第1話 「サラエボの丘を見下ろす者たち」
1
アミール・ハジモヴィッチが生まれ育ったサラエボは、かつて「ヨーロッパのエルサレム」と呼ばれた街だった。
モスクの尖塔と教会の鐘楼が並び、ユダヤ人街の石畳を歩けば、どの店でも違う言語が聞こえた。
宗教も文化も混ざり合い、誰もがそれを当たり前だと思っていた。
だが1992年、旧ユーゴスラビアが崩壊すると、その多様性は一瞬で“境界線”に変わった。
民族と宗教の違いが、政治の争いに利用され、街は分断されていった。
そしてついに――サラエボは包囲された。
街を取り囲んだ武装勢力は、4年近くにわたり、外界との道をすべて封鎖した。
食料も薬も届かず、電気も水も途切れがち。
市民は、狙撃手の射線を避けるため、建物の影を縫うように走り、
「この道は今日、生きて渡れるか」を毎日賭けていた。
アミールは地方紙の記者として街に残った。
「誰かが、この狂気を記録しなければならない」
その思いだけが、彼を支えていた。
2
そんなある日、彼は耳を疑う噂を聞く。
――“丘の上に、外国人が来ている”
――“軍の案内で、狙撃地点を見学している”
――“金を払って、銃を撃っている”
最初は、戦時下のデマだと思った。
だが取材を進めるほど、噂は輪郭を持ち始めた。
サラエボを包囲する側の軍関係者が、密かに組織した“ツアー”。
参加者は世界中の富裕層。
支払う額は、家が一軒建つほどの金。
そして――標的は、街を逃げ惑う民間人。
アミールは、怒りより先に“理解不能”という感情に襲われた。
人間が、そんなことを本当に望むのか。
金を払って、命を奪う行為を“娯楽”と呼ぶのか。
3
取材の末、彼はある元情報員に会う。
男は、長い沈黙のあと、低い声で語り始めた。
「彼らは、スポーツのように銃を撃った。
スコープ越しに子どもを見て、笑っていた。
撃ったあと、記念写真を撮って帰っていった」
アミールは言葉を失った。
胸の奥で静かに燃え上がる怒りは、やがて“使命”へと変わっていく。
「この事実を、世界に伝えなければならない。
金があれば何をしてもいいと信じた者たちが、
どれほど人間性を踏みにじったのかを」
4
その夜、アミールは暗い部屋で原稿を書き続けた。
外では砲撃の音が響き、窓ガラスが震えている。
だが彼の手は止まらなかった。
“戦争は狂気だ。
だが狂気を選んだのは、人間だ。
そして狂気を娯楽に変えた者たちがいた。
この不条理を、私は決して忘れない。”
その原稿は、後に国際社会を揺るがす証言の一つとなる。




