第40話 プロの料理人が見ているらしい
「食彩堂って知ってる?」
『知らない』
「俺も」
ニャルと顔を見合わせて、二人で首を傾げた。
昨日、小春さんときなこちゃんが帰った後、配信のコメント欄で見つけた名前だ。
『食彩堂の橘さんが、この配信の話してた』
料理人が俺たちの配信に反応しているらしい、という話だけでも驚いたのに、わざわざ店の名前まで出てきた。
どんな人なんだろう。
「母さん、食彩堂ってお店、知ってる?」
朝食の片づけをしていた母さんに尋ねると、少し考えてから頷いた。
「食彩堂……ああ、聞いたことあるかも。珍しい食材を使うお料理屋さんだったかしら」
「へえ、そうなんだ」
「行ったことはないから、詳しくは分からないけどね。どうしたの?」
「昨日、配信のコメントで名前が出てきたんだ。そこの料理人さんが、ニャルの料理について話してたらしくて」
「あら、すごいじゃない」
母さんが嬉しそうに笑う。
……すごい、のかな。
俺にはまだ、いまひとつ実感がなかった。
とりあえずソファに座り、スマートフォンで『食彩堂』と検索してみる。
「あ、あった」
画面に出てきたのは、落ち着いた雰囲気の小さな創作料理店だった。
木を使った温かみのある店内に、カウンター席といくつかのテーブル。料理の写真も並んでいて、どれもきれいに盛りつけられている。
見たことのない野菜を使った一皿や、焼き色の美しい肉料理。
……おいしそう。
「店主は橘修司さん、だって。珍しい食材を使う料理が得意で、結構評判もいいみたい」
『ふうん』
隣に座ったニャルは、あまり興味がなさそうだった。
小さな前足を舐めて、顔を洗っている。
「有名な料理人さんみたいだよ?」
『そうか』
「……あんまり気にならない?」
『料理がうまいなら、食ってみたいけどな』
「あ、それは俺も!」
おいしい料理には興味がある。
でも、料理人の名前を聞いただけでは、どんな料理を作る人なのか分からないもんな。
俺は画面をスクロールした。
すると、紹介記事の中に気になる一文を見つけた。
「あれ? この人、ダンジョン食材も昔から研究してるんだって」
ぴくっ。
ニャルの耳が動いた。
『料理してるの?』
「うん。普通は食べられないと思われている食材も、どうにか料理に使えないかって、いろいろ試してるみたい」
『へえ』
ニャルが顔を上げ、俺のスマートフォンを覗き込んだ。
『何を作ってるんだ?』
「ええっと……あ、ホーンラビットの肉について話してる記事があるよ」
『ホーンラビット?』
「うん。食べられそうな肉なのに、なかなかうまくいかないって」
記事には、ホーンラビットの肉を食用にしようと試行錯誤しているものの、安全性や独特の臭いが課題になっていると書かれていた。
ニャルは不思議そうに首を傾げる。
『うまいのにな』
「そうだよね。前に作ってくれた香草焼き、すっごくおいしかったし」
あの時の味を思い出す。
表面は香ばしく、中はしっとり柔らかい。エルフハーブの香りもよく合っていて、あっという間に食べ終わってしまった。
俺たちにとっては、もう普通に食卓へ並ぶ肉の一つだ。
でも、外ではまだ食べられないと思っている人が多い。
……何だか不思議な感じだ。
「プロの料理人さんでも、難しいんだね」
『ちゃんと処理すれば、普通に食えるんだけどな』
「うん。そういうことも、まだ知られてないのかもしれないね」
俺はスマートフォンを置いた。
改めて考えると、ニャルが持っている知識はすごいものなのかもしれない。
俺にとっては、毎日おいしいご飯を作ってくれる、大切な相棒。
でも、ほかの人から見たら、まだ誰も知らないダンジョン食材の調理方法を知っている猫なんだ。
……いや、やっぱりすごいな。
「ねえ、ニャル」
