裏の再生屋の誕生と、次なる標的
朝倉美紀が定食屋の厨房で泥だらけの産声を上げてから、半年が経過していた。
「オヤジさん! 今日の日替わり定食、ちょっと味付け変えてみたんですけど、どうですか?」
昼時の喧騒が落ち着いた定食屋の店内で、朝倉の明るい声が響いた。
彼女は今、この定食屋で正式にアルバイトとして働いている。かつて青白く削げ落ちていた頬には健康的な赤みが戻り、油で汚れたエプロン姿もすっかり板についていた。
「おう、前よりコクが出てて美味いじゃねえか。美紀ちゃん、料理の筋がいいな」
店主の老人が目を細めて褒めると、朝倉は「やった!」と満面の笑みを浮かべた。
店の隅のテーブル席で、陣内はその様子を静かに眺めながら、食後のタバコに火をつけていた。
ネット上の炎上は、半年も経てばすっかり別のターゲットへと移り、朝倉のことを「詐欺師の女」と呼ぶ声はもうどこにもない。だが、それ以上に変わったのは朝倉自身の心だった。
彼女はもう、かつての大企業の人事という「世間の定規」に縛られていない。目の前のお客さんにどうやって美味しいものを届けるか、どうすればこの古びた定食屋を少しでも繁盛させられるか。不格好でも、自分自身の手で価値を生み出す「自分のモノサシ」を確固たるものにしていた。
「陣内さん、お茶のおかわりいります?」
朝倉が急須を持ってテーブルにやってきた。
「いらん。長居しすぎた」
陣内は立ち上がり、伝票を手に取った。
「あの……陣内さん」
朝倉が、少しだけ真面目な顔をして陣内を見上げた。
「私、来月からこの店のメニュー開発と、近所の工場向けの宅配弁当の営業を任せてもらうことになったんです。まだまだ小さな一歩ですけど……あの時の厨房の油汚れに比べたら、なんだってできる気がして」
朝倉の瞳には、かつての被害者のような怯えは微塵もない。自らの足で立つ、力強い光が宿っていた。
陣内はしばらく朝倉の顔を見つめ、やがて短く鼻を鳴らした。
「せいぜい、オヤジさんの店を潰さないように泥水すすって働け」
冷たい言葉だったが、その奥にある深い承認の色を、今の朝倉はしっかりと読み取っていた。「はい!」という元気な返事を背中に浴びながら、陣内は定食屋を後にした。
その足で陣内が向かったのは、足立区の端にある寂れた雑居ビルだった。
家賃は格安、すきま風が吹き込む二階の空きテナント。陣内は大家から受け取った鍵を回し、ホコリっぽい部屋の中に入った。
荷物は何もない。ただ、部屋の中央に安いスチールデスクとパイプ椅子を置き、買ってきたばかりの文庫本を無造作に投げ出した。
そして、段ボールの切れ端にマジックで乱暴に書き殴った看板を、ドアの表にガムテープで貼り付けた。
『陣内再生相談所』
それが、裏の再生屋が構えた初めての城だった。
完璧な理論も、美しい組織図もない。あるのは、耳を塞ぎたくなるような現実と、人を強制的に立ち上がらせる劇薬だけ。
陣内がパイプ椅子に深く腰掛けたその時、ポケットのスマートフォンがけたたましい通知音を鳴らした。
画面を見ると、ニュースアプリの号外速報が表示されていた。
『歴史ある大手製薬会社・東央ファーマ、長年にわたる治験データの改ざんを内部告発によりスクープ』
記事の末尾には、見慣れた署名が刻まれていた。
ジャーナリスト、神崎修司。
「……またデカい花火を打ち上げやがったな」
陣内はスマートフォンの画面を見つめながら、低く呟いた。
神崎の放つ正義の光は、今回も凄まじいものになるだろう。巨大な製薬会社の不正が暴かれ、経営陣は糾弾され、社会の膿が一つ消え去る。
だが、陣内には見えていた。
その強烈な光の裏側で、真面目に研究に打ち込んでいた無実の研究員たちや、何も知らずに働いていた末端の営業マンたちが、世間のバッシングという業火に焼かれ、理不尽にすべてを奪われていく姿が。
「神崎、お前はそのまま正義の刃を振り回し続けろ」
陣内は立ち上がり、デスクの上に置きっぱなしになっていた上着を羽織った。
「その刃が切り捨てた『不良品』たちは、俺が泥沼の底で全員拾い上げてやる」
誰に聞かせるわけでもない宣戦布告。
神崎修司という光と、陣内創という影。交わることのない二つの正義が、同じ世界の中で全く別の物語を紡ぎ出し始めた瞬間だった。
足立区の寂れたオフィスを出た陣内の足取りは、これから焼け野原へと向かうとは思えないほど、力強く確かなものだった。




