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潮待ちのレール ― 夏の船着場 ―  作者: たむ


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7/12

第七章 岬の停留所

 祭りの初日、春口の朝はいつもより早く目を覚ましていた。


 宿の台所では、汐里がまだ七時前だというのに大鍋を火にかけていた。味噌の匂いに混じって、出汁の甘い香りと、揚げ物の下ごしらえの油の気配がある。港のほうからは、提灯を吊り直す脚立の金属音や、誰かが木箱を運ぶ乾いた音が聞こえてきた。春口は普段、外へ向けて大きな声を出す町ではない。けれど祭りの日だけは、町そのものが少しだけ肩を起こし、外から来る人と中で暮らす人の両方へ向けて、「今日はここに人が集まる日だ」と静かに告げているようだった。


 湊は、客室の障子を開けたところでしばらく動けなかった。

 港には朝の光がまっすぐ差し込み、海はもう細かくきらめいている。岸壁に沿って提灯の列が細く伸び、その向こうの島影は、いつもより一段はっきりして見えた。春口に来てから、海はいろいろな色を見せた。霧に曇る朝の白。凪の日の銀灰。夕暮れの金属のような深い色。だが祭りの日の朝の海は、ただ明るいだけではなく、「今日は人の時間がここへ寄ってくる」と知っているような光り方をしていた。


 階下へ降りると、佐和子はすでに起きていた。

 昨夜見つけた紙片――「港では待たないで」と書かれたメモ――を封筒に戻し、卓袱台の上へ置いている。顔色は悪くない。けれど、何か一つ決めたあとの静けさがあった。


「眠れましたか」

 湊が訊くと、佐和子は少し考えてから頷いた。

「途中で一度起きましたけど」

「メモのことを」

「ええ」

 彼女は正直に言った。

「姉の“来なかった”が、単純に裏切られた記憶じゃないかもしれないって分かっただけで、少しだけ違いました」

「違う、というと」

「怒りの向け先が消えた代わりに」

 佐和子は湯呑みに湯を注ぎながら続けた。

「時間のほうが見えてきた感じです。姉は誰か一人を恨み続けたんじゃなくて、すれ違いの中に長く立っていたんだなって」


 その言い方は、まさに春口で見つかる記憶のあり方に近かった。

 誰か一人がすべてを壊したのではない。

 便が遅れ、連絡が届かず、場所がずれ、少しずつ行き違って、あとには一人分の待ち時間だけが残る。

 第一作の父の夏もそうだった。

 そして春乃の夏もまた、その系譜の上にある。


 朝食のあと、汐里が手を拭きながら言った。


「今日、祭りの準備が本格的に始まる前に、一か所だけ行けるかもしれません」

「どこへ」

 佐和子が訊く。

「姉のメモにあった“先に駅へ行く”の先です」

「駅」

「港では待たないで、ということは」

 湊が言う。

「相手は港から別の場所へ移った」

「はい」

 汐里が頷く。

「春口駅そのものじゃなくて、もう一つ先の小さな停留所跡かもしれません」


 春口の外れ、海へ突き出すような岬の途中に、かつて短期間だけ使われていた乗降場の痕跡がある。

 観光客はほとんど知らない。

 正式な駅ではなく、臨時停車や工事の便宜のために使われた時期があったとも、地元の通学用にわずかに機能したとも言われている。篠原から以前、そういう場所がいくつかあったと聞いていた。

 もし「先に駅へ行く」という言葉が、春口のホームではなく、より接続のしやすい別の待ち合わせ地点を指していたとしたら。

 春乃と相手は、港と駅そのものの間ですれ違ったのではなく、そのさらに先の曖昧な停留点を巡って行き違ったのかもしれない。


「そこ、行けますか」

 佐和子の声には、期待より緊張が滲んでいた。

「歩いてですか」

「ええ。朝のうちなら」

 汐里が答えた。

「暑くなる前に行って戻れます」


 三人は宿を出た。

 祭りの朝の町は、いつもより明るいくせに、まだ完全には開いていない。商店のシャッターは半分だけ上がり、魚屋の前には氷の入った箱が並び始めている。地元の中学生が法被姿で自転車を押して通り、港のほうでは若い男たちが屋台の板を運んでいた。春口はこの数日だけ、観光の町の顔を作る。だがその顔も、どこか生活の延長に留まっている。お祭り仕様の街ではなく、暮らしが少しだけ表へ開いている感じだ。


