第八章 風の変わる夕方
祭りの二日目の夕方、春口の風は昼までとは少し違っていた。
強くなったわけではない。むしろ海から上がる風はやわらかく、熱を少しずつ攫っていくような質だった。ただ、そのやわらかさの中に、昼の明るさを終わらせる気配がある。提灯の白い紙がふっと裏返り、港の水面に立っていた細かな光がゆるみ、遠くの島影がわずかに濃くなる。せとうちの夕方はいつも静かに始まるが、祭りの日の夕方には、人の気配がそこへ一層薄く混じる。子どもの声、屋台の油、浴衣の袖のこすれる音、列車の短い警笛。それらが同じ空気の中でほどけ合い、町全体が一日の裏側へ返っていく。
宿の仕事は昼過ぎから少し忙しかった。
観光客の出入りもあり、港の屋台へ差し入れの皿を届けたり、氷を運んだり、使い終わった徳利を回収したりする。湊は前回来たときよりも自然に身体が動くことに気づいていた。宿を手伝うというより、この町の一日の中で決められた持ち場を少しだけ預かっている感覚に近い。
汐里はほとんど休まずに働いていたが、その顔には以前のような硬さがなかった。忙しさの中でこそ、かえって落ち着いて見える。人を迎え、送り、戻ってくる場所を整えることが、この人の体に馴染んでいるのだろう。
夕方前、ようやく一息ついたとき、佐和子が縁側に座って海を見ていた。
手には、春乃の絵葉書の写しがある。潮風で紙が少し揺れ、彼女はそれを押さえながら黙っていた。
湊はその隣に腰を下ろした。
「疲れましたか」
「少し」
佐和子は正直に答えた。
「でも、東京での疲れ方とは違いますね」
「どう違いますか」
「こっちは、体の表側が疲れる感じです。東京はもっと、内側の薄いところが擦れる」
その言い方に、湊は思わず少し笑った。
よく分かる気がした。
東京で働いていると、神経の表面ではなく、もっと薄くて見えにくい部分が少しずつ摩耗していくことがある。ここでは逆に、坂道を上り下りし、食器を運び、汗をかき、海風に当たる。疲れはあるが、その輪郭がはっきりしている。
「相沢さんは」
佐和子が海を見たまま言った。
「前にここへ来て、そういう疲れ方の違いに気づいたんですか」
「気づいたのは、帰ってからかもしれません」
「帰ってから」
「春口では、まだ父のことや千紘のことを追うので精一杯でしたから」
「……」
「東京へ戻って、同じ仕事をしているうちに、何がずれていたかのほうが見えてきた」
「姉も同じだったのかな」
「春乃さんが?」
「ええ。ここで何かを待ち終えられなかったあと、東京へ戻って、同じ生活に戻ろうとした。でも同じには戻らなかった」
「そうかもしれません」
春乃の絵葉書。
待つことが終わったら帰る。
でも何をもって終わりとするのか分からない。
来ないことを知ることと、待つのをやめることは同じではない。
その言葉の先には、春口から離れたあとの東京の時間が続いていたはずだ。
きっと父と同じように、春乃もまた、戻った先で「表向きの継続」と「内側の不成立」の二重生活を送ったのだろう。
汐里が台所から顔を出した。
「お二人とも、少し歩きませんか」
「今から?」
佐和子が訊く。
「ええ。祭りが本格的に混む前に」
「どこへ」
「広場です」
港と駅の両方が見える、あの小さな広場。
春乃が春口の絵としてほぼ最後に描いた場所。
そこで彼女は人物を一人も描いていなかった。
待ち終えることを自分の中で決めたのなら、その場所にもう一度立ってみたいと湊も思った。
坂道を上ると、祭りの音は少し遠ざかった。
それでも完全には消えない。太鼓の試し打ちのような低い音、子どもたちの歓声、海のほうから漂う焼き物の匂い。それらが風に混じり、広場の手前まで細く届いてくる。
広場は夕方の光の中で、昨日よりも少しだけ広く見えた。理由は分からない。人がいないからか、風が抜けているからか、あるいは自分たちの見方が変わったからかもしれない。ベンチの影は長くなり、港も駅も、昼の強い白さではなく、やわらかな黄の中に収まりつつある。
佐和子はスケッチ帳を開いたが、今回はすぐに閉じた。
そのまま立ったまま、港のほうを見て言う。
「姉、ここで待つのをやめたんじゃなくて」
「ええ」
「“もう、どこで待っても同じだ”って分かったのかもしれません」
「それは」
湊が言いかける。
「諦め、ですか」
「諦め、だけじゃない気がします」
佐和子はゆっくり答えた。
「相手が来なかったんじゃなくて、港でも駅でも停留所でも、もう“会うという形”が壊れてしまったって分かったんじゃないかと」
「形が壊れた」
「はい。来るつもりがあっても、すれ違い続けたら、その日のうちにはもう会えないことってあるでしょう」
「ありますね」
「姉はたぶん、それをこの広場から見ていた」
港も、駅も、坂道も、一つの視野に入る場所。
そこに立って初めて、春乃は自分がどこを選んでも遅かったことを知ったのかもしれない。
その認識は、単純な裏切りより残酷だ。相手を憎み切れず、自分を責め切れず、ただ一日の接続の破綻だけが心に残るからだ。
汐里がぽつりと言った。
「母も、似たことを思っていたのかもしれません」
「澄江さんが?」
佐和子が振り向く。
「ええ。千紘のことも、誰か一人のせいにしきれなかった。だから長く引きずったんだと思います」
「……」
「来なかったのではなく、誰もちゃんと“そこに戻れなかった”」
