第36話 世界一かわいいのは、うちの子です
世界一かわいい猫は誰か。
そんな質問をされたら、私の答えは決まっている。
もちろん、きなこだ。
これは飼い主の欲目とか、そういう話じゃない。
だって、見れば分かるもの。
「きなこ、今日もかわいい」
「にゃあ」
私の膝の上で、きなこがのんびりと返事をした。
淡いきなこ色の毛並み。丸みのある小さな耳。ふわふわの尻尾。そして、背中にはちょこんと生えた二枚の翼。
体長は三十センチくらい。普通の猫と比べても小柄な方だけど、翼があるせいで、どこにいてもすぐに目立つ。
種族はケットシー。
私の大切なテイムモンスターで、ずっと一緒に暮らしている家族だ。
「ねえ、こっち向いて?」
スマートフォンを構えると、きなこがゆっくり顔を上げた。
ぱしゃり。
かわいい。
もう一枚。
ぱしゃり。
かわいい。
ちょっと首を傾げた。
ぱしゃり。
……かわいすぎる。
「ちょっと待って。その角度は反則でしょ」
「にゃ?」
「うん、かわいい。知ってる」
きなこは何を言われているのか分かっているのか、いないのか。気持ちよさそうに目を細めて、私の膝に顎を乗せた。
私はそっと頭を撫でる。
柔らかい。
温かい。
幸せ。
学校の授業も、宿題も、ちょっと面倒なことも、この毛並みに触れていると全部どうでもよくなってくる。
……いや、宿題はやらないと駄目だけど。
「今日も平和だねえ」
「にゃあ」
きなこが小さく欠伸をした。
翼がぴくりと動く。
その瞬間を逃さず、私はまた写真を撮った。
私のスマートフォンには、きなこの写真がたくさん入っている。
寝顔。
ご飯を食べているところ。
日向ぼっこ。
ふわふわ浮いているところ。
ちょっと不機嫌そうな顔。
どれもかわいい。
削除できる写真なんて、一枚もない。
この前、友達に写真を見せたら「全部同じに見える」と言われた。
全然違うのに。
耳の角度も、尻尾の曲がり方も、目の細め具合も違う。
きなこは毎日かわいい。
しかも、毎日違うかわいさを見せてくれる。
これを記録しないなんて、もったいないじゃない。
「さて、今日は何しようか」
私はきなこの顎の下を撫でながら、窓の外を見た。
今日は学校が休みだ。
天気もいいし、出かけるのも悪くない。
でも、きなこがこんなに気持ちよさそうにしている。
わざわざ起こすのもかわいそうだ。
「もう少し、のんびりしよっか」
「んにゃ」
賛成らしい。
私はソファに深く座り直し、空いている手でスマートフォンを操作した。
――――――
私、白石小春。
十七歳の高校二年生。
普段は学校へ通って、休みの日にはきなことダンジョンへ行くこともある。
探索者としては、そんなにすごくない。
というか、すごくなるつもりもあんまりない。
安全に探索して、無理のない範囲で素材を集めて、少しお金を稼ぐ。
それくらいで十分だ。
きなこは危険なものに気づくのが得意だから、探索中も何度も助けてもらっている。
でも、だからといって無理をする気はない。
きなこに怪我なんてさせたくないし、私だって怪我をしたくない。
危なそうなら引き返す。
それが私たちのやり方だ。
探索者のランキングとか、強いモンスターを倒した話とか、そういうものにはあまり興味がない。
動画も同じ。
有名な探索者の配信より、かわいい猫の動画を見ている方が好き。
だから、その日もいつものように、猫の動画を探していた。
「んー……この子もかわいいなあ」
画面の中では、白い猫が小さな箱に無理やり入ろうとしていた。
明らかに箱の方が小さいのに、どうしても入りたいらしい。
前足を入れて、お尻を押し込んで、最後には尻尾だけが外に残っている。
「ふふっ。分かる。入りたいんだよねえ」
私は笑いながら動画を見終えた。
その下に、別のおすすめ動画が表示される。
小さな猫が、銀灰色の大きな鍋の前に立っていた。
タイトルには、猫専用鍋という言葉。
「……猫?」
思わず指が止まった。
サムネイルの猫は、ちょっと変わっている。
普通の猫より小さい。
しかも、後ろ足で立っているように見える。
その隣には、料理をしているらしい高校生くらいの男の子。
いや、違う。
よく見ると、男の子はカメラに向かって話しているだけで、料理道具を動かしているのは猫の方だ。
「え、何これ」
気になる。
すごく気になる。
私は動画を開いた。
――――――
「こんにちは、悠真です。今日も『ニャルの台所』、始めます!」
明るい声が聞こえた。
画面には、さっきの男の子と、小さな猫。
猫はカメラの方へ顔を向け、尻尾をひと振りした。
「…………」
私は画面を見つめた。
もう一度、再生位置を戻す。
猫が尻尾を振る。
「…………かわいい」
何、今の。
挨拶?
