第2章 「包囲された街の朝」
1
朝と呼べるのかどうか、アミールにはもう分からなかった。
窓の外は薄い灰色で、夜と昼の境界が曖昧だった。
包囲が始まってから、街には“朝の匂い”というものが消えた。
パン屋の焼きたての香りも、通勤する人々のざわめきも、
すべてが遠い昔の記憶になっていた。
彼は慎重にカーテンをわずかに開け、通りを確認する。
“スナイパー通り”と呼ばれる大通りは、今日も人影がない。
誰もが、どの建物のどの窓から狙われるかを知っていた。
だから、影から影へ、壁から壁へ、
まるで街全体が息を潜めているようだった。
2
水道は三日前から止まったままだ。
アミールはポリタンクを抱え、近所の廃墟になった学校へ向かう。
そこには、雨水をためるための大きなタンクが置かれていた。
列に並ぶ人々は、誰も声を出さない。
声を出すと、なぜか涙が出そうになるからだ。
前に並んでいた老婦人が、震える手でタンクを持ち上げようとしていた。
アミールはそっと手を貸す。
「ありがとうね、記者さん」
「いえ……お互いさまです」
老婦人は微笑んだが、その目の奥には深い疲労があった。
包囲が始まってから、彼女は息子と連絡が取れなくなったという。
「生きているかどうかも分からない。でも、信じるしかないのよ」
その言葉は、街に生きる誰もが抱えている思いだった。
3
帰り道、アミールは市場跡を通りかかった。
かつては色とりどりの果物や香辛料が並んでいた場所だ。
今は、瓦礫の間に小さな布が敷かれ、
そこにわずかなジャガイモや乾いたパンが置かれている。
「今日はこれだけだよ」
売り手の男が申し訳なさそうに言う。
アミールはポケットの中の硬貨を数え、
パンの端切れを一つだけ買った。
それでも、男は「ありがとう」と深く頭を下げた。
売るものがあるだけで、まだ“商売”が成り立っているのだ。
4
家に戻ると、アミールは小さなラジオのスイッチを入れた。
雑音の向こうから、外国の放送局の声がかすかに聞こえる。
「――サラエボ包囲は続いています。国際社会は――」
その声を聞くたび、アミールは胸の奥が冷たくなる。
世界は知っている。
だが、街はまだ包囲されたままだ。
誰も助けに来ない。
誰も、この街の“日常の地獄”を止められない。
彼はラジオを切り、机に向かった。
今日も記録しなければならない。
水を求めて並ぶ人々の沈黙も、
市場跡のわずかな食べ物も、
老婦人の震える手も――
すべてが、この戦争の“証拠”なのだ。
5
夜、アミールは窓辺に座り、暗闇を見つめた。
遠くで爆発音が響き、街のどこかがまた傷ついた。
だが、彼は目を閉じて深く息を吸った。
「この街は、まだ生きている」
そう思うことで、かろうじて自分を保っていた。
包囲下の暮らしは、
“死に近い生活”ではなく、
“生きるために死を避け続ける生活”だった。
その静かな闘いを、アミールは明日も記録し続ける。




