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サラエボの丘  作者: はまゆう


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3/7

第2章 「包囲された街の朝」

1


朝と呼べるのかどうか、アミールにはもう分からなかった。

窓の外は薄い灰色で、夜と昼の境界が曖昧だった。

包囲が始まってから、街には“朝の匂い”というものが消えた。

パン屋の焼きたての香りも、通勤する人々のざわめきも、

すべてが遠い昔の記憶になっていた。


彼は慎重にカーテンをわずかに開け、通りを確認する。

“スナイパー通り”と呼ばれる大通りは、今日も人影がない。

誰もが、どの建物のどの窓から狙われるかを知っていた。

だから、影から影へ、壁から壁へ、

まるで街全体が息を潜めているようだった。


2


水道は三日前から止まったままだ。

アミールはポリタンクを抱え、近所の廃墟になった学校へ向かう。

そこには、雨水をためるための大きなタンクが置かれていた。

列に並ぶ人々は、誰も声を出さない。

声を出すと、なぜか涙が出そうになるからだ。


前に並んでいた老婦人が、震える手でタンクを持ち上げようとしていた。

アミールはそっと手を貸す。


「ありがとうね、記者さん」

「いえ……お互いさまです」


老婦人は微笑んだが、その目の奥には深い疲労があった。

包囲が始まってから、彼女は息子と連絡が取れなくなったという。

「生きているかどうかも分からない。でも、信じるしかないのよ」

その言葉は、街に生きる誰もが抱えている思いだった。


3


帰り道、アミールは市場跡を通りかかった。

かつては色とりどりの果物や香辛料が並んでいた場所だ。

今は、瓦礫の間に小さな布が敷かれ、

そこにわずかなジャガイモや乾いたパンが置かれている。


「今日はこれだけだよ」

売り手の男が申し訳なさそうに言う。


アミールはポケットの中の硬貨を数え、

パンの端切れを一つだけ買った。

それでも、男は「ありがとう」と深く頭を下げた。

売るものがあるだけで、まだ“商売”が成り立っているのだ。


4


家に戻ると、アミールは小さなラジオのスイッチを入れた。

雑音の向こうから、外国の放送局の声がかすかに聞こえる。


「――サラエボ包囲は続いています。国際社会は――」


その声を聞くたび、アミールは胸の奥が冷たくなる。

世界は知っている。

だが、街はまだ包囲されたままだ。

誰も助けに来ない。

誰も、この街の“日常の地獄”を止められない。


彼はラジオを切り、机に向かった。

今日も記録しなければならない。

水を求めて並ぶ人々の沈黙も、

市場跡のわずかな食べ物も、

老婦人の震える手も――

すべてが、この戦争の“証拠”なのだ。


5


夜、アミールは窓辺に座り、暗闇を見つめた。

遠くで爆発音が響き、街のどこかがまた傷ついた。

だが、彼は目を閉じて深く息を吸った。


「この街は、まだ生きている」

そう思うことで、かろうじて自分を保っていた。


包囲下の暮らしは、

“死に近い生活”ではなく、

“生きるために死を避け続ける生活”だった。


その静かな闘いを、アミールは明日も記録し続ける。




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