『ん?』
「今日の配信、ちょっと緊張してきた」
『何でだ?』
「だって、橘さんみたいなプロの料理人が見てるかもしれないんだよ?」
ニャルは俺を見上げた。
そして、いつもの調子で言った。
『いつも通り作ればいいだろ』
「……それはそうなんだけど」
『変に意識しても、飯がうまくなるわけじゃないぞ』
「うっ……確かに」
何も言い返せない。
ニャルは尻尾をゆっくり揺らした。
『うまい飯を作って、ユウマたちと食う。それでいいだろ』
「……うん!」
そうだよな。
配信を始めたからって、俺たちの目的が変わったわけじゃない。
ニャルが料理を作って、みんなでおいしく食べる。
それが一番大事なんだ。
「よし! じゃあ今日も、いつも通りやろう!」
『おう』
ニャルが元気よく尻尾を立てた。
――――――
「みなさん、こんにちは! 『ニャルの台所』です!」
配信を始めると、すぐにコメントが流れ始めた。
『待ってた!』
『ニャルちゃんきた!』
『今日もかわいい』
『今日は何作るの?』
『お耳ぴこぴこしてる!』
カメラの前に座ったニャルが、小さな前足を上げた。
「にゃ!」
『かわいいいい!』
『今日も世界一かわいい』
『開幕にゃー助かる』
『料理猫の時間だ!』
……うん。
いつも通りのコメント欄だ。
画面の向こうに料理の専門家がいるかもしれないと思うと、まだ少し緊張する。
でも、こうしてニャルがいつものように挨拶しているのを見ると、自然と肩の力が抜けてきた。
「今日のメニューは、ホーンラビットとダンジョン野菜のクリーム煮です!」
俺が紹介すると、ニャルが念動力で材料を調理台に並べた。
主役は、きれいに処理されたホーンラビットの肉。
ほかにはゴブリンポテト、妖精ニンジン、タマネギ、キノコ。それから牛乳、バター、小麦粉など、クリーム煮に使う材料が揃っている。
『ホーンラビット!』
『前にも使ってたやつだ』
『クリーム煮いいなあ』
『絶対おいしい』
『肉と野菜たっぷり!』
「ホーンラビットのお肉は、もう食べられるように処理してあります。今日はそれを使って料理していきますね」
ニャルは肉の状態を確かめると、念動力で包丁を持ち上げた。
とん、とん、とん。
食べやすい大きさに、肉が切り分けられていく。
厚みを揃えながら、筋の向きも確かめているようだ。
小さな猫が包丁を浮かせている光景は、何度見ても不思議だと思う。
でも、手元の動きだけを見れば、すごく丁寧な料理人みたいだ。
『相変わらず包丁さばきがきれい』
『念動力の使い方うますぎる』
『肉の厚さが揃ってる』
『かわいいのに手元が職人』
「ニャル、最初はどうするの?」
『肉を焼くぞ。先に焼き色をつけておきたい』
「なるほど。最初にお肉を焼いて、香ばしくするんだね」
ニャルが小さく頷く。
肉の表面を丁寧に拭き、温めたフライパンに少量の油を広げた。
じゅうっ。
肉を並べた瞬間、気持ちのいい音が響いた。
香ばしい匂いが、少しずつ台所に広がっていく。
「わあ……もういい匂いがしてきた」
『まだ食うなよ』
「分かってるって!」
思わず笑ってしまった。
ニャルは肉をすぐには動かさず、焼き色がつくまでじっと待っている。
やがて、頃合いを見てひっくり返した。
表面には、きれいなきつね色がついていた。
『うわ、いい焼き色!』
『これだけでも食べたい』
『肉の表面をちゃんと拭いてから焼いてるんだ』
『香ばしそう……』
ニャルは肉をいったん皿へ取り出した。
次にフライパンへ入れたのは、薄く切ったタマネギだ。
じゅわっ。
肉を焼いた時とは少し違う、柔らかい音がする。
タマネギが透き通ってきたところで、妖精ニンジンとゴブリンポテト、キノコも加わった。
野菜の色が、フライパンの中で鮮やかに混ざり合う。
