第16話 サーモンは正義
魚を焼く匂いは危険だ。ものすごく危険だ。
「ニャル」
『なんだ』
「さっきからフライパンしか見てないぞ」
『料理中だからな』
「尻尾、すごい動いてるけど」
『料理中だからだ』
「そんな理由ある?」
ある。たぶん。
――――――
碧水の地下湖から帰ると、俺はすぐにキッチンへ向かった。
今日の獲物はケイブサーモン。それから岩ガニ。水晶クラゲは捕まえる道具がなかったから今回はなしだ。次は網を持っていく。絶対だ。
「ニャル」
『なんだ』
「そのサーモン、ずっと見てるな」
『当たり前だ』
調理台の上には大きなケイブサーモン。持って帰るまでに暴れたせいで銀色の鱗は少し乱れているが、立派な魚だ。身も厚そうで、脂も期待できる。
焼く。絶対に美味い。
「本当に魚好きなんだな」
『普通だ』
「ダンジョンで飛び込もうとしてた猫が?」
『事故だ』
「自分から走ってたけど」
『足が滑った』
「水辺まで一直線に?」
『そういうこともある』
「ないと思う」
細かいな。もう終わった話だ。今は料理の方が大事だ。
俺は前足を組み、魔力を流す。包丁がふわりと宙へ浮いた。
「お」
悠真は一歩だけ下がった。最近はこの光景にもすっかり慣れたらしく、最初の頃みたいに包丁が浮いただけで驚いたりはしない。むしろ今では、
「何か手伝う?」
と聞いてくる。
『皿出して。あと小麦粉』
「了解」
『バターも』
「ムニエル?」
『うむ』
「いいじゃん」
分かってきたな。
今日の主役はケイブサーモンのムニエルだ。厚い身を表面は香ばしく、中はふっくら。そこにバターの香りと魚の脂。絶対に美味い。
岩ガニは汁物にする。こっちはカニの出汁が主役だ。
一食で魚とカニ。完璧だ。
『よし』
まずはサーモンの処理から始める。
鑑定で分かる手順を一つずつ、間違えずに進めていく。普通の魚とまったく同じではないが、安全に美味しく食べる方法が分かっているなら問題はない。
包丁がすっと腹へ入った。
「…………」
『どうした』
「いや」
悠真が俺を見る。
「猫が魚捌いてるなって」
『今さら?』
「今さらなんだけど。改めて見るとすごいな」
そうか?
魚を見たら捌く。普通だ。猫なら食べる方が普通な気もするが、俺は料理できる猫だからな。
必要な処理を済ませ、身を切り分けていく。ただ、魚自体がかなり大きい。
『む』
骨の近くで刃が止まった。
「どうした?」
『ちょっと硬い』
角度を変えて、もう一度。ぐっと力をかければ刃は入る。切れないわけではない。ただ、少し扱いにくい。
今使っているのは家にあった普通の包丁だ。人間が家で料理するには十分だし、俺も念動力で問題なく扱えている。
でも、今日みたいな大きな魚や、骨の周り、頭の近くを処理するには少し物足りない。
「代わる?」
悠真が聞いてくる。
『大丈夫』
「無理するなよ」
『無理はしてない』
少し力を込めると、刃はきちんと進んだ。切れる。けど。
『……もっと切れると楽だな』
「包丁?」
『うむ』
「今のじゃ駄目?」
『普段なら十分』
ゴブリンポテト、妖精ニンジン、ケイブマッシュルーム、ホーンラビットの肉。その辺りなら困らない。
でも、食材が変われば必要な道具も変わる。魚。骨。これからもっと硬いものだって出てくるかもしれない。
俺たちは今後、もっと色々なものを食う。
なら、包丁も欲しくなる。
「まあ、それは後で考えるか」
『そうだな』
今はサーモンだ。
俺は切り分けた身をじっと見る。綺麗だ。厚い。美味そう。
「ニャル」
『なんだ』
「顔近いぞ」
『確認だ』
「何の?」
『魚の』
「またそれ言ってる」
大事な確認だ。
――――――
切り身へ軽く下味をして、少し置く。その間に岩ガニを片付ける。
『こっちもやる』
「大忙しだな」
『今日は豪華だ』
「確かに」
大きな岩ガニも、鑑定で分かる通りに必要な処理を済ませていく。殻が硬いので、鍋へ入れられる大きさにするところは悠真にも手を借りた。
「ここ?」
『そこ』
「これでいい?」
『もう少し』
「了解」
ぱき、と殻が割れる。
『おお』
「何?」
『いい音』
「カニ割った音に感動する猫いる?」
『いる』
ここに。
鍋へ水と岩ガニを入れ、火にかける。ゆっくり温めていくと、やがて湯気と一緒に香りが立ち始めた。
「……あ」
悠真も気付いたらしい。
『うむ』
カニの出汁だ。かなりいい。
