逃げて
ファンタジー系です。
夜の森は、ひどく暗かった。
月は出ているはずなのに、
分厚い雲に隠れている。
枝を踏み抜く音。
荒い呼吸。
遠くで響く怒号。
男は少女を抱えたまま走っていた。
腕の中の少女が意識が朦朧としながらも、その細い指で男の外套をぎゅっと掴んでいた。
「……っ」
肺が焼ける。
脇腹から流れた血で、
服はもう重かった。
追手はまだ遠い。
だが時間の問題だ。
男は森の奥へ進む。
街道は使えない。
関所も駄目だ。
今この国では、
王族に関わる者は全て疑われる。
もし捕まれば、
少女は確実に死ぬ。
⸻
「……おとうさま」
少女が掠れた声を出した。
男は一瞬だけ目を閉じる。
答えられない。
答えてはいけない。
だから代わりに、
少女を抱える腕へ力を込めた。
「もう少しだ」
声は低く掠れていた。
少女は熱を出していた。
恐怖と疲労。
それに、
抑えきれない魔力。
周囲の空気が時々微かに揺らぐ。
幼い子供とは思えない魔力量。
今までは、そんなに感じたことがなかった。
だが先程、少女が見た光景を思えば、完全な魔力の暴走である。
まだ、施された魔術が上手く作動していないことは確かだ。
男は唇を噛んだ。
王城を出る前、
あの人は言った。
『あの子は覚えていてはいけない』
だから最後に、
記憶封印が施された。
父の顔も。
逃げる理由も。
王城での出来事も。
全部。全部。全部。
幼い心では耐えきれないから。
⸻
背後で音がした。
男は即座に木陰へ飛び込む。
鎧の擦れる音。
追手だ。
松明の灯りが、
森の隙間を揺れる。
「……こっちにはいない!」
「森を抜ける前に探せ!」
男は息を殺した。
少女も、
本能的に声を飲み込んでいる。
小さな身体が震えていた。
男は少女の頭を押さえる。
大丈夫だ、と伝えるように。
しばらくして、
足音が遠ざかる。
だが男は動かなかった。
まだだ。
まだ油断できない。
⸻
しばらく進んだ頃には、
もう足元が覚束なくなっていた。
出血が多すぎる。
本来なら、
とっくに倒れている傷だ。
だが男は止まれない。
止まれば、
少女が死ぬ。
それだけで身体を動かしていた。
もはや騎士としての意地だった。
男はあと少しだと思いながらも、このまま死ぬのかもしれない。と思い始めていた。
出血した箇所は火で焼いた。
少女を託された時に使った隠蔽の魔法も、そろそろ効力を失っているであろう。
もう限界が近い。
森を抜ける前に、自分が死ぬ。
それは分かっていた。
だから男は決めていた。
適当な場所へ少女を隠し、
最後に追手を引きつけて死ぬ。
それでいい。
自分が生き残る必要はない。
その時だった。
風が動く。
男は反射的に剣へ手をかけた。
木々の奥。
人影。追手か?
斧。
背負い籠。
薬草。
森の人間。
その男の目だけが異様だった。
静かで、
妙に鋭い。
こちらを一目見ただけで、
状況を理解したような目。
男は限界だった。
「…っ、た、のむ」
男は、もう、目を閉じた。




