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後編:氷が溶ける時


■王城


夜。

執務室。

視察資料を机へ置く。


「北部視察、ご苦労様でした」

「治水事業も順調のようですね」


王は短く答える。


「……ああ」


それだけ。

アレクシアは、次の書類へ手を伸ばした。


「来月の外交会談ですが」

「第二調整案で問題無いかと」


いつもの報告。

いつもの距離。

いつもの静けさ。


向かい側の王を見る。

変わらない。

冷静で、合理的で、感情を外へ漏らさない人。


長年、そう思っていた。

だが。

今日は違った。

視線が、こちらへ向いている。

静かに。

まっすぐ。


「……陛下?」


ほんの僅か、眉が寄る。

何かがおかしい。


その瞬間。

馬車の中の記憶が過る。

窓の外を見ていた王。

そして。

自分が、ほんの一瞬だけ視線を落とした事。


――気付かれていた?


胸が、小さく強張る。


王が立ち上がる。

アレクシアは動かない。

動けない。


近付いてくる。

何故。

思考が追いつかない。


王は普段、必要以上に距離を詰めない。

互いの境界を守る。

それが、二人の形だった。


なのに今。

一歩。

また一歩。


呼吸が、わずかに浅くなる。

逃げるべきか。

いや、何故逃げる。

自分は王妃だ。

何も問題は無い。

何も。


そう思った直後。

ふわり、と。

抱きしめられた。

体が、反射的に強張る。


「……っ」


声が出ない。

熱。

人の体温。

あまりにも久しぶりだった。


指先が震える。

どうして。

理解できない。


声が、すぐ近くで響く。


「そなたのことを」


掠れていた。

それが、妙に胸へ刺さる。


「知りたいと思った」


呼吸が止まる。


「何が好きか」

「何を見ているのか」

「何を考えているのか」


静かな声。

責めてもいない。

問い詰めてもいない。

ただ、知りたいと。

それだけを言っている。


何も返せなかった。

胸の奥が、ぐらぐら揺れる。


駄目だ。

こんなふうに、感情を動かしてはいけない。


幸福は危険だ。

昔からそうだった。

心が満たされるほど、祝福は強くなる。

だから閉じ込めた。


笑わない。

望まない。

期待しない。

そうして、生きてきた。


なのに。

今。


胸の奥が、ほんの少し温かい。


それが、怖かった。

怖くて。

泣きそうになるほど。


長い沈黙。

抱きしめ返す事はできない。

やり方が分からない。

でも。

拒絶も、したくなかった。


迷って。

迷って。

そして。

指先だけが、ほんの少し、王の服を掴む。


あまりにも小さな、けれど確かな歩み寄り。


抱きしめる腕が、わずかに強くなる。

それだけで、胸がまた揺れる。


駄目なのに。

アレクシアは、静かに目を閉じた。



■しばらく後


ソファ。

少しだけ距離を空けて、二人は座っていた。


沈黙。


暖炉の火だけが揺れている。


アレクシアは、膝の上で手を組む。

白い指先が、僅かに力んでいた。


言うべきではない。

ずっと、そう思っていた。


この話をすれば、相手は変わる。

恐れる。

距離を取る。

壊れる。

だから、誰にも言わなかった。


だが。

先程の言葉が、頭から離れない。


――知りたいと思った。


静かに息を吸う。

怖い。

十歳の夜みたいに。

世界が変わってしまう気がした。

それでも。


「……陛下」


声が、少し震える。


「お話しなければならない事があります」


王が静かに視線を向ける。

逃げられなくなる。

今ならまだ、黙っていられる。


なのに。


ゆっくり、唇を開いた。


「私は……昔」

「妖精の祝福を受けていました」


暖炉の火が、ぱちり、と鳴る。


王は何も言わない。

急かさない。

遮らない。


その静けさが、逆にアレクシアを逃がさなかった。

膝の上で組んだ指先へ、更に力が入る。


「第三王女として生まれた時」

「妖精王の祝福を受けたと……言われていました」


淡々と。

まるで、他人の話を読むみたいに。


「天候が安定し」

「作物は育ち」

「病も減った」


視線を落とす。


「皆、喜んでいました」


そこまでは、幸福な記憶だった。