 坂道を上がり、春口駅を過ぎ、その先の道へ入る。

 線路は途中で海沿いの低い崖へ寄り添い始め、町の家並みは少しずつ疎らになる。右手には夏草に埋もれかけた石垣、左手にはときどき海がのぞく。風はすでに温かいが、まだ昼の強さではない。歩きながら湊は、自分が第一作のころより、この土地の道の感覚に馴染んでいることに気づいた。海が見えなくても、その向きが分かる。列車の音が遠くで鳴れば、線路の位置がなんとなく想像できる。春口はもう、完全な旅先ではなかった。


「姉、どうしてそこへ行くと思いますか」

 佐和子が歩きながら訊いた。

「待ち合わせるなら春口駅のほうが分かりやすいですよね」

「分かりやすい場所ほど、人の目があります」

 湊が答えた。

「夏祭りの時期ならなおさら」

「じゃあ、目立たない場所?」

「それもありますし、たぶん“接続のために都合がいい場所”だったのかもしれません」

「接続」

「港から移った人が、遅れた列車や別の便を拾いやすい場所」


 佐和子は黙ってうなずいた。

 彼女の表情に、少しずつ春乃の夏の組み立てが生まれつつあるのが分かった。恋愛の悲劇ではない。もっと現実的で、もっとどうしようもない、移動と時間の不一致としての痛み。それを理解することは、姉をロマンティックに救うことではなく、姉がどういう現実の中で待っていたかを受け取ることだ。


 岬へ向かう途中、海を見下ろす小さな切り通しがあった。

 そこから先は道幅が急に狭くなり、線路との距離も近くなる。崖下には穏やかな内海が広がり、白い船が二艘、小さく停まっていた。遠くから見ると、海も港もどこか牧歌的だ。だが、こうした地形の中で列車と船と人の時刻を合わせるのがどれほど繊細なことか、湊にはもう少し想像できる。少し便が遅れ、少し道が混み、少し連絡が届かないだけで、誰かの一日が簡単に別の形へ折れ曲がる。


 やがて、線路脇に不自然な平場が現れた。

 ホームというには低く、道の脇というには横に長い。白線の名残か、それともただの塗装跡か分からない薄い線があり、朽ちた柵の根元だけが残っている。小さな標識の柱のようなものも倒れたままだ。

