第11章 「終わりの気配」
1
1995年の秋。
サラエボの空気は、これまでとは違う重さを帯びていた。
砲撃は続いている。
狙撃手もまだ丘にいる。
水も食料も足りない。
だが――
街の人々の表情が、どこか変わっていた。
それは希望ではない。
諦めでもない。
ただ、
「この包囲は永遠には続かない」
という、
根拠のない確信のようなものだった。
アミールは、
その空気の変化を肌で感じていた。
2
ある日、アミールは市場跡で、
老婦人のミレナに声をかけられた。
「アミールさん、聞いた?
最近、丘の上の兵士が減っているらしいよ」
アミールは驚いた。
「本当ですか」
「ええ。あの丘を見張っていた人が言ってた。
夜になると、車の音がするんだって。
“撤退”かもしれないって」
アミールの胸がざわついた。
撤退――
その言葉は、
この街では長い間、禁句のように扱われていた。
だが今、
それが現実味を帯びている。
3
その日の夕方、
アミールは丘の方角を見つめた。
いつもなら、
夕暮れの光の中に、
狙撃手の影が見えるはずだった。
だが今日は――
影が少なかった。
「……本当に、減っている」
アミールは呟いた。
だが同時に、
胸の奥に不安が広がった。
“撤退”は、
必ずしも“平和”を意味しない。
包囲側が追い詰められているなら、
最後に何をするか分からない。
街の人々もそれを理解していた。
だからこそ、
希望と恐怖が入り混じった奇妙な空気が漂っていた。
4
夜、アミールは病院を訪れた。
アディスはもう歩けるほどに回復していた。
「丘の兵士が減ってるって、本当?」
アディスが目を輝かせて聞いた。
「本当だ。
でも……まだ油断はできない」
アディスは頷いた。
「分かってる。
でも、なんか……
街が“息をしてる”気がするんだ」
アミールはその言葉に、
胸が熱くなった。
この少年は、
戦争の最中に“希望”という言葉を忘れなかった。
5
翌朝、
街に新しい噂が広がった。
「国連が動くらしい」
「停戦の話が進んでいる」
「包囲が終わるかもしれない」
アミールは、
その噂を聞きながら、
胸の奥で静かに祈った。
どうか、
この街がもうこれ以上傷つきませんように。
6
その日の夕暮れ、
アミールは丘の上を見つめた。
夕陽が赤く染まり、
街の瓦礫が黄金色に輝いていた。
そして――
丘の上の狙撃手の影が、
完全に消えていた。
アミールは息を呑んだ。
「……いない」
その瞬間、
街のどこかで誰かが泣き、
誰かが笑い、
誰かが祈った。
包囲はまだ正式には終わっていない。
停戦も発表されていない。
だが、
街は“終わりの気配”を確かに感じていた。
アミールは静かに呟いた。
「ここまで……よく持ちこたえたな」
その声は、
街そのものに向けた言葉だった。