だから逆に、続きを語る喉が重い。


「十歳の誕生日の日」

「……祝福が変質しました」


王の眉が、ほんの僅か動く。


「感情の高まりに呼応して、魅了が発現したそうです」


“そうです”。


まるで、自分の出来事じゃないみたいな言い方。

けれど。

そうでもしなければ、口にできなかった。


「笑っただけで、人が倒れました」


脳裏へ蘇る。

悲鳴。

泣き声。

熱に浮かされた瞳。

“アレクシア様”。


あの声。


呼吸が、ほんの少しだけ乱れる。


「魅了された貴族達が、暴動を起こしました」


「…………」


「国が壊れかけたんです」


静かな声だった。

泣いていない。

震えてもいない。

けれど。

感情を押し潰し続けた人間特有の、薄く張った氷みたいな危うさがあった。


「だから父は、私を矯正しました」


笑うな。

期待するな。

幸福を求めるな。

感情を凍らせろ。


「……そうしなければ、また誰かを壊すから」


そこで、初めて王を見る。


怖かった。

今この瞬間。

王の目が変わる事が。


嫌悪。

恐怖。

警戒。

どれでもおかしくない。

だからアレクシアは、先に言った。


「安心してください」


癖みたいに。


「現在は、ほとんど影響はありません」

「隣国へ来てから、祝福は大きく弱まりました」

「ですので、国家運営への支障は――」


「アレクシア」


言葉が止まる。

王が、初めて名前を呼んだ。


“王妃”でも、

“そなた”でもなく。


アレクシア。

その響きだけで、胸が揺れる。


「お前は」


沈黙。


「……ずっと、 一人で怯えていたのか」


息が止まる。

目を見開く。


違う。

違う、そこじゃない。

恐れるべきは祝福だ。

危険性だ。

管理だ。


なのにこの人は。

そこを見ていない。


喉が、小さく震える。

言葉が出ない。


「誰にも言えず」

「感情を殺し続けて」

「何十年も」


静かな声だった。

責めるでもない。

哀れむでもない。


ただ。

今ようやく、目の前の人間へ触れたみたいな声。

アレクシアは、耐えきれなくなる。


視線を逸らす。

胸の奥が痛い。

こんなの、知らない。

理解される事が、こんなに苦しいなんて。


「……慣れています」


やっと出た声は、少し掠れていた。


「もう、問題ありません」


いつもの言葉。

自分へ言い聞かせ続けた言葉。

だが。

王は静かに首を横へ振る。


「問題が無い人間は」

「そんな顔をしない」


その瞬間。

アレクシアは、初めて気付いた。

自分が今、どんな顔をしているのかを。


反射的に顔へ触れた。

冷たい指先。

けれど。

頬が、僅かに熱い。

呼吸が浅い。

胸が苦しい。


何十年も、表情を管理してきた。

感情を制御してきた。


なのに。

今。


自分がどんな顔をしているのか、分からない。


王は何も言わない。

ただ、静かにこちらを見ている。

逃げ場が無かった。


沈黙。

暖炉の火だけが揺れる。


ゆっくり視線を落とした。


「……昔」


声が小さい。


「羨ましかった事があります」


言った瞬間、自分で驚く。

こんな話を、誰かへした事は無かった。


王は黙って聞いている。

止めない。

だから、続いてしまう。


「庭園で、侍女達が話していたんです」


遠い記憶。

まだ、矯正される前。


「好きな人と結婚して」

「子供が生まれて」

「喧嘩して」

「でもまた仲直りして」


静かに笑いそうになって。

途中で止める。

癖だった。

感情が動くと、まず止める。


「……そういうのを」


言葉が途切れる。

胸の奥が、じくじく痛む。


「少しだけ」

「いいな、って」


その瞬間。

何かが、決壊したみたいだった。


俯く。

長い白銀の髪が、表情を隠す。


「ですが」

「私には無理でした」


声が震える。


「好きになれば、壊してしまうかもしれない」

「幸せになれば、また誰かを狂わせるかもしれない」


「だから」


息が詰まる。


「だから私は、何も望まないようにして――」


最後まで言えなかった。

王の手が、そっと重なる。


静かだった。

捕まえるでもなく、止めるでもなく。

ただ、そこにある。


アレクシアは、固まる。

こんなふうに、誰かが触れてくる事なんて、ほとんど無かった。


恐れられてきた。

