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前編:氷の王女


■アルシェリア王国・王城


夜。

産声。

静まり返っていた王城に、小さな泣き声が響く。


その瞬間。

閉ざされていた窓が、ひとりでに開いた。


ふわり。

夜風。

花の香り。

淡い光。

侍女が息を呑む。


「……何、これ」


庭園。

本来なら夜に閉じるはずの花々が、一斉に開いていた。


青。

白。

金。


見たことのない現象に、誰も言葉を持たない。

老魔導士だけが、かすれた声を落とす。


「これは……祝福現象だ」

「……祝福?」


若い侍女が、思わず聞き返す。


「そんなの、ただの伝承じゃ……」


誰かが途中で言葉を切る。


古い記録の片隅に、確かに残っていた話。

二百年以上昔、世界がまだ今より“物語に近かった頃”。

王家に現れたという、異質な加護。

だがそれは、誰も実在を確かめたことのない話だった。


「じゃあ……これって」


誰の声か分からない問いが、空気に溶ける。

答えはない。


産まれたばかりの女の子。

白銀の髪。

澄んだ青の瞳。

第三王女。

アレクシア。


その唇が、かすかに動いた瞬間。


ぱらり、と。


天井から光の粒が落ちる。


まるで夜空そのものが、祝福の形を思い出したかのように。



■十年後・アルシェリア王国王都


快晴。

収穫祭。

市場は活気に満ちていた。


「第三王女殿下が今日で十歳だそうだ!」

「だから晴れたのかねぇ」

「昨日まで雨続きだったのにねぇ」


笑い声。

豊穣。

病の少ない国。


人々は口々に言う。


「アレクシア様のおかげだ」


十歳になった王女は、国中から愛されていた。


その頃。



■王城・庭園


「また蝶が集まってる!」


侍女がくすりと笑う。


白い蝶。

青い蝶。

金色の蝶。

アレクシアの周囲を、くるくる回っている。


「待ってくださいっ」


アレクシアが両手を伸ばす。

だが蝶は、ひらり、と風へ逃げた。


「あ……また逃げました」


少しだけ唇を尖らせる。

侍女達が笑った。


「殿下が追いかけるからですよ」

「じっとしていれば、向こうから来てくださいます」


「難しいです……」


頬を膨らませた瞬間。

ふわり。

蝶達が、一斉に彼女の肩へ止まった。


「わぁ……!」


ぱっと表情が明るくなる。


「見てください、お母様!」

「本当ですわ。皆、殿下が大好きなのですね」


王妃が優しく微笑む。


「妖精達に愛されていますね」


そう言われても、本人にはよく分からない。


ただ。

誰かが笑ってくれると、嬉しかった。


国王も。

王妃も。

侍女達も。

みんな、彼女を愛していた。

だからアレクシアも、みんなが大好きだった。



■十歳の誕生日・大広間


夜。

シャンデリア。

音楽。

王侯貴族達が集う、盛大な誕生日パーティ。


淡い青銀のドレス。

月光を織ったような薄布に、小さな宝石が星屑みたいに散っている。


白銀の髪には、庭園で咲いた妖精花の髪飾り。

まるで。

物語から抜け出した妖精姫そのものだった。


大広間へ入った瞬間。

貴族達が、思わず息を呑む。


「おめでとうございます、アレクシア殿下」

「なんと美しい……」

「まるで妖精姫だ」


祝福の声が広がる。


王族席には、本来なら姉たちが並ぶはずだった。


だが。


長姉は隣国への外交任務のため帰国が叶わず。

次姉もまた、王太子妃として急な国政対応に追われ、この場にはいない。


その席は静かに空いている。


誰も、それを深く気に留めない。

今日の主役は、ただ一人だったから。


アレクシアは、少し困ったように王妃を見上げた。


「お母様……このドレス、少し重いです……」


王妃がくすりと笑う。


「大丈夫?」

「だ、大丈夫です。たぶん……」


小さく裾を摘まむ。


「転ばないよう、気を付けます」


その必死な声に、近くの侍女達が微笑んだ。

まだ十歳。

王女としては優秀でも、年相応の少女だった。


だから。

皆、自然と頬が緩む。

アレクシアは少し照れながら、ぎこちなく礼を返していく。


嬉しかった。

こんなにも沢山の人が、自分の誕生日を祝ってくれている。


でも同時に。

