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潮待ちのレール ― 夏の船着場 ―  作者: たむ


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9/12

第九章 来なかった人

 祭りの三日目の朝、春口の空は少しだけ高く見えた。


 連日の暑さに目が慣れたのか、それとも祭りの気配が町の密度を変えているのか、湊には海の上の空だけが少し遠のいたように感じられた。港にはすでに屋台の残り香があり、提灯は朝の光の中で白くぼんやりしている。昨夜までの賑わいが嘘だったように、早朝の春口はまた静かだった。こういう切り替わりの速さも、この町らしい。人の記憶や喪失は長く残るのに、朝そのものはきちんと毎日やってくる。


 湊は宿の縁側で、冷めかけた茶を飲みながら港を見ていた。

 風はほとんどない。

 海面は細かく光り、その向こうの島影は薄青くかすんでいる。

 昨夜書いたノートの一文が、まだ頭の中に残っていた。


 ――会えなかった時間を、簡単な裏切りや失敗に切り分けられないだけだ。


 春乃の相手は、来なかった人ではないのかもしれない。

 来ようとして、別の場所を選び、便の遅れや連絡の不達の中ですれ違った人。

 それがほぼ見えてきた今、佐和子の中でも何かが少しずつ変わっているのだろうと湊は思っていた。


 案の定、朝食の席についた佐和子の表情は、ここへ来た日のそれと少し違っていた。

 柔らかくなったわけではない。

 ただ、相手の不在に向けていた視線が、ようやく相手のいたはずの時間のほうへ向き始めたような落ち着きがある。


「夜、少し考えていました」

 焼き魚に箸を入れながら、佐和子が言う。

「姉が待っていた相手のこと」

「ええ」

 湊は答えた。

「恋人じゃないかもしれない、という話も含めて」

「はい」

「でも、恋人かどうかより大きいことがある気がしました」

「どういうことですか」

「その人が、姉にとって“迎えに来る側の人”だったということです」


 汐里が味噌汁の椀を置いて、静かに耳を傾ける。


「迎えに来る側」

 湊が繰り返す。

「ええ」

 佐和子は頷いた。

「家族でも恋人でも仕事相手でも、それはどうでもいいのかもしれない。そのとき、その場所で、姉にとっては“向こう側から来てくれるはずの人”だった」

「……」

「だから来ないことが、単なる約束の不履行じゃなく、場所の不成立として残った」


 その言葉は、春乃の遺した絵葉書やメモの断片を最もよく説明している気がした。

 相手との関係の名前より、相手が担っていた役割。

 自分をこの土地のどこか別の地点へ繋いでくれるはずの人。

 来ると言ったその人が来ない、あるいは来ようとして別の場所へ行ってしまう。

 そのとき残るのは、感情より先に「ここで待っていた自分の位置」なのだ。


「今日」

 汐里が言う。

「もしよければ、昔の航路や駅のことをよく知ってる人に会えます」

「誰ですか」

 佐和子が訊く。

「港の脇で船具の修理をしてる井村さん。もう引退してますけど、昔は春口駅と船着場の接続案内もよく手伝っていたらしくて」

「それは大きいですね」

 湊が言う。

「春乃さんの時期の“待ち合わせの常識”が分かるかもしれない」

「はい」

 汐里は頷いた。

「今の感覚で考えると、春口駅で待つのが普通に思えるけど、当時は港の待合や岬の停留所を使うほうが自然なケースもあったみたいです」


 食後、三人は港へ向かった。

 祭りのあと片づけはまだ始まっていないが、岸壁には昨夜の名残が少しだけ残っている。空になった発泡スチロールの箱、畳まれた屋台の布、提灯の下で眠そうに船を見ている猫。