鼻が勝手に動く。すん、すんすん。
「ニャル」
『なんだ』
「鍋に入るなよ?」
『入らん』
「顔近いから」
『匂いを確認してる』
「ほんと?」
『本当だ』
半分は本当だ。
残り半分は食べたい。
でも、まだ我慢する。このあと、もっと危険なものがある。
サーモンだ。
――――――
フライパンを熱し、バターを落とす。
じゅわ、と音を立てて溶け始めた。
「…………」
「ニャル」
『まだ何もしてない』
「何も言ってないけど」
『先に言った』
「自覚あるんじゃん」
ない。
俺はケイブサーモンの切り身へ薄く小麦粉をまとわせ、余分を落とす。そしてフライパンへ。
じゅううっ。
「にゃ……」
出た。声が。
「今鳴いた?」
『鳴いてない』
「鳴いたよ」
『油の音だ』
「『にゃ』って鳴る油ある?」
あるかもしれない。ダンジョンなら。
いや、今は普通のバターだ。無理か。
ケイブサーモンの表面が焼けていく。バターと魚の脂が熱の中で混ざり、香ばしい匂いが鼻へ届く。
これはまずい。
いや、美味い。まだ食ってないけど美味い。
「すごい匂いだな」
『うむ』
「腹減ってきた」
『俺も』
「さっきからずっと減ってるだろ」
『今日は仕方ない』
魚だからな。
表面がこんがり焼けたところでひっくり返す。
また、じゅう、といい音がする。反対側にも火が入り、厚い身が少しふくらむ。焼けた脂がフライパンの縁で小さく泡立った。
『…………』
「…………」
悠真も黙った。
二人でフライパンを見る。
『悠真』
「何?」
『味見』
「もう?」
『火が通ったか確認する』
「それなら必要か」
うむ。必要だ。非常に。
俺は端をほんの少し切り、小皿へ移す。湯気が立っているので、ふう、と少し冷ます。猫舌だからな。大事だ。
一口。
「にゃ」
「どう?」
『美味い』
表面は香ばしく、中はふっくら柔らかい。脂は乗っているが重すぎず、バターともよく合う。
魚。最高。
『うむ』
「よかったな」
『もう一回』
「何で?」
『確認』
「今、美味いって言ったじゃん」
『中の火の通りが均一か』
「なるほど」
納得した。
悠真、ちょろい。
もう一口。今度は少し中央寄りを切る。ふう、と冷まして、ぱく。
『…………』
「どう?」
『美味い』
「同じ感想!」
『問題ない』
「じゃあ完成?」
『待て』
「まだ?」
『最後の確認』
「何を?」
『反対側』
「何の反対側?」
『身の』
「それ味見したいだけじゃない?」
『違う』
「本当に?」
『料理人を信用しろ』
「猫なんだよなあ……」
信用がない。ひどい飼い主だ。
仕方ない。証明する。
もう一口。今度は反対の端。
『うむ』
「……ニャル」
『なんだ』
「減ってない?」
『気のせい』
「最初より切り身小さいけど」
『加熱すると縮む』
「三口分?」
『魚による』
「便利だな、魚」
それ以上聞くな。
料理人には必要な味見がある。
全部必要だ。
たぶん。
――――――
完成。
ケイブサーモンのムニエルは、表面がきつね色に焼け、中は柔らかな身が残っている。焼けたバターの香りが皿の上から立ち上る。
横には岩ガニから出汁を取った温かい汁物。こちらも湯気に乗ってカニの香りが広がっていた。
『できた』
「おお……」
悠真が食卓を見る。
「これ、今日ダンジョンで取ってきたんだよな?」
『うむ』
「昼まで湖にいたやつが」
『うむ』
「夕飯になってる」
『食材だからな』
「ニャルとダンジョン行くようになってから、感覚おかしくなってきた」
『正常になったんだ』
「ダンジョンをスーパーみたいに扱うのが?」
『冷蔵庫だ』
「もっと悪い」
細かい。
『食べるぞ』
「はいはい」
もちろん、俺の分もある。
今日は自分の皿にもケイブサーモンを少し多めに載せている。
当然だ。
魚だからな。
俺は前足を合わせた。
『いただきます』
「いただきます」
まず悠真がムニエルへ箸を入れる。ふっくらした身がほろりと割れた。
「柔らか」
『冷めるぞ』
「分かってるって」
一口。
「…………」
『どうだ』
「うまっ!」
よし。
「何これ。めっちゃうまい」
『そうだろ』
もう一口食べた悠真が、すぐに続ける。
「表面ちょっとカリッとしてるのに、中ふわふわ。バターも合う。これ好きだわ」
『知ってる』
「初めて食うのに!?」
『顔で分かる』
本当に分かりやすい。