「ニャル、ゴブリンポテトも下処理済みなんだよね?」
『ああ。芽と緑色のところは、ちゃんと取ってあるぞ』
「ゴブリンポテトは、普通のジャガイモみたいに、芽や緑色になった部分を取り除いてから使います」
『それ前にも聞いた!』
『ちゃんと覚えてるぞ』
『普通のジャガイモに近いんだね』
『危ない部分を知ってれば食べられるのか』
「そうなんです。ニャルが安全なところを確認してくれるので、俺たちも安心して食べられるんですよ」
ニャルは何でもないことのように、野菜を炒め続けていた。
こうして見ると、やっていることは普通の料理と変わらない。
食材を切って、炒めて、煮込む。
ただ、その前に必要なことを、ニャルはちゃんと知っている。
それが、俺たちにとってどれだけありがたいことなのか。
配信をするようになってから、少しずつ分かってきた気がする。
タマネギがしんなりして、甘い香りが漂い始めた。
ニャルはバターを加え、溶けたところへ小麦粉を振り入れる。
木べらが動き、粉っぽさがなくなるまで丁寧に炒められていった。
そこへ牛乳を少しずつ注ぐ。
白い液体が野菜の間に広がり、ゆっくり混ぜるうちに、とろりとしたソースへ変わっていく。
『うわあ、おいしそう』
『ダマになってない』
『こうやって作るんだ』
『ニャルちゃんの料理、毎回勉強になる』
俺はフライパンを覗き込んだ。
白いソースの中に、橙色の妖精ニンジンと、ほくほくしていそうなゴブリンポテトが見える。
そこへ、さっき焼いたホーンラビットの肉が戻された。
ふつ、ふつ。
小さな泡が浮かんでは消える。
……おいしそう。
早く食べたいな。
そんなことを考えていた時だった。
『ホーンラビットって、どうすれば食べられるの?』
コメント欄に、一つの質問が流れた。
「あっ」
思わず声が出る。
続けて、似たようなコメントがいくつも並んだ。
『肉に毒があるって聞いたけど』
『何か特別な下処理がいるの?』
『普通に焼くだけじゃ駄目なんだよね?』
『前から気になってた』
俺はニャルを見た。
「ニャル、ホーンラビットを安全に食べる方法を聞かれてるんだけど」
『ん? 角の根元にある臭腺を取るんだぞ』
「角の根元……ああ、そうだったね」
ニャルの説明を聞いて、俺はカメラへ向き直った。
「ええっと、ニャルによると、ホーンラビットは肉そのものに毒があるわけじゃないそうです」
『えっ』
『肉自体は大丈夫なの?』
『じゃあ何が危ないんだ?』
「危ないのは、角の根元の近くにある臭腺なんだって。そこに痺れを起こす成分があって、解体するときに取り除く必要があるそうです」
ニャルが俺の方を見て、小さく頷いた。
『周りも一緒に切り離すんだぞ。臭腺だけ取ればいいってわけじゃない』
「あ、臭腺の周りも一緒に切り離さないといけないんだね」
俺は説明を付け足した。
「臭腺とその周囲を、解体の段階でちゃんと取り除くのが大事みたいです。今日のお肉は、その処理が終わっているので、普通に加熱して料理できるんですよ」
『角の根元!?』
『そんなところに原因があるのか』
『解体の時点で処理するんだ』
『肉の味付けとかじゃないのね』
『初めて知った』
コメント欄の流れが、少し速くなった。
ニャルは鍋の火加減を確かめながら、いつも通り料理を続けている。
「ただ、臭腺の分泌物には痺れを起こす成分があるそうなので、処理が正しいか分からないお肉を、自己判断で食べるのは危ないです。そこは気をつけてくださいね」
『それ大事』
『知らずに料理したら危ないな』
『解体の仕方で変わるのか』
『ちゃんと安全確認が必要なんだね』
俺は頷いた。
「俺も、ニャルに教えてもらうまでは知りませんでした。ダンジョン食材って、まだ分からないことが多いですもんね」