挨拶したの?
しかも、ちゃんとカメラの方を見てた。
私は思わず、膝の上のきなこを見下ろした。
「きなこ、見て。かわいい子がいる」
「にゃ?」
きなこが顔を上げる。
私はスマートフォンを少し傾け、画面を見せた。
きなこは一瞬だけ動画を見て、それから私の手に頭を擦りつけた。
「はいはい。きなこもかわいいよ」
もちろん、世界一はきなこだから。
そこは変わらない。
でも。
画面の猫も、相当かわいい。
私は続きを再生した。
「今日はちょっと特別です。新しい料理道具が届いたので、お披露目します」
男の子が大きな鍋を映す。
すると、小さな猫がその鍋を見上げた。
耳がぴんと立っている。
尻尾も揺れている。
「……待って」
私は画面を止めた。
この子、鍋を見て喜んでる?
猫なのに?
いや、猫が鍋を好きでも別にいいけど。
普通、鍋そのものを見てこんなに嬉しそうな顔をする?
「かわいい……」
私は小さく呟いた。
動画を再開する。
今度は包丁が宙に浮いた。
「えっ」
包丁がまな板の上を動く。
とん、とん、とん。
野菜がきれいに切られていく。
その横で、小さな猫が真剣な顔をしていた。
「えっ、えっ?」
私は思わず身を乗り出した。
きなこが膝から滑り落ちそうになり、小さな翼を広げてふわりと浮いた。
「あっ、ごめん、きなこ!」
「にゃあ」
きなこは怒るでもなく、私の隣へゆっくり着地した。
私はその頭を撫でてから、もう一度画面を見る。
猫が料理している。
それも、ただ道具を動かしているだけじゃない。
食材を見て、切り方を変えている。
男の子が何か話しかけると、耳を動かして顔を上げる。
尻尾を揺らしながら、また料理へ戻る。
「何この子……」
かわいい。
かわいいんだけど。
それだけじゃない。
すごく真剣だ。
小さな体で、料理に一生懸命向き合っている。
しかも、包丁を動かしている時の表情が、妙に職人っぽい。
「……かわいい」
また言ってしまった。
でも、仕方ない。
だって、かわいいんだもの。
――――――
動画はどんどん進んでいった。
猫が鍋に肉を入れる。
じゅうっと音がして、画面越しにも美味しそうなのが分かる。
大きな野菜を加えて、トマトを入れて。
鍋の中が赤い煮込みになっていく。
「これ、普通に美味しそう……」
私は思わず呟いた。
ダンジョン食材を使った料理は、私も何度か食べたことがある。
探索者をしていると、素材を持ち帰る機会もあるからだ。
でも、こんなに本格的に料理する猫は初めて見た。
というか、料理する猫自体、初めてだ。
猫が蓋を持ち上げる。
湯気が広がる。
その瞬間、猫の耳がぴくっと動いた。
「……っ」
私は口元を押さえた。
何、今の。
匂いを嗅いだの?
いい匂いだって思ったの?