少しだけ、怖かった。


皆が自分を見ている。

期待している。

失敗してはいけない。


ちゃんと笑わなければ。

王女らしくしなければ。


幼い胸へ、大きすぎる感情が溢れていく。


嬉しい。

楽しい。

苦しい。

眩しい。


その全部を抱えたまま。

アレクシアは、笑った。


やがて。

国王が杯を掲げる。


「我が娘、アレクシアの未来に祝福を!」


拍手。

歓声。

皆が彼女を見ている。


愛情。

尊敬。

憧憬。

それら全部が、幼い少女へ注がれていた。


幸福だった。

人生で、一番。


だから。

――力が、満ちた。


びき。

空気が震える。

シャンデリアの灯りが揺らぐ。

魔導士達が顔を上げる。


「……なに、を」


アレクシアは、何が起きたのか分からないまま周囲を見回した。


「え……?」


胸が熱い。

心がふわふわする。

みんなが好き。

みんな優しい。

嬉しい。

幸せ。

だから、笑った。


その瞬間。

どさっ。

貴族の男が倒れる。


「……え?」


どさ。

どさどさっ。

次々と、人が崩れ落ちる。

瞳が虚ろに染まる。


誰かが呟く。


「……アレクシア様」


熱に浮かされた声。


「美しい……」

「愛してる……」

「アレクシア様……」

「アレクシア様ァ……」


ざわっ。

空気が変わる。


近衛騎士が叫ぶ。


「殿下から離れろ!!」


しかし遅い。

倒れていた男が、涙を流しながら立ち上がる。


「殿下のためなら……」

「私は……!」


隣の貴族が、恍惚とした顔で頷く。


「命を捧げよう」


悲鳴。

パニック。

誰かがアレクシアへ駆け寄ろうとする。

騎士が止める。

剣が抜かれる。

会場が崩壊していく。


アレクシアは、ただ震えていた。


「ち、違……」


理解できない。

どうして。

みんな、さっきまで笑っていたのに。


国王が娘を抱き寄せる。


「アレクシア!!目を閉じろ!!」


直後。

魔導士達が結界を展開。

空気が、びり、と軋んだ。

淡い光の壁が広間を包む。


狂信者と化した貴族達が、結界へ殺到する。

涙を流しながら。

笑顔で。


「アレクシア様!!」

「お救いください!!」

「我らの女神!!」


十歳の誕生日。


その夜。

王国は、“祝福”を恐怖として記憶する事になる。



■王城・地下封印区画


静寂。

地下深く。

分厚い封印扉。

幾重もの結界。


その先は、三つの層に分かれていた。


最上層は作戦区画。

重臣と近衛騎士が詰め、事態の封鎖と対応を協議している。


その外周を、武装した近衛騎士が警戒しながら巡回していた。


さらに奥。

別区画。

鉄格子。

拘束具。

鎮静の魔法陣。


そこでは、誕生日会場で魅了された貴族達が隔離されていた。


「アレクシア様に会わせろ……」

「お救いを……」

「我らは、あの御方のために……」


虚ろな目。

恍惚とした笑み。

中には、自ら喉を裂こうとした者までいた。

近衛騎士が押さえ込み、魔導士が必死に鎮静術式を重ねている。


「駄目です!また術式を上書きされています!」

「正気に戻っても、数分で再発します!」


老魔導士の額を汗が流れる。


重臣の一人が、青ざめた顔で叫んだ。


「もはや暴動です!!」

「王女殿下を中心に国家が転覆しかねん!!」


別の貴族も震える声を漏らす。


「既に百名以上が魅了されている!」

「近衛騎士の中にも症状が出始めていますぞ!」


恐怖が広がる。

誰もが理解していた。

これは祝福ではない。

国を狂わせる力だと。


その時。

怒気を孕んだ低い声が響く。


「黙れ」


一瞬で、貴族達が静まり返る。

国王だった。


「娘を化け物扱いする者は、余の前から消えろ」


重い沈黙。

だが。

誰も、“否定”はできなかった。




その騒然とした区画から、更に奥。

厚い封印扉が一枚、さらに隔てられていた。


その内側。


小さな部屋。

蝋燭の灯りだけが揺れている。


アレクシアは、小さな椅子へ座っていた。

膝の上で、ぎゅっと手を握っている。


外の声は、扉越しに僅かに響くだけだった。

怒鳴り声。

焦った足音。

遠くで鳴る警鐘。


内容までは聞き取れない。

けれど。

皆が怯えていることだけは、子供でも分かった。