壊れる事を、怖がられてきた。


だから。

こんなふうに、普通に触れられるだけで、胸が苦しい。


王が低く言う。


「……私は」


少しだけ、言葉を探すように止まる。


「お前の事を、何も知らなかった」


指先が、小さく揺れる。


「優秀で」

「冷静で」

「完璧な王妃だと思っていた」


静かな声。


「だが違った」


暖炉の火が、ぱちりと鳴る。


「お前はずっと、怯えながら生きていた」


その言葉が、胸へ刺さる。


ゆっくり目を閉じた。

否定できない。

ずっと怖かった。


幸福が。

感情が。

人を好きになる事が。


だから空っぽになった。

空っぽのまま、生きてきた。


王が、ほんの少しだけ苦く笑う。


「……私は王だぞ」


アレクシアが目を開ける。


「国家規模の問題くらい、今さら一つ増えても驚かん」


思わず、息が止まる。


冗談だった。

たぶん、不器用な。

この人なりの。


呆然と王を見る。

そして。

喉の奥から、小さな音が漏れた。


「……ふ」


止まる。

自分で、信じられなかった。

今。

笑いかけた。


その瞬間。

顔から、血の気が引いた。

息が止まる。


まずい。

反射的に、手を引こうとする。


感情を動かすな。

笑うな。

幸福を許すな。

何十年も、身体へ刻み込んできた警告が、一気に脳内を駆け巡る。


だが。

手は離れなかった。

強く掴む訳でもなく。

逃がさない訳でもなく。

ただ、静かにそこにある。


「……大丈夫だ」


低い声。

アレクシアは、震える瞳で王を見る。


「で、ですが……」

「何も起きていない」


暖炉の火が揺れる。

部屋も。

空気も。

世界も。

何も変わらない。


誰も狂わない。

誰も壊れない。

王は、静かに続けた。


「少し笑ったくらいで、私は消し飛ばん」


そこで、ほんの僅かだけ口元が緩む。

ぎこちない。

不器用な。

けれど確かに、笑っていた。


目を見開く。

この人が、こんな顔をするなんて。

知らなかった。

ずっと隣にいたのに。


胸の奥が、じんわり温かくなる。

怖い。

でも。

少しだけ、嬉しい。


その感情を認識した瞬間、また恐怖が顔を出す。

だからアレクシアは、俯きながら呟いた。


「……私は」

「幸福が、怖いのです」


正直な言葉だった。

王は、少し考えるように沈黙する。

それから。


「なら」


静かな声。


「少しずつ慣れていけばいい」


ゆっくり顔を上げる。


「急に変わる必要は無い」

「笑えなくてもいい」

「怖くてもいい」


暖炉の光が、王の横顔を柔らかく照らしていた。


「だが」

「一人で抱え込むのだけは、もうやめろ」


胸が、また揺れる。

泣きそうだった。

けれど、泣き方を忘れていた。


だから代わりに。

恐る恐る。

本当に恐る恐る。

王の手へ、自分の指を重ねる。


少しだけ。

ほんの少しだけ。

王の指先が、静かに握り返した。


その瞬間。

胸の奥で、凍っていた何かが、ほんの僅かに溶けた気がした。



■深夜・王城


窓の外。

静かな夜。

遠くで、衛兵の足音だけが聞こえる。


執務室の暖炉は、小さく火を残していた。


ソファ。

二人の間には、まだ少し距離がある。

けれど。

以前のような、冷え切った沈黙ではなかった。


アレクシアは、カップを両手で包む。

温かい。

向かい側。

王もまた、珍しく書類を開いていない。


会話は多くない。

時折、ぽつりと言葉を交わすだけ。


「……紅茶、冷めますよ」

「そうだな」


それだけ。

それだけなのに。


不思議と、静寂が苦しくなかった。

そっと窓の外を見る。


昔。

幸福は、恐怖だった。


でも今。

ほんの少しだけ。

この静かな時間を、失いたくないと思っている自分がいた。


胸の奥が、微かに温かい。

怖いくらいに。


けれど。

その夜。

王城は何も壊れなかった。


ただ静かに、冬の夜が更けていった。



■王城・中庭回廊


春。

昼下がり。

柔らかな風。

アレクシアは、侍女を伴って回廊を歩いていた。


午後の公務まで、少しだけ時間が空いている。

遠くから、城下町の鐘が聞こえた。

穏やかな昼だった。


ふと。

回廊の向こうで、侍女達の小さな笑い声が聞こえる。


「聞きました?」

「第二子の件でしょう?」

