第12章 「包囲が解けた日」
1
その朝、サラエボは不思議な静けさに包まれていた。
砲撃の音がしない。
狙撃手の気配もしない。
空気が、いつもより軽い。
アミールは、
その静けさが逆に不気味で、
胸の奥がざわついた。
「……何かが、変わった」
彼は窓を開け、
街の通りを見下ろした。
いつもなら、
影から影へと走る人々の姿があるはずだった。
だが今日は――
人々が、
“歩いていた”。
走らず、
隠れず、
ただ歩いていた。
アミールは息を呑んだ。
2
外に出ると、
近所の老婦人ミレナが空を見上げていた。
「アミールさん……
聞こえる?」
アミールは耳を澄ませた。
風の音。
遠くの犬の鳴き声。
誰かが笑う声。
そして――
砲撃の音が、どこにもない。
「……本当に、止まっている」
ミレナは震える声で言った。
「こんなの……何年ぶりかしらね」
その目には、
涙が溜まっていた。
3
街の中心部へ向かうと、
人々が集まり始めていた。
誰もが半信半疑で、
しかし確かめずにはいられなかった。
「丘の上に……誰もいないらしい」
「国連が正式に発表するって」
「包囲が……終わるのか?」
噂が噂を呼び、
街の空気が震えていた。
アミールは、
胸の奥が熱くなるのを感じた。
4
正午前、
国連の車両が街に入ってきた。
青いヘルメットをかぶった兵士が、
拡声器で短く告げた。
「――包囲は解除されました。
サラエボは、自由です」
その瞬間、
街は静まり返った。
誰も叫ばない。
誰も泣かない。
誰も抱き合わない。
ただ、
沈黙が街を満たした。
長すぎる苦しみの後では、
喜びはすぐには形にならない。
アミールは、
その沈黙の重さに胸が震えた。
5
やがて、
どこからともなく拍手が起こった。
一人。
二人。
三人。
拍手は波のように広がり、
街全体を包み込んだ。
誰かが泣き、
誰かが笑い、
誰かが空に向かって手を伸ばした。
アミールは、
その光景を目に焼き付けた。
「……生き延びたんだな」
その言葉は、
誰に向けたものでもなく、
街そのものに向けた祈りだった。
6
夕暮れ、
アミールは丘の上を見つめた。
そこには、
もう狙撃手の影はなかった。
代わりに、
夕陽が街を黄金色に染めていた。
アディスが隣に立ち、
静かに言った。
「アミールさん……
これで、終わったの?」
アミールは首を振った。
「終わったのは“包囲”だけだ。
街の傷は、これから癒していく。
でも……
今日だけは、終わったと言っていい」
アディスは微笑んだ。
「じゃあ……
今日だけは、喜んでいいんだね」
アミールは頷いた。
「今日だけは、な」
二人は並んで、
沈む夕陽を見つめた。
その光は、
長い闇を越えた街にとって、
初めての“未来”の色だった。