■同日・深夜


部屋。

明かりは一本の蝋燭だけ。


国王。

王妃。

そしてアレクシア。


王妃は、泣き続けていた。


「ごめんなさい……」

「ごめんなさい、アレクシア……」


アレクシア、静かに首を横へ振る。


「お母様は悪くありません」


声が小さい。

十歳の少女の声だ。


国王は、苦しげに目を伏せていた。

長い沈黙。

やがて。


「アレクシア」


父ではなく、王として呼ぶ。

少女は顔を上げる。


「お前の祝福は……危険だ」


言葉を選んでいる。

一つ間違えば、娘の心を壊す。

だが、言わなければ国が壊れる。


「感情の高まりに比例し、魅了が強化されている可能性が高い」


アレクシアは静かに聞いている。

泣かない。

取り乱さない。

聡い子だった。

だからこそ、理解してしまった。

自分が危険なのだと。


国王の拳が震える。


「お前には今後、感情制御の教育を受けてもらう」


沈黙。


「…笑う事を控えろ」


「感情を抑えろ」

「他者との接触を減らせ」


王妃が嗚咽を漏らす。

国王は、最後の一言を言えずに止まった。


だが。

アレクシアが先に言った。


「……私は」

「一人になりますか?」


国王の表情が、歪む。

肯定できない。

否定もできない。

その沈黙だけで、十分だった。


小さく頷く。


「分かりました」


その返事が、あまりにも素直で。

王妃が泣き崩れた。



■二日後


王城・教育棟。


地下封印区画での事態を受け、王城はアレクシアの処遇を再定義していた。


“隔離”ではなく、“制御下での教育”。


カツ。

カツ。

杖の音。

老齢の女性。

王国最高位の礼儀教育官、エルマ。


厳格。

冷静。

感情を排した人物。

彼女が、アレクシアの前へ立つ。


「殿下」

「本日より、“矯正教育”を開始します」



■一週間後


王城・隔離棟。

静寂。


地下封印区画での暴動は鎮圧され、

対象者は精神安定処置の上で隔離棟へ移送されていた。


白いカーテン。

薬草の匂い。

重い空気。


魅了された貴族達は、未だ王城内で監視下に置かれていた。


「アレクシア様……」

「美しい……」

「お会いしたい……」


虚ろな瞳。

熱に浮かされた声。


だがその激情は薄れ、代わりに固定化された執着だけが残っている。


医師達も、魔導士達も疲弊していた。


「精神汚染に近い」

「解除術が効きません」

「原因そのものが残っている限り……」


誰も、答えを持っていなかった。



■王城・教育棟


「感情を表へ出さない」

「はい」


「呼吸を一定に」

「……はい」


アレクシアは、静かに座っていた。

背筋。

視線。

声。

全てを制御する。


エルマが歩く。


「感情は波です」


杖の音。


「高ぶれば広がる」

「乱れれば漏れる」


「ですから殿下」

「まず、ご自身を静めなさい」


沈黙。

少女は、ゆっくり息を吐く。


怖い。

苦しい。

寂しい。

でも。

それを、顔へ出さない。


そうすると。

胸の奥の熱が、ほんの少しだけ静かになる事に、 彼女は気付き始めていた。



■さらに数週間後


隔離棟。

老貴族の男が、ぼんやりと天井を見ている。


「……水を」


医師が顔を上げる。

今までなら、口を開けば“アレクシア様”しか言わなかった。


「意識が……戻っている?」


男は眉を寄せる。


「私は……なぜここに」


記憶が曖昧だった。

誕生日の夜。

熱。

幸福感。

その後が、霧みたいに抜け落ちている。


医師達がざわつく。



■王城・教育棟


「感情を切り離しなさい」

「自分のものとして抱え込まない」


エルマの声。

アレクシアは、無表情のまま頷く。


最近。

蝶を見なくなった。

以前は、少し笑うだけで集まってきたのに。

花も咲かない。

風も騒がない。

奇跡が、静かに遠ざかっている。


その代わり。

周囲の人間が、少しずつ正気へ戻り始めていた。



■三ヶ月後


王城・執務室。


報告書。

国王が頁を捲る。


「……三十七名、回復」


側近が頷く。


「重度魅了者も、徐々に正常化しております」


安堵。

だが、空気は重いままだ。


完全回復ではない。

未だ、王女の名を聞くだけで涙を流す者もいる。

