の老人の命を繋ぐために、脳内のデータベースをフル稼働させていた。
「佐藤さんの現在の肝機能の数値と、このアレルギー歴……。アルモクスは胃粘膜への攻撃性が強すぎます。すぐに服用を中止して、代わりに旧型のH2ブロッカーと、粘膜保護剤の『セルファス』を併用すべきです。最新の薬じゃありませんが、佐藤さんの体質なら劇的に副作用を抑え込めるはずです」
長谷川の口から飛び出した的確な処方提案に、武田は目を見張った。
「理屈は合ってる。でもね、佐藤さんの主治医は、大学病院の及川内科部長だよ。プライドの塊みたいなあの先生が、訪問看護師からの薬の変更提案なんて、簡単にウンと首を縦に振るわけないじゃないか」
及川。
その名前を聞いて、長谷川の肩がビクッと震えた。昨日、長谷川の顔にカルテを投げつけ、「白衣を着た詐欺師」と罵倒したあの医師だ。
「……俺が、言います。俺が及川先生に、薬の変更を直談判します」
長谷川の言葉に、武田は呆れたようにため息をついた。
「アンタねえ、どのツラ下げてあそこに行く気だい。昨日追い出されたばかりだって自分で言ってたじゃないか。それに、そんな泥だらけのジャージ姿で」
「関係ありません! このままじゃ、佐藤さんの胃が本当に壊れてしまう。及川先生が大学病院にいるなら、今から走って行きます!」
長谷川は佐藤の手を一度だけ強く握ると、アパートを飛び出した。
夏の猛暑の中、長谷川はアスファルトを蹴って走り続けた。
息が上がり、心臓が破裂しそうだった。汗が目に入り、泥で汚れたジャージは重くまとわりつく。
昨日までは、タクシーの冷房を効かせてスマートに移動していた道だ。だが、今の長谷川の頭には、自分の見栄も、世間の目も、会社の看板もなかった。
ただ、佐藤の苦しむ顔だけが焼き付いていた。
大学病院の内科外来。
診察を終え、医局に戻ろうとしていた及川の前に、泥だらけのジャージ姿で汗だくの男が立ち塞がった。
「及川先生!」
「……君は、長谷川くんか? なんだその格好は。二度と顔を出すなと言ったはずだぞ! 警備員を呼ぶぞ!」
及川が嫌悪感を露わにして怒鳴る。周囲の看護師や患者たちも、異様な風体の長谷川に驚き、遠巻きに見ていた。
長谷川は床の大理石に膝をつき、額が割れるほどの勢いで土下座をした。
「先生、俺のことはどう罵っていただいても構いません! でも、お願いです。墨田区の佐藤さんの処方を、今すぐ変えてください! アルモクスが原因で、重篤な胃粘膜障害を起こしかけています!」
「はあ? 君は東央ファーマの人間だろう? 自分が売り込んだ新薬を、今度はやめろと言うのか。ふざけるのも大概にしろ!」
「俺は馬鹿でした! 数字しか見ていなかった! でも、佐藤さんにはあの薬は強すぎます。先生、お願いです。旧型のH2ブロッカーとセルファスに変えてください。俺の持っている薬理の知識のすべてにかけて、それが今の佐藤さんにとって一番安全な選択なんです!」
長谷川は土下座をしたまま、床に顔を押し付けて絶叫した。
周囲がざわめく中、及川は長谷川を見下ろして言葉を失っていた。
昨日まで、ブランド物のスーツを着こなし、涼しい顔で「最新のデータ」を語っていたエリートの面影はどこにもない。汗と泥と涙にまみれ、なりふり構わず一人の患者のために這いつくばる男の姿がそこにあった。
「……セルファスとの併用か。確かに、佐藤の体質なら胃への負担は最小限に抑えられるな」
及川は小さくため息をつくと、白衣のポケットからスマートフォンを取り出した。
「武田さんのステーションに連絡して、処方の変更を指示する。……長谷川、君が会社から与えられた『嘘のデータ』ではなく、君自身の頭で考えた提案は、少しはマシだったということだ」
「先生……! ありがとうございます……ッ!」
長谷川は床に突っ伏したまま、子供のように声を上げて泣いた。
エリートMRとしてのプライドは完全に粉砕された。だが、彼が必死に勉強してきた医療の知識は、初めて「数字」ではなく「命」を救うために使われたのだ。
数日後。
再び「ひまわり訪問看護ステーション」に同行した長谷川は、佐藤のアパートを訪れていた。
「……ああ、長谷川くん。おにぎりが、半分食べられたよ。胃の痛みも、すっかり良くなった」
少しだけ顔色の中の良くなった佐藤が、長谷川の手を弱々しく握りしめた。
武田も後ろで、腕を組みながら満足そうに頷いている。
「本当によかった……。佐藤さん、本当に……」
長谷川は佐藤の手を握り返し、再び涙をこぼした。
「泣き虫の元・エリート様だな」
アパートの外に出た長谷川を待っていたのは、陣内だった。
壁に背中を預け、タバコを吹かしている。
「陣内さん……俺……」
「医者に土下座して、薬の変更をもぎ取ったそうだな。みっともねえ泥だらけのジャージ姿で」
陣内はタバコを携帯灰皿に捨てると、ゆっくりと長谷川に歩み寄った。そして、長谷川の肩を力強く、痛いほど強く叩いた。
「最高だ。会社の看板に隠れて綺麗な言葉を並べていた頃の何百倍も、お前は今、価値のある仕事をした」
陣内の瞳には、隠しきれない情熱的な称賛の光が宿っていた。
「上から与えられたデータを鵜呑みにせず、現場の痛みを見て、自分の頭で『意味と構造』を再構築した。逃げずに、泥水すすって一人の命に責任を持ったんだ。本当によくやったな、長谷川!」
その圧倒的な肯定のシャワーを全身に浴び、長谷川の胸の奥で、燻っていたものが一気に燃え上がった。
自分が本当にやりたかったことは、営業成績のグラフを伸ばすことではなかった。自分の持っている知識で、目の前の人間の苦痛を取り除くことだったのだ。
「陣内さん。俺……会社を辞めます」
長谷川は、涙を拭いながら真っ直ぐに陣内を見つめた。
「MRの資格は残ります。俺はこれから、でかい組織の看板じゃなく、本当に現場の患者さんのためになる薬だけを、自分の足で探し出して提案する、独立系の医療コンサルタントになります。……医者の機嫌をとるんじゃない。現場の痛みに寄り添うための、俺だけのモノサシで」
長谷川の顔には、もう迷いはなかった。
神崎修司のスクープによって、彼の「大企業のトップ営業」という定規は粉々にへし折られた。だが、陣内の劇薬によって現場の泥を舐めたことで、彼は誰にも折ることのできない強靭な「自分のモノサシ」を手に入れたのだ。
「勝手にしろ。ただし、相談料はきっちり請求するからな」
陣内はニヤリと笑うと、踵を返して路地裏へと歩き出した。
「陣内さん! ありがとうございました!」
長谷川の力強い声が、夏の青空に響き渡る。
東央ファーマという巨大な城が崩壊していく焼け野原の中で、また一つ、新たな命が力強く立ち上がった。
見えない波紋は、確実に世界に広がっていた。交わることのない光と影が、それぞれの正義で世界を書き換えながら。