 神尾浜の仮場ほど大きくはない。

 だが、誰かが「駅へ行く」と言うときに、この程度の場所を指したとしても不思議ではなかった。特に地元の人間同士ならなおさらだ。


「ここ……」

 佐和子が息をひそめた。

「たぶん」

 汐里が周囲を見回す。

「祖母が昔、“岬の停留所”って呼んでた場所に近いです」

「正式な駅じゃない」

「ええ。でも、一時的に人が降りたり待ったりしたことはあるみたい」


 岬の停留所。

 それは潮待ち浜を、もっと現代寄りに、もっと小さくしたような場所だった。

 正式な路線図には残らない。

 けれど、土地の人間の記憶には、接続のための場所として残る。

 春乃の夏もまた、そういう“地図に載らない途中”の一つで切れていたのかもしれない。


 佐和子はスケッチ帳を開き、何ページかをめくった。

 その中に、これまで気づかなかった小さな線画があった。海を見下ろす斜面、柵、低い平場、遠くの島。人物はない。だが構図は、今立っている場所とよく似ている。


「これです」

 彼女の声が少し震えた。

「姉、ここも描いてた」


 絵の隅には、これまで見つけた数字とは違う走り書きがある。


 ――待っていたのは、便ではなく、選ばれる場所のほうだったのかもしれない。


 湊はその文を繰り返し読んだ。

 選ばれる場所。

 春乃は港で待つか、駅で待つか、そのさらに途中の停留所で待つか――相手がどこを選ぶのかを待っていたのだろうか。

 相手が自分を迎えに来る意思を持っていても、どの場所を選ぶかで接続は変わる。

 春口という土地では、「会う」は感情より先に、場所の選択なのだ。


「姉は、どこか一つの場所にいたかったんじゃないんですね」

 佐和子が言う。

「相手がどこを選ぶか決めきれないから、自分も動いてしまった」

「港、坂、待合、無人駅……」

 汐里が数えるように言った。

「ずっと移動してる」

「待っていた、というより」

 湊が続ける。

「待ちながら、接続の可能性を追って移動していた」


 それは、父が春口周辺の駅や港を何度も巡った姿にも似ていた。

 人は、待つ相手が一か所に定まらないとき、自分の身体を移動させることでしか不成立に抗えないのかもしれない。

 港にいるかもしれない。

 駅へ回ったかもしれない。

 もう一つ先の停留所かもしれない。

 その「かもしれない」が人を歩かせ、そして疲れさせる。


 停留所跡の脇に、小さな祠があった。

 海の安全と交通の無事を祈るものだろうか、木の札が古く褪せている。前には小石と、誰かが最近置いたらしい小さな花があった。

 佐和子がしゃがみ込み、その花を見た。


「誰か、今でもここへ来るんですね」

「地元の人か、線路の保守の人か」

 汐里が言った。

「あるいは、こういう場所に花を置く癖のある人」

「癖?」

「亡くした場所を決めきれない人が、ときどきそうします」


 その言い方に、湊は少し驚いた。

 汐里は以前より、自分の内側の知識のようなものを言葉にするようになっていた。

 母の沈黙や春口の歴史を受け取るうちに、町の人間として知っていた感覚を、少しずつ他人にも渡せる形にし始めているのかもしれない。


 停留所跡でしばらく過ごしたあと、三人は岬の先端へ少しだけ足をのばした。

 そこには小さな展望台のような場所があり、海と線路と港が一望できる。

 春口の駅も、港の待合も、さきほどいた停留所跡も、どれも一つの風景の中に収まる。

 こうして見れば近い。

 近いのに、実際にはそのあいだで人は簡単に行き違う。

 春乃も、相手も、たぶん同じようにこの距離を甘く見積もった瞬間があったのだろう。


「来るつもりだった人が」

 佐和子が海を見たまま言った。

「港ではなく、駅か停留所を選んだ」

「ええ」

「姉は、それを知らずに港で待っていた」

「たぶん途中からは」

 湊が言う。

「港だけじゃなく、町のあちこちを動いたんだと思います」

「その移動自体が、姉の中で終わらなかった」

「そうかもしれません」


 佐和子はそれきり黙った。

 夏の光が岬の柵に反射し、海はどこまでも穏やかだった。

 こういう日に人がすれ違い、会えず、何年もあとまでそのことを引きずるなど、景色だけを見ていると信じがたい。

 だが、せとうちの現実はたぶん、こういう穏やかな日こそ人を曖昧に惑わせるのだ。全部が止まるほどの嵐なら諦めもつく。半端に動き、半端に待ててしまう日ほど、時間は切れにくい。


 帰り道、祭りへ向かう観光客とすれ違うことが増えた。

 家族連れ、若いカップル、カメラを肩に提げた中年の男性。

 皆、春口の夏に期待している顔をしている。

 湊はその人たちを見ながら、この町が持つ二重の顔を改めて思った。

 迎える場所。

 待たされた時間の残る場所。

 そのどちらも本当で、そのどちらかだけではない。


 宿に戻ると、祭りの準備で汐里はしばらく忙しくなった。

 地元の人が氷を取りに来たり、予約の確認をしたり、港へ軽食を差し入れる支度をしたりする。

 湊も皿を運び、テーブルを拭き、買い足しのために商店まで走った。

 佐和子は最初遠慮していたが、やがて自然に配膳を手伝うようになった。

 誰かの遺品を抱えて歩くことと、目の前の暮らしの手を動かすこと。

 その二つが春口では不思議に矛盾しない。


 夕方近く、港の提灯に一斉に灯が入った。

 子どもたちの声がして、屋台から焼き物の匂いが流れてくる。

 春口は静かに賑わい始めた。

 その光景を縁側から見ていた佐和子が、ぽつりと言う。


「姉はたぶん、こういう祭りの明るさの中で待っていたんですね」

「そうかもしれません」

 湊が答える。

「帰ってこない相手を、こういう中で」

「ええ」

「……きついですね」


 それは感想というより確認だった。

 明るい世界の中で、自分だけが接続の失敗に取り残されること。

 春乃の夏は、千紘の夏とは違う形で、やはり「迎えの不成立」に傷つけられていた。


 夜が深まるころ、港のざわめきはむしろ心地よい底音のようになった。

 湊は自室でノートを開き、岬の停留所跡で見つけた一文を書き写した。


 ――待っていたのは、便ではなく、選ばれる場所のほうだったのかもしれない。


 その下に、自分の言葉を足す。


 ――来るか来ないかだけではなく、どこへ来るのか。

 ――春口では、それだけで人は会えなくなる。

 ――すれ違いは、感情ではなく地形と時刻の上でも起こる。


 ペンを置いたあと、しばらく窓の外を見た。

 提灯の赤が港に連なり、海はその光を細く揺らしている。

 春口は、何度見ても美しい。

 だが今の湊には、その美しさが「会えなかった場所の総体」にも見えた。

 そのことを知ってなお、この町を好きになってしまう人がいる。

 父も、澄江も、春乃も、そしてたぶん自分も、そういう人間なのだろう。

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