夢の中で、彼女を求め続ける者も。

傷跡は深い。


国王は、静かに目を閉じた。

救われている。

確かに。

娘が、自らを削る事で。



■同日


教育棟。


「笑わない」

「はい」


「期待しない」

「はい」


「強い幸福は、祝福を暴走させます」

「幸福へ執着しない」


「……はい」


アレクシアは、完璧に答える。

エルマは、しばらく彼女を見つめ。


そして。

初めて、ほんの少しだけ目を伏せた。

杖を握る手へ、僅かに力が入る。


「……殿下は聡明です」


静かな声。


「だからこそ、壊れ方も静かですね」


アレクシアは、意味を理解しなかった。

いや。

理解しないようにした。


その日の帰り道。

廊下の窓辺。

夕陽が差し込む。


廊下を歩く侍女達は、もう彼女を見ても熱に浮かされた顔をしない。


ガラスへ映る自分を見る。

無表情。

綺麗な姿勢。

整った声。

完璧だった。


そして。

知らない人みたいだった。




■さらに数年後


執務室。


雪。

窓の外では、白い粒が静かに降り積もっていた。

音はない。

ただ世界がゆっくり沈んでいくような光景だった。


国王は書類を閉じ、深く息を吐いた。

机の上。

隣国レグナードから届いた、婚約打診。

相手は第一王子、レオニール。


大国。

軍事力。

経済力。

どれも申し分ない。


そして。

精霊信仰が薄い国。

妖精王の加護圏から、物理的に離れている。


老魔導士が静かに言う。


「……祝福の減衰は期待できます」

「確証は無い」

「ですが、少なくとも現在より危険性は下がるかと」


国王は沈黙する。

父としては、娘を遠くへやりたくない。


だが王として見れば。

アレクシアを、“人間として生かせる可能性”がある。

それが隣国だった。



■王城・庭園


花の無い庭。

アレクシアは、静かに降る雪を見つめていた。

白い息。

その姿は、まるで雪像みたいだった。


国王が隣へ立つ。


「……婚約話が来ている」


「隣国ですか」


「ああ」


短い沈黙。

もう、取り乱す年齢ではない。


静かに問う。


「国益になりますか」


表情が、わずかに歪む。

昔なら、「嫌です」と言えたはずだ。

だが今の娘は、先に国家を考える。


「……なる」


「でしたら問題ありません」


即答。

あまりにも迷いがない。


国王は、そこで初めて視線を逸らした。


「祝福の件は、どこまで伝えますか」

「必要最低限だ」


「……そうですか」


低く言う。


「最終的な判断はお前に任せる」


アレクシアは、わずかに目を上げる。


「隠したいなら隠せ」

「伝えたいなら伝えろ」

「余は強制しない」


沈黙。

そして、ほんの少しだけ考えてから。


「必要になれば、お話します」


それだけ答えた。



■数ヶ月後・謁見の間


初顔合わせの日。


赤絨毯。

騎士達。

重臣達。

張り詰めた空気。


扉が開く。

レグナード第一王子、レオニール。


長身。

端正な顔立ち。

隙の無い軍人姿勢。


視線は真っ直ぐ。

だがどこか、人間を見る目ではなく、盤面を見るような冷静さがあった。


合理主義。

国家運営型の人間。


彼は入室すると、迷いなく一礼する。


「お初にお目にかかります」

「アレクシア殿下」


その視線が、王女へ向く。

白銀の髪。

氷のような青い瞳。

微動だにしない姿勢。

完璧な王族。


レオニールは内心で静かに観察する。

無駄がない。

感情の揺れもない。

政略婚の相手としては理想に近い。


――悪くない。


それだけを思い、視線を切る。


アレクシアは、完璧な礼を返す。


「歓迎いたします、レオニール殿下」


静かな声。

冷たいほど整った響き。

レオニールは淡々と頷く。


「今回の婚約が、両国にとって良き関係となる事を願っています」


完全に外交。

愛想も熱量も無い。


だがアレクシアは、むしろ少し安心した。

熱意が無い。

期待も無い。

執着も感じない。

それは、彼女にとって恐怖が少ない相手だった。



そして。

彼はまだ知らない。

この王女が、どれほど必死に、“何も起こさないようにしているか”を。



■レグナード王国・大聖堂


祝福の鐘が鳴り響いていた。

晴天。