すると、こんなコメントが流れてきた。
『ニャルちゃんって、どうしてそんなこと知ってるの?』
……うん。
それは俺も不思議だ。
ニャルは鑑定で食材の危ないところが分かるらしいけど、それにしても詳しすぎる気がする。
「ニャルには、食材の安全な処理方法が分かるみたいなんです。俺もいつも教えてもらってます」
そう答えると、コメント欄に驚きの声が並んだ。
『すごい能力だな』
『料理のための鑑定みたい』
『食材に詳しい猫……』
『ニャル先生じゃん』
『かわいいだけじゃなかった』
最後のコメントを見て、俺は思わず笑った。
「ニャル、先生って呼ばれてるよ」
『先生?』
「料理を教えてほしいってことじゃないかな」
『俺、普通に飯作ってるだけなんだけどな』
「そこがすごいんだよ」
俺が笑いながら言うと、ニャルは不思議そうに首を傾げた。
その仕草を見た視聴者が、また一斉に盛り上がる。
『首かしげた!』
『かわいい!』
『ニャル先生かわいすぎる』
『料理もできてかわいいとか最強』
……あはは。
やっぱり、いつものコメント欄だ。
俺は少しだけ安心した。
プロの料理人が見ているかもしれない。
そう思って緊張していたけど、結局、俺たちはいつも通り料理をしている。
それでいいんだよな。
――――――
『そろそろいいぞ』
ニャルが鍋の火を止めた。
白いクリームソースの表面から、柔らかな湯気が立ち上る。
肉の香ばしい匂いに、バターと野菜の甘い香りが重なっていた。
「わあ……!」
俺は思わず身を乗り出した。
ニャルが深めの皿を用意し、念動力でお玉を持ち上げる。
とろり。
クリーム煮が、ゆっくり皿へ盛りつけられていった。
焼き色のついたホーンラビットの肉が、白いソースの中から顔を出している。
ゴブリンポテトは角が少し丸くなり、妖精ニンジンの鮮やかな橙色が、いいアクセントになっていた。
最後に、刻んだハーブを少しだけ散らす。
『よし、できた』
「完成です! ホーンラビットとダンジョン野菜のクリーム煮!」
カメラを皿へ近づける。
とろりとしたソースが肉に絡み、湯気と一緒においしそうな香りが漂ってきた。
『うわあああ!』
『絶対うまい!』
『お肉の焼き色が最高』
『野菜もおいしそう』
『食べたい!』
『今日も飯テロだった』
「ありがとうございます!」
俺はコメント欄を見ながら笑った。
「今日もニャルがおいしそうな料理を作ってくれました。食事はこの後、家族でゆっくりいただこうと思います!」
『食べるところも見たい!』
『一口だけ!』
『完成した料理見られたから満足』
『ゆっくり食べてね』
『ニャルちゃんお疲れさま!』
食べるところを見たいと言ってくれる人もいる。
でも、俺たちは料理が完成したら配信を終えることにしている。
ニャルが作ってくれたご飯を、温かいうちに、ちゃんと味わって食べたいからだ。
カメラやコメントを気にしながら食べるより、目の前の料理を楽しみたい。
それは、ニャルも同じだった。
「それじゃあ、今日の配信はここまでです。また次回もよろしくお願いします!」
ニャルが前足を上げる。
「にゃ!」
『ニャルちゃんまたね!』
『今日もかわいかった!』
『料理参考になった』
『次も楽しみ!』
俺は配信終了のボタンを押した。
画面の表示が切り替わり、台所にいつもの静けさが戻ってくる。
「ふう……終わった!」
『お疲れ』
「ニャルもお疲れさま!」
俺が笑いかけると、ニャルは満足そうに尻尾を揺らした。
『さあ、食うぞ。冷める前にな』
「うん!」
……そうだ。
ここからが、俺たちのお楽しみだ。
――――――
「まあ、おいしそう!」
食卓に料理を運ぶと、母さんが嬉しそうに声を上げた。
「今日はクリーム煮なのね」
「うん! ホーンラビットのお肉を使ってるんだ」