「王妃様、最近すごく雰囲気柔らかいですよねぇ」


ぴたり。

足が、ほんの少し止まる。

侍女達は、こちらに気付いていない。


「この前なんて、陛下に耳元で何か言われて……」

「真っ赤になってましたよね!」

「見ました見ました!」


きゃっ、と笑い声。


ぴくり。

背後の侍女が、わずかに眉を跳ねる。


「……王妃殿下」


小さな声。

窘めますか、と問う響き。


数秒だけ沈黙した。

昔なら。

即座に処分していたかもしれない。

王妃を噂するなど、規律としては好ましくない。


けれど。


「……いいえ」


静かな返答。


「楽しそうですから」


侍女が、ほんの少し目を見開く。

アレクシア自身も、自分の言葉へ微かに驚いていた。


侍女は静かに頭を下げる。

だがその口元は、どこか嬉しそうだった。


最近、こういう事が増えた。

王が、以前より距離を詰める。

言葉を交わす。

視線を向ける。

時折、 冗談まで言う。


最初は、どう反応すればいいか分からなかった。


今も、分からない。

分からないのに。

胸だけが、落ち着かなくなる。


侍女達の会話は続く。


「陛下も変わりましたよねぇ」

「前より優しい顔されるようになったわ」


静かに歩き出す。

聞こえないふり。

昔なら、完璧に無視できた。


だが今は。

言葉が、胸のどこかへ残る。


第二子。

そっと腹部へ手を添えた。

まだ目立たない。

けれど、確かにそこにいる。

小さな命。


最初に知った時。

怖かった。


幸福は危険だ。

愛してしまえば、失うのが怖くなる。

大切に思うほど、祝福が揺れる気がした。

だから、また感情を閉じ込めようとした。


だが。

あの日。

執務室で、王に抱きしめられた夜。


「一人で抱え込むのだけは、もうやめろ」


あの言葉が、何度も思い出される。


最近。

少しだけ、笑う回数が増えた。


王子が転んだ時。

王が珍しく書類で言い間違えた時。

夕食で、妙に塩辛いスープが出た時。


そんな、どうでもいい瞬間に。

ふ、と。

自然に。


それが、まだ怖い。

けれど。

昔みたいな、壊れる予感はしなかった。


王は、今でも普通に隣にいる。

王城も、平和なまま。

誰も狂わない。

誰も壊れない。


回廊の先。

窓から、王都が見えた。


市場。

パン屋。

洗濯物。

人々の暮らし。

穏やかな景色。


しばらく静かにそれを見つめる。

胸の奥が、ほんのり温かい。

怖いくらいに。


でも今は。

この温度を、少しだけ大切にしたいと思っていた。



■王城・王妃私室


午後。

窓から、冬の柔らかな陽光が差し込んでいる。

第二王子も無事生まれ、生誕ムードが落ち着いた頃。


机の上。

数通の書簡。

その中で、一通だけが異質だった。


母国の紋章。

王家直属の封蝋。

さらにその内側に、もう一つ。

見覚えのない失効した王家封印。


アレクシアは、静かに目を細める。

父からの親書。

そしてその“添付資料”。


ゆっくり封を切る。

紙が擦れる音。

静かな部屋。


親書の文面は簡潔だった。


『判断材料として、王家保管の古文書を添付する』


その一文に、わずかに違和感が残る。


“判断材料”。


それは単なる報告ではなく、何かを確かめるための提示だった。


封筒の奥から、薄く黄ばんだ別紙が滑り出る。

アレクシアはそれを手に取り、視線を移した。

親書とは明らかに異なる、古い装丁の記録。


そして。

二百年前。

妖精王の祝福を受けた、王族の記録。


長く行方不明だった手記が、離宮地下書庫から発見されたと書かれていた。


そこには。

“感情抑制による祝福制御”。

“魅了暴走”。

そして。

“伴侶との生活”。


アレクシアの呼吸が浅くなる。

震える指で、続きを追う。


『子を授かって以降、祝福の出力は大きく減衰した』

『情緒安定に伴い、暴走頻度は激減』

『恐怖による抑制より、精神的充足状態の方が安定性が高い可能性あり』


そこまで読んだ瞬間。

アレクシアの呼吸が、止まった。


違う。


今まで、ずっと。

幸福そのものが危険なのだと思っていた。


愛されれば暴走する。

満たされれば壊れる。

だから感情を凍らせなければならないのだと。


だが。

古文書が示していたのは、逆だった。


祝福は、幸福で狂う力ではない。


孤独。

恐怖。