空には一片の雲も無い。


王都を埋め尽くす人々が、歓声を上げていた。


「王太子殿下万歳!」

「アレクシア妃殿下万歳!」


花弁が舞う。

白い大理石の階段。

その上を、二人は並んで歩いていた。


完璧な王族夫妻。

隣に立つ姿は、まるで一枚の絵画のようだった。


レオニールは堂々と。

アレクシアは静かに。


国民達は熱狂する。

美しい。

理知的。

高貴。

誰もが、理想の王族を見る目をしていた。


アレクシアは、いつものように微笑を薄く整える。

感情を乗せない、訓練された笑み。


歓声が大きくなる。

けれど。

誰も倒れない。

誰も狂わない。

祝福は、確かに弱まっていた。



■数年後・王城


「こちらが西部税収報告です」

「確認した」


「北部の貿易港ですが」

「許可を出そう」


書類。

印章。

会議。

レグナード王国は、驚くほど安定していた。


レオニールは優秀だった。

冷静。

合理的。

決断が早い。


アレクシアもまた、優秀だった。

外交。

財政。

貴族調整。

感情を排した判断能力は、政治において異様な強さを発揮する。


だから。

二人は噛み合った。


必要以上に干渉しない。

感情論を持ち込まない。

互いの役割を理解している。

理想的な共同統治。


周囲は称賛する。


「歴代最高の王太子夫妻です」

「争いが無い」

「無駄が無い」

「完璧だ」


誰もが羨む。

誰もが理想を見る。



■二年後


小さな産声。

第一王子誕生。

祝福の鐘が鳴り響く。

国中が歓喜した。


「世継ぎだ!」

「レグナードは安泰だ!」


乳母達が笑う。

侍女達が涙ぐむ。

レオニールは、静かに息子を抱き上げた。


「……健康そうだな」


その隣。

アレクシアは、静かに我が子を見つめていた。


とても小さい。

温かい。

柔らかい。

抱けば、壊れてしまいそうなくらい。

胸の奥が、少しだけ揺れる。


だが。

その感情を、彼女は自然に押し込めた。


慣れていた。

もう、呼吸みたいなものだった。



■数年後・レグナード王国


先王崩御。

喪の鐘が王都に重く響いた。


その日を境に、鐘は一度だけ鳴り、そして止んだ。

王都から色が引く。

喪章。

黒衣。

市場の声は低くなり、笑いは影に沈む。


服喪期間。

国は呼吸を潜めたまま、時間だけを進めた。


そして、

長く沈黙していた鐘が、再び鳴る。



■大聖堂


白い光。

巨大な聖印。


レオニールが、祭壇の前へ進む。

迷いの無い足取り。

静かな横顔。

王冠を受け取る姿に、誰も異を唱えない。


彼は優秀だった。

冷静で。

合理的で。

王として必要な全てを備えていた。


大神官が、厳かに告げる。


「ここに、レグナード国王レオニール一世の即位を宣言します」


歓声。

拍手。


続いて。


「王妃アレクシア陛下、御前へ」


白銀の王妃が、一歩前へ出る。

青銀の礼装。

揺れない瞳。

完璧な礼。

大神官が、静かに冠を掲げる。


「レグナード王国の繁栄を支える者として」

「王妃アレクシア陛下へ、栄誉と加護を」


静かに冠が授けられる。


高らかに鐘の音が鳴る。

国民達は魅了される。

美しい。

気高い。

理想の王妃だと。



誰も知らない。

その王妃が、笑い方を忘れて、もう何年も経っている事を。



……



王都。

市場は活気に満ち、国境は安定し、飢饉も反乱も無い。

レグナード王国は繁栄していた。


国民は口々に言う。


「素晴らしい国王夫妻だ」

「まるで無駄が無い」

「国が豊かになっていく」


宮廷でも、二人は模範的だった。

並んで会議へ出席し。

並んで式典へ現れ。

並んで微笑む。


完璧。

非の打ち所が無い。


ただ。

音が無かった。


笑い声。

言い争い。

くだらない雑談。

そういう、人間らしい揺れが。

どこにも無い。


朝。


「本日の予定です」

「ああ」


昼。


「西部視察の件ですが」

「任せる」


夜。


「おやすみなさいませ」

「……ああ」


それはまるで。

一度も音を外さない、古い楽器みたいだった。



■王城・夜


窓辺。

月光。

アレクシアは、一人で本を閉じた。


静かだった。

昔のように、蝶は来ない。

花も咲かない。