 町は、賑わいを完全には消していない。その半端な名残が、昨日までの熱をうっすら引き延ばしていた。


 井村の作業場は、港の一角にある半開きの倉庫だった。

 中にはロープ、浮き、古い金具、船の部品が雑然と積まれている。油と潮の混じった匂いが濃い。

 七十代半ばくらいの男が、折りたたみ椅子に座って細い金具を磨いていた。汐里が声をかけると、男は顔を上げ、目を細める。


「三崎さんとこの」

「ええ。少し昔のことを伺いたくて」

「昔のことばかりやな、この頃のあんたら」

 井村は苦笑したが、追い返す気はなさそうだった。


 春乃の絵葉書と、「港では待たないで」と書かれた紙片の写しを見せると、井村は思ったより早く反応した。


「こういうのは、あった」

「どういう」

 佐和子が身を乗り出す。

「港が混んどる日や、便が遅れた日や、祭りの前後や。船が予定どおり着いても、そのまま港で会うより、少し先の停留所や駅側で拾うほうが早いことがあった」

「春口駅ではなく?」

「春口駅は人が多い。荷もある。迎えに行く側が土地を知っとるなら、もっと手前か、もっと先を選ぶこともある」


 湊は、岬の停留所跡を思い浮かべた。

 目立たない。

 しかし接続には便利。

 そういう場所が春口周辺にはいくつかあった。


「港では待たないで、という伝言は」

 湊が訊く。

「普通にあり得た?」

「あり得る」

 井村は即答した。

「特に若い連中や、旅慣れとるようで土地に慣れてない者同士は、かえってそういう“裏道の合理性”を使いたがる」

「合理性」

「港で人を探すより、先の停留所で拾うほうが早い。そういう判断や」


 その言い方に、佐和子が少し目を伏せた。

 春乃の夏は、やはりドラマチックな裏切りではなく、現場の合理性の中ですれ違ったのだ。

 合理的なはずの判断。

 少しでも早く会うための工夫。

 それが伝わらなかったことで、逆に永く会えなくなった。


「その相手」

 佐和子が、慎重に言葉を選ぶ。

「姉を迎えに来ると言った人は、地元の人だと思いますか」

「地元やないかもしれん」

 井村は答えた。

「旅の途中で知り合うた人間でも、こっちの便や道を少し知っとるだけで、妙に案内役みたいになることがあるからな」

「……」

「鉄道の臨時要員、港の手伝い、観光関係、写真を撮りに来とる若い連中、いろいろおった。誰か一人を思い浮かべることはできん」


 その“決めきれなさ”が、逆に現実味を帯びていた。

 春乃の相手は、大きな名前を持つ人ではないのかもしれない。

 この町に一時的に関わり、その時その場所でだけ案内役になった人。

 だからこそ、春乃の記録の中でも「顔」や「固有の関係」ではなく、「来るはずの側」という役割だけが残ったのだろう。


「来ようとして来られなかった人って」

 佐和子が、ほとんど独り言のように言った。

「そのあと、どうするんでしょう」

 井村は金具を磨く手を止めた。

「戻るやろうな」

「どこへ」

「会えんかった場所へ」

「……」

「会えんかったのが気になる人間なら、やがて戻る。何もなかったふりをする人間もおるやろうが、気になる奴は戻る」


 その言葉に、湊は父のことを思い出さずにいられなかった。

 父は戻った。

 何度も。

 千紘に会えなかった場所へ。

 では春乃の相手も、戻ったのだろうか。

 もし戻っていたとして、それは春乃と再会したことを意味するのか、それともまた別のすれ違いを重ねただけなのか。


「もしかして」

 汐里が言った。

「春乃さんも、それをどこかで分かっていたのかもしれませんね」

「何を」

 佐和子が訊く。

「相手が来なかったんじゃなくて、“来られなかった人”かもしれないこと」

「……」

「だから単純に怒れなかった」


 佐和子はすぐには答えなかった。

 代わりに、倉庫の外の海をじっと見た。

 そこに浮かんでいるのは、穏やかな昼前の港にすぎない。

 だが彼女の中ではたぶん、春乃の待った午後がその上に重なっているのだろう。


 作業場を出たあと、三人はしばらく港を歩いた。

 祭りの名残の提灯が、昼の風にわずかに鳴っている。

 海は近いのに、どこか少し遠い。

 湊は、自分が第一作で辿った千紘の気配と、いま春乃を通して見えている「来られなかった人」の時間が、春口の同じ地形の中で重なっているのを感じていた。

 子どもを残した父。

 迎えの場所を選び損ねた見知らぬ誰か。