「あら、あのおいしいお肉ね」
母さんも、前に食べた香草焼きを覚えているらしい。
俺たちはそれぞれ席につき、ニャルの分も小さな器に取り分けた。
ニャルの器には、食べやすい大きさにした肉と野菜が入っている。
湯気が少し落ち着くのを待ってから、みんなで手を合わせた。
「いただきます!」
『いただきます』
俺はスプーンでクリーム煮をすくった。
柔らかく煮えたゴブリンポテトと、焼き色のついたホーンラビットの肉。
白いソースが、とろりと絡んでいる。
ふうっと息を吹きかけて、口へ運ぶ。
……あ。
「んんっ……おいしい!」
思わず声が漏れた。
最初に広がったのは、クリームの優しい味だった。
濃厚なのに重たくなくて、野菜の甘みがじんわり溶け込んでいる。
そこへ、ホーンラビットの肉の旨みが重なった。
表面を先に焼いてあるから、噛んだ瞬間に香ばしい風味が広がる。
肉はしっとり柔らかく、噛むほどに旨みが出てきた。
……これ、すごい。
「ニャル、お肉がすっごくおいしい!」
『だろ? 先に焼いておくと、香りがよくなるんだ』
「うん! クリームともすごく合ってる!」
俺は続けてゴブリンポテトを口に運んだ。
ほろりと崩れる柔らかさ。
ほくほくした食感に、クリームソースがよく絡む。
妖精ニンジンは、噛むと優しい甘みが広がった。
キノコの旨みもソースに溶け込んでいて、ひと口ごとに違う味が楽しめる。
「本当においしいわね。お野菜の味もしっかり出てる」
母さんも嬉しそうに頷いていた。
「ホーンラビットって、こういうお料理にも合うのね」
『肉の味がしっかりしてるからな。煮込んでも負けないんだ』
ニャルが説明すると、母さんが感心したように微笑んだ。
「なるほどねえ。ニャルちゃんは本当にお料理上手ね」
『へへっ』
ニャルが嬉しそうに尻尾を立てる。
俺はその様子を見て、つい笑ってしまった。
さっきの配信では、プロの料理人が見ているかもしれないと緊張していた。
でも、こうして食卓を囲んでいると、そんなことはどうでもよくなってくる。
ニャルが作ったご飯を食べて、みんなでおいしいと言い合う。
俺にとっては、この時間が一番好きだ。
「ニャル、今日もありがとう」
『おう。いっぱい食えよ』
「もちろん!」
俺はもう一度、スプーンを口へ運んだ。
温かいクリームソースが、じんわり体に染み込んでいく。
……ああ。
幸せだなあ。
今日も、ニャルのご飯は最高だった。
――――――
食彩堂の厨房には、営業を終えた後の静けさが戻っていた。
片づけを終えた調理台の端に、スマートフォンが置かれている。
俺はその画面を、じっと見つめていた。
橘修司。
この小さな創作料理店を営む料理人だ。
珍しい食材を扱うのが好きで、気づけばずいぶん長いこと、さまざまな料理を作ってきた。
その中でも、ダンジョン食材には特別な興味がある。
まだ知られていない味。
誰も料理に使おうとしない素材。
そこに、新しい可能性が眠っているんじゃないか。
そんな思いで、何年も研究を続けてきた。
もちろん、うまくいかないことも多かった。
というより、失敗の方がずっと多い。
ダンジョン食材は、そもそも食用として流通していないものが多い。手に入れるだけでも苦労するし、安全に食べられるかどうかも分からない。
それでも、諦めきれなかった。
料理人として、まだ知らない味を知りたい。
ただ、それだけだった。
そんな俺が最近気になっているのが、『ニャルの台所』という配信だ。
猫が料理をしている。
しかも、ダンジョン食材を使って。
最初に聞いた時は、何かの冗談かと思った。
ところが、実際に動画を見てみると、そこには本当に小さな猫型モンスターがいた。
念動力で包丁を操り、食材を切り、鍋をかき混ぜている。