祝福は弱まり、暴走も起きない。


だから、問題は無い。

何も。

本当に何も。


窓へ映る自分を見る。

白銀の髪。

冷たい瞳。

完璧な王妃。

そして、空っぽの表情。


ふと。

昔の記憶が過る。


十歳の誕生日。

みんなが笑っていた夜。

――幸せだった。


そこまで考えて。

静かに思考を止めた。

感情を深く動かさない。


それはもう、彼女の本能だった。



■王城


夜。

執務室。

時計の音だけが響いている。


王妃アレクシアは、机へ報告書を置いた。


「北部の監査報告です」


王は視線を上げない。


「置いてくれ」


短い返答。

いつも通り。

静かに資料を揃える。


紙の角。

印章の位置。

視線の流れ。

無意識に整えている。

昔から、乱れを放置できなかった。


「来月の外交日程ですが」

「第三案で進めよう」

「承知しました」


そこで会話は終わる。


静寂。

ずっと、この部屋は静かだった。

必要な言葉しか無い。


互いに優秀で、互いに合理的。

だから衝突も無い。

感情による事故も起きない。


完璧な関係。

――そのはずだった。


ふと窓の外を見る。

夜の王城。

整然と並ぶ灯り。

乱れの無い庭園。

静かな街。


美しい。

けれど。

まるで、誰かが作った模型みたいだった。


そこで王が口を開く。


「北部視察の件だ」


視線を戻す。


「フェルナー侯爵領ですね」


資料を開く。

治水成功。

税収安定。

農地拡張。

数字は極めて優秀だった。


「農地収穫率も高いとか」


側近が頷く。


「住民満足度も非常に高水準です」


アレクシアは、そこに違和感を覚えた。

高すぎる。

豊かな土地は存在する。

安定した土地もある。

だが。

数字がここまで揃う事は珍しい。


争い。

不満。

軋轢。

普通は、どこかに歪みが出る。

なのにこの領地は、妙に“柔らかい”。


側近が苦笑する。


「妙な噂もありまして」

「妙な噂?」


「揉め事の翌月には婚礼が増えるそうです」 「……婚礼?」


「はい。領民の間では、 “世話焼き妖精がいる”と」


王が小さく鼻で笑う。


「なんだそれは」


アレクシアは、資料へ視線を落としたまま動かない。


世話焼き妖精。

その単語に、ほんの僅かだけ、胸がざわついた。


妖精。

懐かしい響き。

幼い頃は、そう呼ばれていた。

妖精姫。

祝福の王女。

誰からも愛されていた、あの頃。


思考を止める。

昔を考える意味は無い。

今さら、感傷に浸る年齢でもない。


「随分と平和な妖精ですね」


口から出た声は、いつも通り平坦だった。

側近は曖昧に笑う。


「領民には好かれているようです」


そこで。

廊下の向こうから、子供の泣き声が響いた。


一瞬。

指先が止まる。

王子。

最近、まともに顔を見ていない。


教育係からの報告は完璧だった。

礼儀正しい。

優秀。

聡明。

問題は無い。

問題は、何一つ。


……なのに。

胸の奥に、小さな棘みたいな違和感が残る。


王が言う。


「教育係だろう」

「……そうですね」


立ち上がる。

ドレスの裾が揺れる。

完璧な所作。

完璧な王妃。

扉へ向かう途中。


ふと。

視界の端に、王の横顔が映る。


疲れている。

誰にも分からない程度に。

けれど確かに。


昔は気づかなかった。

合理的な人だと思っていた。

冷静で、揺らがない人だと。


でも違う。

この人も、少しずつ摩耗している。

音の無い日々に。


その事実を認識して。

そして、何も言わなかった。


言葉が分からなかった。

慰め方も。

寄り添い方も。

ずっと昔に、切り捨ててしまったから。


「失礼します、陛下」

「……ああ」


扉を開ける。

廊下。

遠くでまだ、王子の泣き声が続いている。


アレクシアは静かに歩き出す。

規則正しく。

乱れなく。

まるで、自分自身を管理するみたいに。


その途中。

ふと。

側近の言葉が、脳裏を掠める。


――揉め事の翌月には婚礼が増える。

――世話焼き妖精。


意味の無い噂話。

そのはずなのに。


なぜか、それだけが妙に残った。


それきり、日々は淡々と流れた。


書類は積み上がり、会議は進み、決裁は繰り返される。

