第9章 「アディスの影」
1
アディスが姿を消して三日が経った。
街は報復の気配に満ち、
検問は増え、
市民は互いの顔色を伺いながら歩いていた。
アミールは、
少年の家を訪ねる勇気が出なかった。
もし母親に「息子はどこですか」と問われたら、
自分は答えられない。
だが四日目の朝、
彼は意を決してアディスの家の扉を叩いた。
扉を開けたのは、
疲れ切った顔の母親だった。
「……アミールさん」
その声は、
泣き疲れた人間だけが出せる、
かすれた音だった。
「アディスは……?」
アミールは喉が詰まり、言葉が出なかった。
母親は静かに首を振った。
「まだ戻っていません。
でも……生きていると思います。
あの子は、いつも帰ってきましたから」
その言葉は、
祈りであり、
呪文であり、
母親が自分を支えるための最後の柱だった。
アミールは深く頭を下げ、
その場を離れた。
胸の奥で、
何かが軋む音がした。
2
その日の夕方、
ミロシュが血相を変えてアミールの家に飛び込んできた。
「アミール、来い。
“見つかった”らしい」
アミールは息を呑んだ。
「……生きているのか」
ミロシュは答えなかった。
ただ、アミールの腕を掴み、街外れへと急いだ。
二人が辿り着いたのは、
廃れた倉庫の裏手だった。
そこには、
国連の青いヘルメットをかぶった兵士が数人立っていた。
「国連が……?」
アミールは驚いた。
ミロシュが低く言った。
「国境付近で、少年が倒れていたらしい。
国連の巡回が偶然見つけたんだ」
アミールの心臓が激しく脈打った。
「アディスは……どこだ」
兵士の一人が、
倉庫の影を指差した。
3
アミールは駆け寄った。
そこには、
毛布に包まれた小さな影が横たわっていた。
アディスだった。
顔は泥と血で汚れ、
唇は乾ききっていた。
だが――
息をしていた。
アミールは膝から崩れ落ちた。
「アディス……!
聞こえるか……!」
少年のまぶたが、
わずかに震えた。
「……アミール……さん……?」
その声は、
風に消えそうなほど弱かった。
アミールは涙をこらえながら言った。
「よく……帰ってきた。
よく……生きて帰ってきた」
アディスは、
かすかに笑った。
「……渡したよ……
あの人に……
ちゃんと……渡した……」
アミールは少年の手を握った。
「届いた。
世界が動き始めた。
お前のおかげだ」
アディスの目に、
小さな光が宿った。
「……よかった……」
そして少年は、
静かに目を閉じた。
眠っただけだった。
だがその眠りは、
戦争の中で生き延びた者だけが得られる、
深い、深い眠りだった。
4
国連の兵士が言った。
「彼は国境付近で倒れていました。
脱水と疲労です。
命に別状はありません」
アミールは深く息を吐いた。
胸の奥で、
張り詰めていた糸が切れた。
「……ありがとう」
兵士は首を振った。
「ありがとうと言うべきは、こちらです。
彼が持っていたカプセル……
あれは、世界を動かす力を持っていた」
アミールはアディスの手を握りながら言った。
「この街の子どもが……
世界を動かしたんだ」
5
その夜、
アミールはアディスの寝顔を見つめながら、
静かに誓った。
“この少年の勇気を、
必ず物語として残す。
この街の闇を、
必ず世界に伝える。”
アディスは、
戦争の中で“英雄”になったわけではない。
ただ、
街を救いたいと願った少年だった。
だがその願いは、
確かに世界を動かした。