不安定な感情。

それらによって、制御が歪む性質だった。


幼い頃の自分は、祝福に耐えられるほど成熟していなかった。

大勢の愛情と期待を、一度に受け止めきれなかった。


だから溢れた。


祝福が暴走したのではない。

怯えた心が、祝福を揺らしていた。


指先が、わずかに震える。


では。

もし。


恐怖ではなく、

安心の中で生きていたなら。


誰かを失う不安ではなく、

大切にされる温度を知っていたなら。


自分は。

こんなふうには、ならなかったのだろうか。


親書へ視線が戻る。

最後の一行。


『もし、お前が既に大切な者を得ているのなら』

『もう、自分を罰し続ける必要は無いのかもしれない』


そこまで読んだ瞬間。

理解は、思考ではなく感覚として落ちてきた。


否定の余地が、ひとつずつ消えていく。

怖さと同時に、胸の奥がひどく騒がしくなる。


次の思考が生まれるより先に、身体が動いていた。

椅子が鳴る。

立ち上がる。

呼吸が乱れている。


信じられない。

怖い。

でも。

胸の奥で。

何かが、激しく脈打っていた。


ドレスの裾を掴むようにして部屋を出る。


廊下。

侍女達が目を見開く。

王妃が走っている。

あり得ない光景だった。


白銀の髪が揺れる。

息が乱れる。

それでも止まらない。

辿り着く。



■王城・執務室


扉が開く。

勢いよく。

室内の側近達が、一斉に振り返った。


アレクシアは、呼吸を乱したまま立っている。

頬が赤い。

指先には、皺になるほど握られた手紙。


レオニールが、目を見開く。


「……アレクシア?」


彼女は、掠れた声で言った。


「……人払いを」


空気が変わる。

側近達は即座に一礼し、部屋を退出する。

扉が閉まる。


静寂。


数歩進む。

だが途中で止まった。

息が整わない。

胸がうるさい。


レオニールが立ち上がる。


「何があった」


アレクシアは答えず、震える指で手紙を差し出した。

レオニールが受け取る。


静かに読む。

一頁。

二頁。

そして。

彼の目が、ゆっくり見開かれていく。


沈黙。

暖炉の火だけが揺れている。


アレクシアは、立ったまま俯いていた。


怖かった。

もし。

これが希望だったら。

今までの人生が、全部。

“必要の無い苦しみ”になってしまう気がして。


レオニールが、静かに顔を上げる。

視線が合う。


その瞬間。

瞳が、僅かに揺れた。


「……私は」


声が震える。


「ずっと、間違っていたのでしょうか」


何十年も。

感情を殺して。

幸福を拒絶して。

空っぽになって。


それでも。

本当は。

ただ、怖がっていただけだったのか。


唇が、小さく震える。


「もし……」

「もし、本当に」


最後まで言えない。

怖いから。

期待してしまうのが。


だが。

次の瞬間。

レオニールが、静かに彼女を抱き寄せた。


今度は。

アレクシアも、拒まなかった。


二百年前。

誰かが辿り着けた場所。


その灯火が。

今ようやく。

長い夜の先で、届こうとしていた。


腕の中で、呼吸はまだ完全には整っていなかった。


長い時間をかけて積み上げた“正しさ”が、音を立てずに揺れている。


怖いのに。

逃げたいのに。

それでも、手はもう離れていなかった。


胸の奥で、何かが静かに軋む。

氷が溶ける時のような、痛みとも温度ともつかない感覚。


唇を噛んだ。

そして。

ようやく、言葉にした。


「私は……」


声がかすれる。


「幸せを、受け入れて良いのでしょうか……?」


その瞬間、執務室の空気がわずかに止まる。

暖炉の火が、ぱちりと鳴った。


レオニールは、すぐには答えなかった。

ただ、腕を緩めないまま、静かに目を伏せる。

それは迷いではなく、言葉を選んでいる沈黙だった。


やがて。

低く、確かな声が落ちる。


「許可など要らん」


肩が、わずかに揺れる。


「誰が禁じたとしても、私はそれを認めない」


静かな宣言だった。

国王としてではなく。

ただ、一人の人間としての言葉。


呼吸が、一瞬だけ途切れる。

指先が、離れかけて止まった。

怖い。

なのに、離れない。

それでも、耳はその声から離れない。


「お前がそれを“受け取れない”と言うなら、それはそれでいい」

「だが“受けてはならない”理由は、もうこの国には無い」