鼻、ひくひくしてる。
かわいい。
かわいすぎる。
私は再生位置を少し戻した。
もう一回。
湯気。
ぴくっと動く耳。
ひくひくする鼻。
「……ふふっ」
駄目だ。
笑っちゃう。
何でこんなにかわいいの。
その後、猫は鍋を宙に浮かせた。
中には、たっぷりの煮込みが入っている。
それなのに、鍋はぐらつかない。
ゆっくり傾いて、また元に戻る。
「すご……」
思わず感心した。
きなこもふわふわ浮くけど、あれはきなこ自身の能力だ。
この子は念動力で鍋を動かしているらしい。
しかも、中身が入った大きな鍋を。
普通に考えたら、かなり器用なことをしている。
でも。
私が一番気になったのは、そこじゃなかった。
鍋を戻した後の、猫の顔だ。
ものすごく満足そう。
目を細めて、尻尾をゆらゆら揺らしている。
「……そんなに嬉しいんだ」
私は思わず笑ってしまった。
この子、本当に料理が好きなんだ。
ただ飼い主に言われて動いているんじゃない。
自分で考えて、作って、楽しんでいる。
それが画面越しにも伝わってくる。
最後に完成した煮込みが映った。
大きな肉と野菜が、赤い煮汁の中でつやつやしている。
「うわ、美味しそう」
思わずお腹が鳴りそうになった。
猫のかわいさ目当てで開いた動画なのに、料理まで食べたくなるなんて。
ずるい。
この動画、ずるい。
――――――
動画を見終わった私は、しばらく画面を見つめていた。
チャンネル名は『ニャルの台所』。
猫の名前は、ニャル。
飼い主らしい男の子は、悠真くん。
「ニャル……」
私は小さく名前を呟いた。
いい名前。
覚えやすいし、かわいい。
それに、あの小さな体。
きなこよりずっと小さいんじゃないかな。
きなこは体長三十センチくらいだけど、ニャルはもっと小柄に見える。
なのに、あんな大きな鍋を動かしている。
すごいなあ。
私はコメント欄を開いた。
『ニャルかわいすぎ』
『料理上手すぎる猫』
『鍋を見て喜んでるの好き』
『世界一かわいい猫』
「……それは違う」
私は真顔で呟いた。
「世界一はきなこだから」
「にゃ?」
隣で丸くなっていたきなこが顔を上げた。
「うん、きなこのことだよ」
私はその頭を撫でる。
きなこは満足そうに目を細めた。
そう。
世界一はきなこ。
これは譲れない。
でも、ニャルもかわいい。
ものすごくかわいい。
たぶん、世界で二番目くらいにはかわいい。
……いや。
二番目って決めるのも、何だか違う気がする。
きなことニャルでは、かわいさの種類が違う。
きなこは、ふわふわで、のんびりしていて、甘えん坊で。
ニャルは、小さくて、真剣で、表情が豊かで。
どっちもかわいい。
でも世界一はきなこ。
そこだけは絶対だ。
「……他の動画もあるのかな」
私はチャンネルの一覧を開いた。
ずらりと並ぶ動画。
包丁を使うニャル。
ダンジョン食材を調理するニャル。
料理を完成させて満足そうなニャル。
どれも気になる。
「……一本だけ」
私はそう呟いて、次の動画を開いた。
――――――
一本だけ。
そう思っていた。
本当に、そう思っていた。
でも。
「あ、この回もかわいい」
次。
「えっ、今の尻尾の動き何?」
もう一回。
「ちょっと待って、包丁使う前の顔が真剣すぎる」
次。
「……この子、魚好きなのかな」
また次。
気づけば、何本も動画を見ていた。
途中できなこが私の腕に頭を擦りつけてきたので、もちろん撫でた。
片手できなこを撫でながら、もう片方の手で動画を操作する。
完璧だ。
これなら、きなこも寂しくない。
「ねえ、きなこ。ニャルってすごいね」
「にゃあ」
「料理が上手なんだよ。それに、すごくかわいい」
きなこは私の手に頬を押しつけてきた。
「はいはい。きなこもかわいいよ」
私は笑って、耳の後ろを撫でる。
きなこは喉を鳴らした。
その音を聞きながら、また動画を見る。
ニャルは本当に表情が豊かだ。
料理が上手くいくと、尻尾が動く。
何か気になるものを見つけると、耳が立つ。
美味しそうな匂いがすると、鼻をひくひくさせる。
そして、料理が完成すると、何とも言えない満足そうな顔をする。
それが、たまらなくかわいい。
しかも、飼い主の悠真くんもニャルのことが大好きらしい。
動画の中で、何度もニャルに話しかけている。
ニャルが何か動作をすると、すぐに反応する。
その様子が、何だか私ときなこみたいで。
「……分かるなあ」
私は思わず呟いた。
かわいい子がそばにいると、話しかけたくなる。
何をしていても見ていたくなる。
ちょっとした仕草が嬉しくなる。
それって、すごくよく分かる。
私だって、きなこが寝返りを打っただけで写真を撮るし。
……うん。
やっぱり、猫飼いってそういうものだよね。
私は動画を一時停止して、チャンネル登録のボタンを押した。
通知も設定する。
これで、新しい動画が出たらすぐ分かる。