噂はすぐに他の案件に埋もれ、意識から薄れていった。


そして気づけば。


フェルナー侯爵領への視察日程は、何事もなく消化されていた。



■フェルナー侯爵領・視察後


視察は、予定通り終了した。


農地。

水路。

市場。

住民達の様子。

どこを見ても、大きな問題は見当たらない。

むしろ、不自然なほど穏やかだった。


そして夜。



■フェルナー侯爵邸・客室


机の上には、視察資料が積まれている。

蝋燭の火が、紙の端を揺らしていた。


アレクシアは、静かに頁を捲る。

王はまだ戻っていない。


視察終了後。

「少し歩く」とだけ言い残し、護衛を最低限だけ連れて街へ出た。


止めはしなかった。

止める理由が無い。

王は昔から、時折こうして一人になる。

疲労の調整。

思考整理。

合理的な行動。

それだけだと思っていた。


資料へ視線を落とす。


フェルナー領。

豊か。

安定。

そして、人の摩耗が少なすぎる。


離反率。

犯罪率。

婚姻継続率。

数字の端々に、“人間関係が壊れていない”痕跡があった。


ふと。

窓の外から、笑い声が聞こえた。


街。

酒場。

帰宅する家族。

子供の声。

騒がしい。

王都より雑で、整っていない。


だが。

……音がある。


アレクシアは、静かに目を閉じた。


昔。

自国でも、こんな音を聞いた事があった。

十歳になる前。


庭園。

侍女達。

笑う母。

姉たちの何気ない声。

幸福だった頃。


胸の奥が、わずかに軋む。

反射的に、感情を押し込める。

深く考えない。

それはもう、長年の癖だった。


コンコン。

扉が鳴る。


「失礼いたします」


侍女が一礼する。


「陛下がお戻りになりました」

「……そう」


資料を閉じる。

立ち上がる。


乱れた思考ごと、ドレスの裾へ隠すみたいに。


完璧な王妃の顔へ戻った。



■帰路・馬車


夜。

街道には魔導灯が等間隔で灯り、淡い光が道を縁取っていた。


護衛の騎馬隊が静かに前後を固める中、車輪の音だけが規則正しく響いている。


向かい側には王。

窓の外を見たまま、ほとんど動かない。


アレクシアもまた、静かに座っていた。

膝の上には、整理済みの視察資料。


フェルナー領。

優秀な土地だった。

治水。

農地。

税収。

どれも高水準。


だが、数字以上に印象へ残ったのは、街の空気だった。


騒がしい。

人が近い。

感情がそのまま飛び交っている。


侯爵家へ戻った後も、窓の外から笑い声が聞こえていた。

料理人の怒鳴り声。

使用人達の雑談。

子供の足音。


王城なら、とっくに静まり返っている時間。

なのに、あの領地には生活の音が残っていた。


ふと。

向かいの王が、窓の外を見たまま動かない事に気付く。


普段から寡黙な人だ。

だが今日は、沈黙の質が違う。

何かを考えている。

……いや。

何かが、引っかかっている。


アレクシアは、静かに視線を落とした。

聞かない。

それが、長年続けてきた距離感だった。


そこで。

不意に、脳裏へ昼間の光景が過る。


市場の笑い声。

侯爵家の侍女達が、「また始まった」と笑っていた会話。


そして。

“世話焼き妖精”。


領民達が、半ば呆れながら口にしていた名前。


エレノア。

かつて婚約していた侯爵令嬢。


領民達の話では、今は五人の子供に囲まれ、毎日騒がしく暮らしているらしい。


アレクシアは、ほんの僅かに目を伏せる。


もし。

もし、祝福が無かったなら。

感情を閉じ込めなくて済んだなら。


自分も、あんなふうに。

誰かと笑い合い、騒がしく暮らしていたのだろうか。


子供に服を引っ張られて。

呆れながら叱って。

それでも笑って。


幸福を、恐れずに。


胸の奥が、わずかに軋む。

だが。

その感情は、瞬き一つの間に押し込められた。


視線が、ほんの一瞬だけ逸れる。

窓の外でもない。

王でもない。

何もない空間へ、わずかに落ちる。


ほんの、一拍。

それだけ。


すぐに視線は戻る。

何も無かったように。

完璧な姿勢のまま。


けれど。

向かい側の王だけは、その“遅れ”を見ていた。




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