見た目は、確かにかわいらしい。
だが、俺が驚いたのはそこじゃない。
包丁の入れ方。
火の当て方。
食材ごとの扱い。
どれも、驚くほど理にかなっていた。
しかも、あの猫は迷わない。
当たり前のように手を動かし、普通なら食用にしないダンジョン食材を、一皿の料理へ仕上げていく。
……何者なんだ、この猫は。
そう思って、今日も配信を見ていた。
そして。
「……ホーンラビットか」
画面に映った肉を見た瞬間、俺は思わず呟いた。
何度も挑戦した食材だ。
最初に手に入れた時は、期待で胸が躍った。
角こそ生えているが、姿はウサギに近い。
ならば、肉も食べられるのではないか。
そう考えるのは、自然なことだったと思う。
だが、現実は甘くなかった。
独特の臭いが残ることがあり、試食後に舌の痺れを訴える者もいた。
肉の状態によって結果が違う。
加熱の仕方を変えても、香辛料を工夫しても、どうしても解決しないことがあった。
もちろん、安全が確認できない料理を客に出すわけにはいかない。
だからこそ、何度も試作を重ねた。
血抜きの方法。
肉の保存状態。
加熱温度。
臭いを抑えるための下処理。
思いつく限りのことを試したが、安定した結果は得られなかった。
やがて俺は、ホーンラビットを店の料理として出すことを諦めた。
少なくとも、今の知識では無理だと判断したのだ。
……ところが。
画面の中の猫は、ホーンラビットの肉を何のためらいもなく切り分けていた。
厚みを揃え、表面の水分を拭き、フライパンで焼き色をつけていく。
その動きは丁寧で、料理人として見ても感心するものだった。
しかし、特別な処理をしているようには見えない。
普通の肉と同じように扱っている。
「……どういうことだ?」
俺は画面に顔を近づけた。
どこかで、俺の知らない工程を挟むのか。
加熱の途中に、何か工夫があるのか。
だが、猫はそのまま野菜を炒め、クリームソースを作り始めた。
……いや。
待て。
そもそも、肉を焼く前から何かが違うのかもしれない。
画面に映っているのは、すでに解体された肉だ。
そこまでの工程は分からない。
そう考えたところで、配信のコメント欄に質問が流れた。
『ホーンラビットって、どうすれば食べられるの?』
俺は思わず身を乗り出した。
……それだ。
俺も知りたい。
画面の中で、少年が猫へ顔を向けた。
「ニャル、ホーンラビットを安全に食べる方法を聞かれてるんだけど」
猫が、少年の方を見る。
「にゃ」
小さく鳴いた後、猫は少年を見つめていた。
少年は耳を傾けるように、少し間を置く。
それから頷いた。
「角の根元……ああ、そうだったね」
……角の根元?
何の話だ?
俺が眉をひそめたところで、少年がカメラへ向き直った。
「ええっと、ニャルによると、ホーンラビットは肉そのものに毒があるわけじゃないそうです」
……何?
俺は画面を見つめた。
少年は続ける。
「危ないのは、角の根元の近くにある臭腺なんだって。そこに痺れを起こす成分があって、解体するときに取り除く必要があるそうです」
「……は?」
思わず声が漏れた。
角の根元。
臭腺。
解体の時に取り除く。
頭の中で、言葉がぐるぐると回った。
画面の中では、猫がまた少年へ顔を向けている。
「にゃ」
少年が頷いた。
「あ、臭腺の周りも一緒に切り離さないといけないんだね」
それから、少年は視聴者へ説明を付け足した。
「臭腺とその周囲を、解体の段階でちゃんと取り除くのが大事みたいです。今日のお肉は、その処理が終わっているので、普通に加熱して料理できるんですよ」
……待て。
待ってくれ。
俺は思わずスマートフォンを手に取った。
今の話が本当なら。
俺が長年つまずいていた原因は、肉そのものじゃなかったということか?