「よし」
私は満足してスマートフォンを置いた。
その時、画面の上に表示された時刻が目に入った。
「……えっ」
思っていたより、ずっと時間が経っていた。
ちょっと猫の動画を見るだけのつもりだったのに。
「……宿題」
私は机の上を見た。
まだ終わっていない課題がある。
そうだった。
休みの日だからって、全部自由なわけじゃない。
「うう……」
私はきなこを見下ろした。
「きなこ、応援して」
「にゃあ」
きなこは私の膝からふわりと浮き上がり、机の端に着地した。
そして、丸くなった。
……寝るんだ。
でも、かわいいからいい。
「よし。頑張ろう」
私は教科書を開いた。
その横で、きなこが気持ちよさそうに目を閉じている。
スマートフォンの画面には、さっきまで見ていたニャルの動画。
私はそれを伏せた。
今見たら、絶対また再生しちゃう。
……宿題が終わったら、もう一本だけ見よう。
うん。
一本だけ。
――――――
それから数日。
私の日常に、小さな楽しみが増えた。
学校から帰って、きなこを撫でる。
きなこのご飯を用意する。
宿題をする。
それから、ニャルの動画を見る。
新しい配信があれば嬉しいし、なければ過去の動画を見返す。
何度見てもかわいい。
不思議だ。
同じ動画なのに、毎回違うところが気になる。
今日は耳。
昨日は尻尾。
その前は、料理が完成した時の顔。
ニャルのかわいさには、まだまだ発見がある。
「ねえ、きなこ」
「にゃ?」
「ニャルって、実際に会ったらどんな子なんだろうね」
きなこは私を見上げ、ゆっくり瞬きをした。
私はその頭を撫でる。
「まあ、会えるわけないか」
動画の向こうにいる猫だ。
同じ街に住んでいるかどうかも分からない。
それに、会えたとしても、いきなり近づいたら驚かせちゃうかもしれない。
きなこだって、知らない人に急に触られたら嫌だろうし。
かわいいからって、何をしてもいいわけじゃない。
それは、猫と暮らしていれば分かることだ。
「動画で見られるだけでも十分だよね」
「にゃあ」
「うん。きなこもいるし」
私はきなこを抱き上げ、頬を寄せた。
ふわふわ。
温かい。
やっぱり世界一かわいい。
……それはそれとして、ニャルにも会ってみたいけど。
ちょっとだけ。
ほんのちょっとだけね。
――――――
その週の休日。
私はきなこと一緒に、買い物へ出かけることにした。
目的地は、テイムモンスター用品店の『もふもふ堂』。
きなこが使っているブラシが少しくたびれてきたので、新しいものを見に行くつもりだ。
それと、寝床に敷く柔らかい布も欲しい。
最近、きなこは窓際で昼寝するのがお気に入りだから、日向ぼっこ用に一枚あるといいかもしれない。
「きなこ、行くよー」
「にゃあ」
きなこが小さな翼を広げた。
ふわり。
床から少し浮き上がり、私の肩の高さまで上がってくる。
そのまま、ゆっくり私の方へ近づいてきた。
「はいはい、こっちね」
私は腕を差し出す。
きなこはその上に軽く降りた。
翼をたたみ、満足そうに丸くなる。
「もう。歩く気ないでしょ」
「にゃ」
「かわいいからいいけど」
私は笑って、きなこの背中を撫でた。
小さな翼の付け根を避けながら、毛並みを整える。
きなこは気持ちよさそうに目を細めた。
外へ出ると、空はよく晴れていた。
風も穏やかで、気持ちのいい日だ。
私はきなこを連れて、もふもふ堂へ向かった。
道中、きなこは時々腕からふわりと浮き上がった。
少し先へ進んでは戻ってくる。
気になるものがあると、ゆっくり高度を変えて眺める。
でも、遠くへ行くことはない。
私が歩く速さに合わせて、いつも近くにいてくれる。
「きなこ、今日はどんなブラシがいいかな」
「にゃあ」
「柔らかいやつがいいよね。前のも気に入ってたし」
きなこは尻尾を揺らした。
私はその様子を見て笑う。
こうして一緒に買い物へ行くのも、私たちにとってはいつものことだ。
きなこが好きそうなものを探す時間は、結構楽しい。
お店に着くと、私は入口の前で立ち止まった。
「着いたよ、きなこ」
「にゃ」
きなこが私の腕に戻ってくる。
私は扉に手をかけた。
その時だった。
「……にゃ」
小さな声が聞こえた。
私は動きを止めた。
今の。
どこかで聞いたことがあるような。
もちろん、猫の鳴き声なんて珍しくない。
もふもふ堂なら、なおさらだ。
でも。
何だろう。
胸が少しだけ跳ねた。
私はゆっくり顔を上げた。
扉の向こう。
店内の少し先に、小さな猫の姿が見える。
きなこより、ずっと小さい。
その猫のそばには、見覚えのある男の子。
私は息を止めた。
まさか。
そんな。
だって、動画で何度も見た。
小さな体。
ぴんと立った耳。
よく動く尻尾。
あの顔。
間違えるはずがない。
私は思わず声を漏らした。
「……ニャル?」