その表現に、湊ははっとした。
戻れなかった。
第一作の終盤で島の人々から聞いた言葉だ。
いなくなった、ではなく、帰れなかった。
春乃の相手もまた、約束の場所へ“来なかった”というより、戻れなかった人だったのかもしれない。
そして春乃自身も、その日のあとで、待つ前の自分へは戻れなかった。
風が少し強くなり、案内板の端が鳴った。
港のほうでは提灯が一斉に揺れている。
その揺れを見ながら、佐和子は低い声で言った。
「私、姉のことをずっと、強い人だと思ってたんです」
「ええ」
「時間にきっちりしていて、人を待たせなくて、子どもにも辛抱強くて。そういう人だから、旅先で誰かを待っても、適当なところで切り上げられたんじゃないかって、どこかで思ってた」
「でも違った」
「ええ。姉はたぶん、強いんじゃなくて、待ち時間の怖さを知っていたから、他人を待たせないようにしていただけなんですね」
その言葉は、第一作で感じた父のことと重なった。
父もまた、無口で几帳面で、必要なことはきちんとする人だった。
それは性格でもあっただろうが、一方で、春口の夏を経て「少し待たせても大丈夫」という判断の重さを知りすぎた結果でもあったのかもしれない。
「相沢さん」
佐和子が、今度はまっすぐこちらを見た。
「あなたのお父さんのことを聞いたとき、少し不思議だったんです」
「何がですか」
「こういう町に、何度も戻る人なんだ、って」
「……」
「でも今は分かります。戻りたいからというより、“戻らずに済ませたくない時間”があるからなんですね」
「そうだと思います」
「姉も、もし生きていたら、またここへ来たかもしれない」
「たぶん」
「そういう場所が、人にはあるんですね」
答える前に、湊は少しだけ海のほうを見た。
ある。
そしてそれは、幸せな記憶の場所と完全には重ならない。
むしろ、解けなかった時間が残っているからこそ、また来なければならない場所のほうが、人の人生には深く食い込む。
広場の下の道を、観光客らしい家族が通っていった。
子どもが提灯を指さし、母親がスマートフォンで写真を撮り、父親が地図を広げている。
その光景を見て、佐和子が小さく笑った。
「きれいですね」
「ええ」
「こういう町なら、姉が好きになったのも分かる気がします」
「でも、好きになったまま帰れなかった」
「そうですね」
「そのほうが、嫌いになるより長く残るんです」
湊が言うと、佐和子はしばらくこちらを見てから、ゆっくり頷いた。
風の向きが変わったのは、そのあとだった。
港からの焼き物の匂いではなく、もっと潮の濃い匂いが上がってくる。島の向こうから夕方の海そのものが近づいてくるような感じだった。
春乃がこの広場を描いた夕方も、きっとこんなふうに風が変わったのだろう。
昼の待ち時間が終わり、夜の時間が始まる前。
もうこれ以上、同じ日の中では会えないと分かる時間帯。
その境目に立つ人の表情は、きっと怒りより先に静けさを帯びる。
「相沢さん」
汐里が言った。
「はい」
「この広場って、ちょっと潮待ち浜に似てますね」
「ええ」
湊はすぐに答えた。
「駅じゃないけど、何かが決まる前の場所として」
「そうです」
「春乃さんにとっては、ここがその役目をしたのかもしれない」
「母にとっての駅、千紘にとっての仮場、春乃さんにとってのこの広場」
「春口には、そういう場所がいくつもあるんですね」
佐和子が言った。
いくつもある。
そしてそれぞれが、港でも駅でもない“途中”の形をしている。
潮待ち浜は特別な名前を持った。
だが、名前のつかない潮待ち浜は、町のあちこちに潜んでいるのかもしれない。
人が待ち終えることのできなかった場所として。
広場を下りるころには、空に少しだけ夕暮れの色が混じり始めていた。
祭りの港は本格的に賑わい始め、屋台の灯りが海に映る。
春口の夏は美しかった。
その美しさを、もう三人とも否定しない。
ただ、その明るさの中で人がどれほど静かに傷つくかも、知ってしまっていた。
宿へ戻る前に、佐和子は立ち止まり、港を振り返った。
「姉を理解した、とはまだ言えません」
「ええ」
湊が言う。
「でも?」
「姉が弱かったわけじゃないってことだけは、少し分かった気がします」
「……」
「待ち続けることをやめられない人には、それなりの理由がある。そう思えるようになりました」
その一言は、小さくても大きかった。
死者を理解するというのは、全面的に許すことでも、美化することでもなく、その人がなぜその場所に立ち続けたかを、自分の人生の中で引き受けられる形にすることなのかもしれない。
夜、提灯の灯りが窓の障子に揺れる中で、湊はノートを開いた。
今日の頁には、何度も書き直したあとで、ようやくこう書いた。
――待ち続けることをやめられない人は、弱いのではない。
――会えなかった時間を、簡単な裏切りや失敗に切り分けられないだけだ。
――風の変わる夕方に、人はようやく、それが一日のうちには終わらないと知る。
ペンを置いたあと、しばらく窓の外を見た。
祭りのざわめきは心地よいほど遠い。
その遠さが、春口の夜にはよく似合う。
町は明るく賑わっている。
それでも、人が自分の待ち時間と向き合うには十分な静けさが残されている。
春口はたぶん、そういう町であり続けるのだろう。




