はじめに 小説の背景となるサラエボ包囲戦について
サラエボ包囲戦(サラエヴォ包囲)は、1992年から1996年まで約4年間続いた現代史上最も長い首都包囲戦の一つです。ボスニア・ヘルツェゴビナの首都サラエボが、セルビア人勢力によってほぼ完全に包囲され、市民が激しい攻撃と飢餓に苦しめられた悲惨な出来事です。
### 背景:なぜ起きたのか?
旧ユーゴスラビア(社会主義連邦共和国)は、1990年代初頭に崩壊の危機を迎えました。構成国の一つだったボスニア・ヘルツェゴビナは、住民がボシュニャク人(ムスリム系)、セルビア人(正教系)、クロアチア人(カトリック系)の多民族国家でした。
- 1992年、ボスニア・ヘルツェゴビナがユーゴスラビアからの独立を宣言(国民投票で多数賛成)。
- これに反対したボスニアのセルビア人勢力は、独立を阻止しようと武器を取り、スルプスカ共和国(セルビア人中心の事実上の国家)を作ろうとしました。
- 彼らを支援したのが、旧ユーゴスラビア人民軍(JNA)とセルビア(ミロシェビッチ政権)です。
サラエボはボスニアの首都で、多民族が共存する街でしたが、セルビア人勢力はこれを「ボスニア独立の象徴」として狙いました。サラエボは周囲を山や丘に囲まれた盆地にあるため、高台から攻撃しやすく、包囲に適した地形でした。>
### 包囲戦の経過(1992年4月〜1996年2月)
- 開始:1992年4月5日頃から本格化。セルビア人勢力(スルプスカ共和国軍、指揮官にラトコ・ムラディッチ将軍)がサラエボを囲み、高台から砲撃と狙撃を始めました。
- 市内は完全封鎖され、食料・水・電気・医薬品の供給がほとんど途絶えました。市民は「兵糧攻め」のような状態に。
- 毎日、迫撃砲や大砲による無差別砲撃と、スナイパー(狙撃手)による攻撃が続きました。特に有名なのが「狙撃手通り(Sniper Alley)」と呼ばれる大通りで、通行する市民(女性や子供を含む)が狙われました。
- 市民の生活:地下室に隠れたり、夜間に水を汲んだり、わずかな食料を分け合ったりする極限状態。冬は寒さと飢えでさらに苦しみました。文化施設や病院も攻撃対象になりました。
この包囲は約1,425日(約47ヶ月、3年10ヶ月以上)続き、現代の欧州では第二次世界大戦のレニングラード包囲戦に次ぐ長さです。
### 被害の規模
- 死者:サラエボだけで約11,000〜13,000人(推定値による)。その多くが民間人で、子供も1,600人以上含まれます。負傷者は約50,000人。
- 死者の85%近くが一般市民だったと言われています。
- 人口は戦前から大幅に減少し、多くの人が強制移住や逃亡を余儀なくされました。
### 終結とその後
- 1995年、NATO(北大西洋条約機構)がセルビア人勢力に対して空爆を実施。これが効き、和平交渉が進みました。
- 同年11月にデイトン合意が結ばれ、ボスニア紛争全体が終結。
- 1996年2月29日、セルビア人勢力が撤退し、包囲が公式に解除されました。
戦後、サラエボは復興しましたが、建物には今も砲撃の跡(「バラの花」と呼ばれる破片の跡)が残り、犠牲者を悼む白い墓標が街中にあります。国際刑事裁判所(ICTY)では、ムラディッチ将軍らが戦争犯罪や民間人に対する攻撃で有罪判決を受けました。
### なぜこんなに長く続いたのか?
- セルビア人勢力は街を完全に占領する兵力はなく、「疲弊させて降伏させる」作戦を取った。
- ボスニア政府軍は装備が貧弱で、反撃が難しかった。
- 国際社会の初期対応が遅れたことも、包囲を長引かせた要因です。
サラエボ包囲戦は、民族紛争の悲惨さ、特に民間人が標的になる現代戦の残酷さを象徴する出来事として、今も語り継がれています。1990年代のユーゴスラビア崩壊は、ヨーロッパで起きた大規模な悲劇の一つでした。