喉が、小さく震える。

視界が、滲む。

長い間、ずっと積み重ねてきた前提が崩れていく。

壊れるのではなく、静かにほどけていく感覚。


それが、ひどく怖いのに。

同時に、どうしようもなく軽い。


アレクシアは、ゆっくりと顔を上げた。

白銀の睫毛の間から、揺れる瞳。


「でも……私は」


言葉が途切れる。


「ずっと、間違えないように生きてきました」


誰かを壊さないように。

国を守るために。

自分を殺して。

それが“正しい”と信じて。


静かに首を横に振る。


「間違ってなどいない」


短い言葉。

だが、その中に余計な慰めはなかった。

事実のように、ただ置かれる。


「お前は、そうしなければ国を守れなかった」

「だが今は違う」


暖炉の火が揺れる。


「一人で背負う必要はない」


手が、胸元で微かに震えた。


その震えは、恐怖なのか。

それとも別の何かなのか、自分でも分からない。


ただ、ひとつだけ確かなものがある。

目の前の人間は、自分を裁かない。

否定もしない。

奪いもしない。 


そこにいる。

それだけが、どうしようもなく現実だった。


ゆっくりと息を吸った。

長い沈黙のあと。

ようやく、絞り出すようにもう一度問う。


「それでも……」


声が細い。


「私は、幸せを受け入れて良いのでしょうか……?」


レオニールは、今度は迷わなかった。

静かに、しかし揺るがずに答える。


「受け入れろ」


瞳が揺れる。

長い時間。

何も選ばないことでしか守れなかった人生がある。


その終わりに。

初めて、“選んでいい”と言われている。


手が、そっと彼女の背に触れる。

逃がさないためではなく。

支えるための距離。


アレクシアは、ゆっくりと目を閉じた。


もうその手は、震えていなかった。




■王城・庭園


春。

風は軽く、花弁が時折、皿の上をかすめていく。


白い布が芝の上に広げられていた。

その上には、丁寧に並べられたサンドイッチと果物。


アレクシアは、静かに紅茶を注いでいる。

所作は変わらない。

だがその指先は、もう強張ってはいなかった。


隣ではレオニールが、子供の手から落ちかけたパンを何気なく受け止めている。

その動きは、かつての王のそれよりずっと雑で、ずっと柔らかい。


「こら、落とすな!」

「だって兄上が取るの早い!」

「ずるい!」


二人の子供が、芝の上で騒いでいる。

言い争いというより、音そのものが跳ねているようだった。


アレクシアは、少しだけ目を細める。

それを叱ることはない。

止めることもしない。

ただ、見ている。


その横で、レオニールが小さく笑う。

昔よりもずっと自然に。


「……うるさいな」


そう言いながらも、声はまったく怒っていなかった。


紅茶のカップを置く。

その動作の途中で、ふと気づく。


胸の奥に、静かなものがある。

怖さではない。

空白でもない。

ただ、そこにある。


子供の笑い声が、風に混ざって遠くへ流れていく。

それを、消そうとしなかった。


風が花弁を攫っていく。

胸の奥は、まだ少しだけ怖かった。


それでも。

アレクシアは、その音を消したいとは思わなかった。


それを、もう知っていたから。



アレクシア「……庭園、少し騒がしくなりましたね」

レオニール「うるさいくらいがちょうどいい」

アレクシア「昔の私なら、静かにさせていました」


レオニール「今は?」

アレクシア「……少しだけ、慣れました」


レオニール「それでいい」

アレクシア「はい」


(少し間)


レオニール「……ところで、あの子たち、俺の分の菓子も食ってないか?」

アレクシア「見なかったことにしましょう」



……



※もしよろしければ、こちらもどうぞ。

発達がゆっくりな五歳の長男と、

騒がしい家族の日常短編を書きました。


『五歳、まだ喋らない。けれど家は今日も騒がしい』

https://syosetu.com/usernoveldatamanage/top/ncode/3180436/noveldataid/29312984/


しんみり系というより、

かなりドタバタ寄りです。

でもたぶん、途中から親の情緒が危なくなります。


よければぜひ!


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