悠真は美味い時、食べる速度が上がる。
俺も自分の分を食べる。
一口。
「にゃ!」
美味い。
さっき味見したから分かっている。それでも、完成した料理として皿に載せて、ちゃんと食事として食べるとまた違う。
美味い。
魚。
素晴らしい。
サーモンは正義だ。
もう一口。さらにもう一口。
「ニャル」
『ん』
「すげえ勢いだな」
『魚だからな』
「それ理由になる?」
『なる』
絶対になる。
途中でカニ汁も飲む。
「お」
悠真がまた目を丸くした。
「こっちもうまい」
『出汁がいい』
「何か、すごい落ち着く味」
俺も飲む。
カニ。美味い。温かい。
魚。カニ。魚。カニ。
最高だ。
「今日豪華だな」
『また取りに行く』
「もう?」
『網も買う』
「水晶クラゲ?」
『それも』
「魚も?」
『当然』
「完全に気に入ったな、あのダンジョン」
『いい場所だった』
「飛び込もうとしてたけど」
『それは忘れろ』
「無理」
覚えがいい飼い主だ。困る。
――――――
「ごちそうさま」
『ごちそうさま』
皿は空になった。
俺の皿も空だ。少し名残惜しいが、満足した。かなり満足した。
『魚はいいな』
「めちゃくちゃ機嫌いいじゃん」
『普通だ』
「尻尾ずっと揺れてるけど」
『普通だ』
「また碧水の地下湖行く?」
『行く』
「即答」
当然だ。
まだ水晶クラゲを取っていない。他にも魚がいた。違う食材もあるかもしれない。
それに、ケイブサーモンをまた食いたい。
「じゃあまた行こう」
『うむ』
悠真が食器を持って立ち上がる。
その時だった。
「……あれ?」
『どうした』
「いや」
悠真が自分の腕を見て、軽く肩を回す。
「何か、またちょっと身体軽くなった気がする」
俺の耳がぴくりと動いた。
『本当か?』
「たぶん」
悠真がその場で腕や肩、足を軽く動かして確かめる。
「前みたいに、明日ダンジョン行けばもっと分かると思うけど」
『育った?』
「たぶんな」
「にゃ!」
よし。
美味い。俺も嬉しい。悠真も嬉しい。そのうえ育つ。
完璧だ。
「でもさ」
『なんだ』
「ニャル、強くなるって分かった時より、魚食ってる時の方が嬉しそうじゃない?」
『気のせい』
「絶対そう」
『美味いのが先だからな』
「まあ、そういう猫だよな」
悠真が笑う。
それでいい。
美味しい。そのあと育つ。
順番は大事だ。
――――――
食器を片付けたあと、俺はキッチンへ戻った。
「ニャル?」
『ちょっと待って』
調理台には、今日使った包丁が置いてある。洗って乾かした、いつもの包丁だ。
悪くない。むしろ、家で普通に料理するなら十分だ。
でも今日、ケイブサーモンを捌いた時に、骨の周りが少し扱いにくかった。
魚がもっと大きくなったらどうする。
もっと硬い食材が出てきたら。
これから俺たちは、もっと色々なダンジョンへ行く。そして、もっと色々な食材を見つける。
だったら、料理道具だってもう少しいいものが欲しい。
「包丁見てどうした?」
悠真がキッチンへ来た。
俺は包丁を見て、それから悠真を見る。
『もっといい包丁欲しいな』
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【猫のレシピ帳】
Recipe.006
■料理名
ケイブサーモンのムニエル
■使用食材(1人前)
・ケイブサーモン …… 切り身1枚
・小麦粉 …… 適量
・バター …… 適量
・塩 …… 少々
■作り方
① ケイブサーモンを安全に食べられるよう下処理し、食べやすい切り身にする。
② 軽く塩をしてから、表面へ薄く小麦粉をまぶす。
③ バターを溶かしたフライパンで両面を香ばしく焼く。
④ 中までしっかり火が通ったら完成。
■味の評価
★★★★★
外は香ばしく、中はふっくら。
バターと魚の脂が合う。
魚なので星五つにゃ。
異論は認めない。
■ワンポイント
身が厚いので、表面だけ焦がさず中まできちんと火を入れる。
焼いている途中の味見は、火の通りを確認するために必要にゃ。
三回くらい必要な時もある。
■悠真の感想
「うまっ!
これ好きだわ。また取ってこようぜ」
─ 今日のひとこと ─
悠真に「減ってない?」って言われた。
加熱すると魚は縮む。
味見のせいではない。
たぶん。
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