頭の中で、これまで扱ってきたホーンラビットの肉を思い返す。
俺が仕入れていたのは、探索者や素材業者が解体した後の肉だった。
店に届く頃には、頭も角もない。
どんな順番で解体したのか。
どの部分を、どこまで切り落としたのか。
そんなことまでは分からなかった。
俺はずっと、肉の中に問題があると思っていた。
あるいは、血抜きが足りないのか。
あるいは、加熱の仕方が悪いのか。
厨房で何かをすれば、食べられるようになるはずだと考えていた。
……違ったのか。
そもそも、俺の手元へ届く前に、取り除いておくべきものがあったのか。
「……そこなのか」
声が、思ったより小さくなった。
長年、探していた答え。
何度も試して、何度も失敗して、それでも分からなかった理由。
それが今、画面の向こうであっさり語られている。
俺はもう一度、配信を見た。
小さな猫は、何事もなかったように鍋をかき混ぜている。
そして少年は、コメントを読みながら、その猫へ時々話しかけていた。
猫が鳴く。
少年が頷く。
少年が、猫から聞いたことを視聴者へ説明する。
……そういうことか。
俺はようやく気づいた。
最初は、少年がダンジョン食材について詳しいのだと思っていた。
だが、違う。
少年は、猫に尋ねている。
そして、猫から教えられたことを、俺たちに伝えている。
つまり。
ホーンラビットの危険部位を知っているのは、あの猫の方なのだ。
「……はは」
思わず笑ってしまった。
何ということだ。
長年、ダンジョン食材を研究してきた俺が分からなかったことを、あの小さな猫は当然のように知っている。
しかも、その知識を使って、実際に料理を作っている。
……まいったな。
俺は調理台へ視線を落とした。
そこには、今日の営業で使った包丁が置かれている。
料理人として、包丁の扱いには自信がある。
火入れも、味の組み立ても、長い時間をかけて磨いてきた。
だが、食材そのものを知らなければ、どうにもならないことがある。
ホーンラビットは、その一つだったのだ。
俺はずっと、厨房の中で答えを探していた。
けれど、本当に必要だったのは、厨房に届く前の知識だった。
……なるほど。
これなら、俺が試作を重ねても結果が安定しなかった理由も説明がつく。
解体の段階で正しく処理された肉と、そうでない肉。
その違いを知らずに、同じ食材として扱っていたのだから。
俺は再び画面へ目を戻した。
猫が、完成したクリーム煮を皿へ盛りつけている。
白いソースの中に、焼き色のついた肉が見える。
ゴブリンポテトと妖精ニンジンの色合いも美しい。
……いい料理だ。
画面越しでも、それは分かる。
肉の旨みを生かし、野菜の甘みを引き出し、クリームで全体をまとめている。
決して奇をてらった料理じゃない。
食べる人に、おいしいと思ってもらうための一皿だ。
そして、その料理を支えているのが、俺の知らなかった食材の知識。
俺は小さく息を吐いた。
……すごいな。
素直に、そう思った。
料理人としての経験なら、俺の方が長いだろう。
あの猫がどこまで料理を知っているのかも、まだ分からない。
だが、少なくともダンジョン食材の扱いについては、俺が学ぶべきことが山ほどありそうだ。
知らないことを知っている相手がいる。
その相手が猫だからといって、学ばない理由にはならない。
画面の中では、少年が完成した料理を紹介していた。
コメント欄が一斉に盛り上がる。
『おいしそう!』
『ニャルちゃんすごい!』
『料理教えてほしい』
『ニャル先生!』
……先生、か。
俺はその言葉を見て、思わず頷いた。
「先生だ」
自然と、そんな言葉が口から出ていた。
相手は、小さな猫型モンスター。
それなのに、俺は今、本気であの猫から料理を学びたいと思っている。
何だかおかしくて、また笑ってしまった。
画面の中で、少年が配信を締めくくる。
猫も小さな前足を上げて、「にゃ」と鳴いた。
やがて配信が終わり、画面が切り替わった。
俺はしばらく、その画面を見つめていた。
ホーンラビットの臭腺。
解体の段階で取り除くべき危険部位。
まずは、そこから調べ直してみよう。
正しく処理された肉を手に入れられれば、俺にも料理として仕上げられるはずだ。
……いや。
それだけじゃない。
あの猫は、ほかにも何かを知っているに違いない。
今まで俺が諦めてきた食材にも、まだ可能性があるのかもしれない。
そう思うと、胸の奥がわくわくしてきた。
何年も料理を続けてきたのに、こんな気持ちになるのは久しぶりだ。
俺はスマートフォンを置き、静かな厨房を見渡した。
まだ知らない味がある。
まだ作れる料理がある。
その可能性を、小さな猫が教えてくれた。
……一度、話をしてみたい。
どうしてそんなことを知っているのか。
ほかにどんな食材を扱えるのか。
そして、どんな料理を作るのが好きなのか。
聞いてみたいことが、次から次へと浮かんでくる。
俺はもう一度、配信の終わったスマートフォンを見た。
「会いたいな、この先生」




