最初の劇薬と、泥だらけの産声
結城の葬儀から一週間後。
陣内は、都内の古びたアパートのドアを激しく叩いていた。
「朝倉! いるのは分かってる、開けろ!」
中から返事はない。陣内は舌打ちをすると、大家から強引に借り受けた合鍵を鍵穴にねじ込み、ドアを開け放った。
むわっとした生ゴミの臭いが鼻を突く。
薄暗いワンルームの部屋は、コンビニ弁当の空き箱と脱ぎ捨てられた衣服で足の踏み場もなかった。そのゴミの山の中心で、毛布にくるまり、膝を抱えて震えている女性がいた。
「ネクスト・ステップ」で、結城の同期だった元リクルーターの朝倉美紀だ。
かつては明るい笑顔で多くの学生を勇気づけていた彼女の顔は、今は青白く削げ落ち、目の下には濃い隈ができていた。
「……本部長……?」
朝倉は、無精髭を生やし、ノーネクタイで現れた陣内の姿に戸惑いの目を向けた。
「陣内さん……私、もう外に出られないんです。ネットで私の顔写真が『詐欺師の女』って拡散されてて……実家にも帰れないし、友達からもブロックされて……もう、死ぬしかないのかなって……」
朝倉の目から、ポロポロと涙がこぼれ落ちた。
それは数週間前、電話口で聞いた結城の言葉と全く同じ、絶望と被害者意識に満ちたSOSだった。
かつての陣内なら、ここで彼女の隣に座り、「君は悪くない」「私がなんとかする」と優しい言葉をかけただろう。
だが、陣内は毛布を蹴り飛ばし、朝倉の腕を力任せに掴んで引きずり起こした。
「痛ッ……! 何するんですか!」
「死にたいなら勝手に死ね。だが、世間のせいにして悲劇のヒロインぶったまま死ぬな。結城だけで十分だ」
陣内の冷酷な言葉に、朝倉は息を呑んだ。
信じていた上司から投げつけられた思いがけない暴力的な言葉。朝倉の目に、絶望とは違う、明確な「怒り」と「混乱」の色が浮かんだ。
「ひどい……! 私たちがこんな目に遭ってるのは、会社のせいでしょ!? 私たちは騙されてただけなのに!」
「そうだ、お前は騙されてた。お前の善意は詐欺のダシに使われた。それが事実だ。だが、お前が今このゴミ溜めで腐っているのは神崎のせいでも会社のせいでもない。お前自身が、他人の評価という定規にしがみついて離さないからだ!」
陣内は朝倉を壁に押し付け、その目を真っ直ぐに射抜いた。
「『詐欺師の女』と呼ばれたら、お前の人生は終わりか? 他人がお前を不良品だと決めたら、大人しくゴミ箱に入るのか? ふざけるな。お前の価値は、ネットの匿名の連中が決めるもんじゃない」
陣内は朝倉の腕を引き、ゴミだらけの部屋から強引に連れ出した。
「来い。世間の目が怖いなら、世間の底辺まで落ちてこい」
陣内が朝倉を引きずって連れて行ったのは、彼が最近入り浸っている、場末の古びた定食屋の厨房だった。
床は油で黒く汚れ、換気扇には長年のホコリと油がこびりついている。店主の老人が、突然現れた陣内たちを見て目を丸くしていた。
「オヤジさん。こいつに、この厨房の油汚れを全部落とさせろ。タダ働きでいい」
陣内はそう言うと、朝倉にバケツとデッキブラシを押し付けた。
「な、何言ってるんですか!? なんで私がこんな……」
「ネットの炎上を気にする暇もないくらい、手を動かせ。この油汚れを完全に落とすまで、ここから一歩も外には出さない。やらないなら、さっさとあのゴミ部屋に帰って首を括れ」
陣内はそれだけ言うと、パイプ椅子に座ってタバコに火をつけた。
朝倉は泣き叫び、陣内を罵倒した。しかし陣内は一切動じず、ただ冷酷な目で彼女を見据え続けた。
逃げ場を失った朝倉は、やがて嗚咽を漏らしながら、震える手でデッキブラシを握った。
それから数時間。
定食屋の厨房には、朝倉がブラシで床を擦る音だけが響いていた。
最初は泣きながら適当に擦っていた朝倉だったが、しつこい油汚れを前にして、次第にその目に意地のようなものが宿り始めた。洗剤を変え、スポンジの硬さを選び、どうすればこの真っ黒な汚れを剥がし落とせるか、それだけを考えるようになっていた。
炎上も、世間の目も、失ったキャリアも、油まみれになって床を磨く今の彼女の頭からは完全に消え去っていた。
夕方。
「……終わりました」
汗と油と涙で顔を真っ黒にした朝倉が、荒い息を吐きながらブラシを置いた。
陣内が立ち上がり、床を見下ろす。長年の油の層が削り落とされ、本来のコンクリートの地肌が白く見えていた。素人が数時間でやったにしては、異常なほどの執念を感じる仕上がりだった。
陣内はタバコを携帯灰皿にしまい、ゆっくりと朝倉に向き直った。
「見事だ」
その一言は、地を這うように深く、そして強い熱を帯びていた。
「世間に怯えて引きこもっていたお前が、逃げずに、自分の手でこの汚れを完全に落とし切った。誰に褒められるためでもない。お前自身の意志と意地でやり遂げたんだ。本当によくやったな、朝倉」
陣内のその言葉には、かつての人事本部長のような計算された論理も、上辺だけの同情もなかった。目の前の人間の「行動」を、魂の底から全力で肯定し、称賛する強烈なエネルギーがあった。
朝倉は目を見開いた。
自分のすべてを否定されたような絶望の中から、ただ無心で床を磨いた。その泥臭いプロセスそのものを、かつて自分を最も評価してくれていた上司が、過去最大の熱量で肯定してくれたのだ。
「……あ、あぁ……っ」
朝倉の口から、子供のような嗚咽が漏れた。
彼女は油まみれの床に膝をつき、声を上げて泣き崩れた。それは、絶望の涙ではなかった。他人の定規に縛られていた自分から脱皮し、泥だらけになりながらも初めて自分の足で立った、再生の産声だった。
陣内は泣きじゃくる朝倉の背中を見つめながら、小さく息を吐いた。
(……間違っていなかった)
劇薬は、猛毒にもなるが、死にかけた心を蘇生させる唯一の手段にもなる。
極端な率直さで退路を断ち、泥臭い経験を積ませ、その行動を圧倒的に称賛する。この日、陣内の中で「リビルド・メンター」としての手法が、完全な確信へと変わった。
「泣き終わったら顔を洗え。オヤジさんがまかないを食わせてくれるそうだ。……生きるためのモノサシを、ここからもう一度創り直せ」
陣内の言葉に、朝倉は涙を拭い、力強く頷いた。
神崎修司のスクープが「ネクスト・ステップ」という会社を破壊し、結城という命を奪った。
だが同時に、その圧倒的な破壊の影で、陣内創という男は「真の再生屋」として覚醒したのだ。
決して交わることのない光と影の因果律が、静かに回り始めていた。