 どちらも悪意ではなく、少し先の接続を読み誤ったことから始まっている。


 午後、佐和子は一人でしばらく宿に残ると言った。

 春乃のスケッチ帳を最初から見直したいのだという。

 湊と汐里は買い出しに出たが、帰り道の坂で汐里がぽつりと言った。


「佐和子さん、少し姉に近づいた気がします」

「ええ」

「でも近づくほど、春乃さんの孤独も見えてきている」

「そうですね」

「それって、つらいですね」

「死んだ人を知るのって、だいたいそういうものかもしれません」


 汐里は少し驚いたようにこちらを見てから、小さく笑った。


「前より、そういう言い方をするようになりましたね」

「どっちがですか」

「相沢さんが」

「そうですか」

「前はもっと、分かりたい気持ちが先に出てました」

「今は?」

「分からなさごと抱える言い方をする」


 その指摘に、湊はすぐ返事ができなかった。

 変わったのだろうか。

 春口へ来てから。

 父の背中を知ってから。

 たしかに以前より、「正しい答え」にたどり着くことばかりを求めなくなった気はしていた。

 会えなかった理由が一つでないように、人の心の置き場所もまた一つではないと分かり始めたからかもしれない。


 宿へ戻ると、佐和子は居間でスケッチ帳を開いたまま座っていた。

 部屋には午後の斜めの光が入り、ページの上だけが白く明るい。


「見つけました」

 彼女は顔を上げずに言った。

「何を」

「姉が一度だけ、顔に近いものを描いてるページ」


 湊と汐里が卓袱台の向かいに座る。

 佐和子が指差したページには、完全な肖像ではないが、帽子も眼鏡もなく、横顔に近い若い男の輪郭が淡く描かれていた。細い顎、まっすぐな鼻筋、口元だけ少し曖昧に消されている。

 その下に、春乃の字で小さくこうあった。


 ――来ない人の顔ではなかった。

 ――来たかった人の顔だった。

 ――だから、余計に待つのをやめられなかった。


 佐和子はその文を指先で押さえたまま、しばらく動かなかった。


「やっぱり」

 やがて、かすかな声で言う。

「姉、分かってたんですね」

「ええ」

 湊が答えた。

「来ない人じゃなく、来られない人かもしれないって」

「そうなると、待つのをやめるのはもっと難しい」

 汐里が言う。

「相手を信じたいからじゃなくて、相手を切り捨てきれないから」

「そうですね」


 それが春乃の夏の核心なのかもしれなかった。

 裏切りなら終われる。

 来たかったのに来られなかった、しかも場所のすれ違いのせいだとすれば、人は簡単に終われない。

 待つことをやめるのは、相手を責めることではなく、その不成立を自分の中で確定させることだからだ。


 その日の夕方、風はまた少し変わった。

 昼までの明るさを抱えたまま、海のほうから湿り気を多く含んだ空気が上がってくる。提灯の影が長くなり、港の輪郭が柔らかくなる。

 湊は縁側に出て、しばらく黙ってその変化を見ていた。

 来なかった人。

 いや、来たかった人。

 その違いは小さく見えて、大きい。

 父もまた、千紘にとっては「置き去りにした人」でありながら、後年には「戻りたかった人」だったのだろう。

 春口では、人はしばしば、そういう二つの位置のあいだに挟まれる。


 夕食のあと、佐和子が言った。


「姉のことを、少しだけ許せそうです」

「春乃さんを?」

 湊が訊く。

「ええ。ずっと、どうしてそんなに引きずったのか分からなかったから」

「……」

「でも、“来たかった人の顔だった”なら、そりゃ終われないですよね」

「そうですね」

「そしてその終われなさを、私が勝手に“弱さ”だと思ってた」


 汐里は静かに首を振った。


「弱さじゃないです」

「ええ」

 佐和子も小さく頷く。

「たぶん、そうじゃない。まだ言葉にしきれないけど」


 その夜、湊はノートにこう書いた。


 ――来なかった人ではなく、来たかった人。

 ――春口では、その違いが人を長く引き止める。

 ――裏切りより、すれ違いのほうが終わりにくいことがある。


 書いているうちに、遠くで列車の音がした。

 海と港のざわめきの上を、短く、確かな響きが横切っていく。

 春口の夜は今日も変わらず静かだった。

 けれどその静けさの底で、来たかったのに来られなかった人々の時間が、まだどこかで接続を探しているように思えた。

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