綺麗な言葉の代償と、折れた心
神崎修司のスクープがもたらした破壊力は、陣内の想像を遥かに超えていた。
「ネクスト・ステップ」のオフィスは、たった数日で完全に崩壊した。
ネット上では「特定班」と呼ばれる匿名の正義の執行者たちが、社員のSNSアカウント、顔写真、実家の住所から交際相手に至るまで、あらゆる個人情報を晒し上げた。
陣内は人事本部長として、残された社員たちを守るために奔走した。
警察や弁護士と連携し、経営陣を刑事告発する準備を進めると同時に、社員たちの再就職先を必死に探した。彼らは何も知らなかった被害者なのだと、理路整然と世間に訴えようとした。
だが、陣内の得意とする「論理」や「綺麗な言葉」は、炎上という狂乱の渦の中では、一滴の水の意味も持たなかった。
世間にとって、彼らは巨悪に加担した「詐欺師」であり、正義の鉄槌を下すべきサンドバッグでしかなかった。再就職先など見つかるはずもなく、社員たちは次々と心を病み、連絡が途絶えていった。
事件から二週間後。
陣内のスマートフォンに、入社二年目の若手社員・結城から、か細い声で電話がかかってきた。
「……本部長。もう、無理です。実家の親のところにまで、嫌がらせの電話が来てるらしくて……」
結城の声は、絶望で震えていた。
かつて陣内が作った人事評価システムを誰よりも信じ、目を輝かせて働いていた青年の面影は、見る影もなかった。
陣内は電話口で、必死に優しい言葉を紡いだ。
「結城、自分を責めるな。君は何も悪くない。悪いのは逃げた社長たちだ。世間の誤解も、いつか必ず解ける。だから、今はゆっくり休め」
それは、当時の陣内がマニュアル通りに用意できた、最大限の「正解の慰め」だった。
相手の傷に寄り添い、理不尽な状況に同情し、安全な場所から綺麗な言葉で励ます。それが人事のプロとしての正しい対応だと信じていた。
「……ありがとうございます。本部長にそう言ってもらえて、少し楽になりました」
結城は力なくそう言い残し、電話を切った。
それが、陣内が結城の声を聞いた最後だった。
翌朝、結城は自宅のワンルームマンションで、自ら命を絶っているのを発見された。
遺書には「世間から人殺しのように見られるのが怖い。自分の価値がもう分からない」と書き残されていた。
数日後に行われた結城の葬儀。
陣内は、結城の両親から土下座で謝罪を求められ、親族から罵声を浴びせられた。陣内は一切反論せず、ただアスファルトに額を擦り付け続けた。
冷たい雨が降っていた。
土下座から立ち上がった陣内は、濡れたアスファルトを見つめながら、自分の無力さに打ち震えていた。
(俺のせいだ……)
経営陣の不正を見抜けなかったからではない。
結城が最後に助けを求めてきた時、自分が「優しいだけの綺麗な言葉」で慰めてしまったからだ。
「君は悪くない」「いつか誤解は解ける」
その言葉は一時的な鎮痛剤にはなっても、決して結城を立ち上がらせる特効薬にはならなかった。むしろ結城を「哀れな被害者」という箱の中に閉じ込め、世間の評価(他人の定規)という呪縛から逃げられない状態にしてしまったのだ。
『意味と構造を完璧にリンクさせろ』
かつて自分が結城に偉そうに語った言葉が、頭の中でリフレインした。
なんて薄っぺらい机上の空論だったのか。
綺麗なオフィスで、エクセルとパワポで作られた「構造」など、現実の泥沼の中では何の役にも立たない。人間が本当に絶望した時、最後に自分を支えるのは、他人が作ったシステムでも、世間体でもない。「自分自身がどう生きたいか」という、腹の底から湧き上がる熱と、泥臭い経験によって培われた「自分のモノサシ」だけなのだ。
陣内は、ずぶ濡れになったスリーピースの高級スーツを脱ぎ捨て、近くのゴミ箱に乱暴に叩き込んだ。
神崎修司というジャーナリストは、真実という名のメスで社会の膿を切り裂く。それは確かに正しいことなのだろう。
だが、そのメスが切り捨てた「無実の細胞」たちを、誰かが強引に縫い合わせ、再び血を通わせなければならない。
優しさや同情などクソくらえだ。
世間が彼らを不良品だとレッテルを貼るなら、その世間の定規を力ずくで叩き折ってやる。
耳を塞ぎたくなるような現実を容赦なく突きつけ、退路を断ち、泥沼の現場に放り込む。そして、彼らが自らの意志で不格好な一歩を踏み出した時だけ、ありったけの熱量でその命を肯定してやる。
劇薬でしか、心肺停止した人間は蘇生できない。
「……俺が、作ってやる。お前らが自分の足で立つための、泥だらけの定規を」
誰もいない雨の路地裏で、陣内は一人、血が滲むほど拳を握りしめながら誓った。
それが、無精髭を生やし、場末のオフィスで迷い人たちに毒を吐き続ける「裏の再生屋」が誕生した、誰にも知られることのない起点だった。




