第六章 古い絵葉書
祭りの提灯が港に並び始めると、春口の夕方はふだんより少しだけ遅く感じられた。
灯りが入る前の提灯は、ただの白い紙のかたまりに見える。昼の光の下では素朴で、むしろ拍子抜けするほどだ。けれど夕方になるにつれ、その白がひとつずつ色を持つ準備を始める。海から上がる風に揺れ、岸壁の上に細い影を落とし、まだ灯っていないのに町の空気だけを先に変えてしまう。春口の祭りはそういうふうに始まるらしかった。大きな音も、派手な呼び込みもないまま、景色のほうから少しずつ人の気分を引き寄せていく。
その朝、宿の居間で佐和子はスケッチ帳とは別の封筒を開いていた。
古びた便箋や切符の類はもう一通り見たはずだったが、昨夜、自室で荷物を整理していたときに、封筒の内側にさらに一枚、貼りつくように折り込まれていた紙を見つけたのだという。
「出しそびれたのか、入れ忘れたのか」
佐和子が言った。
「姉はこういうところだけ、妙に雑だったんです」
卓袱台の上に置かれたそれは、絵葉書だった。
表には瀬戸内のどこかの島影が、夕方の光の中で幾重にも重なる写真が印刷されている。春口そのものではない。もっと広く、多島海全体を見渡すような構図だ。裏面の宛名欄は空白で、切手も貼られていない。余白に、春乃の細い字で短い文が書かれていた。
――待つことが終わったら帰る。
――でも、何をもって終わったことになるのか分からない。
――来ないことを知ることと、待つのをやめることは同じではないから。
前に見た一文の続きだった。
湊はその文字を目で追いながら、胸の奥で何かが静かに沈むのを感じた。
来ないことを知ることと、待つのをやめることは同じではない。
それは、春口で起きる多くのことの本質に近かった。
便は来ないかもしれない。
迎えもないかもしれない。
だが、その事実を知ったからといって、人の側の待ち時間がすぐに終わるわけではない。
むしろそこから先のほうが、長いことすらある。
「姉らしいです」
佐和子が少し笑った。
「理屈っぽい」
「でも、すごく正直ですね」
汐里が言った。
「“来なかった”で片づけていない」
「ええ」
佐和子は頷いた。
「来なかったなら、もう終わりだと自分に言い聞かせることはできたはずなのに、それをしなかった」
湊は絵葉書の端を見た。
日付のようなものは書かれていない。
ただ、インクの滲み方からして急いで書いたのではなく、かなり長く考えながら書いた文らしかった。
春乃はきっと、この町のどこかで立ち止まりながら、この文章を書いたのだろう。待合室か、港か、あの広場か。
そして結局、誰にも出さなかった。
自分の中で終えられていない時間は、宛先を持ちにくいのかもしれない。
「この絵葉書、どこで買ったんでしょう」
汐里が言う。
「春口の観光案内所ですかね」
「いや」
佐和子は首を振った。
「姉は、旅先で“絵葉書として分かりやすいもの”をわざと避けることが多かったんです」
「どういうことですか」
「町の名前が大きく入ったものとか、名所の写真とか。そういうのを選ぶと、自分でも“思い出にしようとしている”感じがして嫌だって」
「じゃあこれは」
「港の売店か、駅の小さな売店か……そういうところで何となく手に取った可能性が高いです」
売店。
湊はすぐに、以前父の足跡を追って訪ねた南瀬戸口の古い売店を思い出した。春口周辺の駅や港には、かつて旅人と生活者のあいだを曖昧に繋ぐ小さな売店がいくつもあった。切符や菓子や飲み物のほかに、土地の空気まで置いてあるような場所だ。
「港の売店跡、まだ何か残ってるかもしれません」
汐里が言う。
「今は閉まってますけど、昔は絵葉書も置いてたはずです」
「行ってみますか」
湊が訊くと、佐和子は即座に頷いた。
宿を出ると、朝の光はすでに夏らしい強さを持っていた。
坂道の石が白く照り、路地の先の海も細かく光っている。祭りの準備で、町のあちこちに提灯の骨組みや看板が置かれていた。地元の子どもが二人、色紙を持って走っていく。その背中を見ていると、この町が「待たされた時間」だけでできているわけではないことが分かる。朝があり、買い物があり、祭りがあり、子どもの足音がある。その明るさの中へ、かつての不在が沈んでいるのだ。
港の売店跡は、待合小屋の脇にくっつくように残っていた。
シャッターは半分だけ下ろされ、ガラスの向こうに空の棚が見える。汐里が「昔の持ち主の甥がたまに見に来る」と言って戸を叩くと、ほどなくして奥のほうから中年の男が現れた。日に焼けた顔に、少しだけ警戒した目をしていたが、汐里の説明を聞くと「絵葉書?」と首をひねりながらも中へ通してくれた。
店内には、古い冷蔵ケースと、色褪せた商品棚がそのまま残っていた。
駄菓子の段ボール箱、錆びたフック、使われなくなったレジ。
観光用に保存されたレトロな店ではない。ただ時間が少しずつ去っていったあと、まだ完全には片づけられていない空間だった。
「絵葉書なら、たしかこのへんに」
男が棚の下を探る。
「もう売り物にはならんけど、残りがあったはずや」
出てきたのは、小さな束だった。
輪ゴムは劣化して切れかけ、紙も端が反っている。
そのうちの一枚を見た佐和子が、小さく息を呑んだ。
「これです」
表には、春乃の絵葉書と同じ写真があった。
多島海の夕景。
島影が重なり、空と海の境目があいまいになる構図。
男は「昔、あまり売れんかったやつや」と笑った。
「春口の絵じゃないからね。観光の人は分かりやすいのを買う」
「でも、姉はこれを選んだ」
佐和子が言う。
「ええ」
「この町そのものより、“この町から見えない広さ”を持ち帰りたかったのかもしれない」
湊はその言葉に頷いた。
春乃は、春口をただ一点の出来事として残したくなかったのだろう。
来なかった人との不成立だけでなく、その不成立の向こうに広がる海の余白ごと持ち帰ろうとした。
だが持ち帰れたのは、絵葉書と、終えられない待ち時間だけだったのかもしれない。
売店の男は、春乃のことをはっきり覚えてはいなかった。
ただ、「絵を描いてる若い女の人が、夕方に何度か来て、船の時間ばかり気にしていた」とは言った。
「誰かを待っていたんでしょうか」
佐和子が訊くと、男は肩をすくめた。
「この辺で時間を気にする人は、だいたい誰かを待っとるか、帰りの便を逃したくないかや」
それはそうだろうと思った。
春口の港で時間を気にすることは、そのまま人か帰路のどちらかに結びつく。
そして春乃は、後者だけではなかったはずだ。
帰りの便そのものより、「その便に乗って現れるはずの誰か」を見ていたのだろう。
売店を出たあと、三人は待合小屋のベンチに座った。
昼には少し早く、人影は少ない。海の上を、白い船がひとつゆっくり横切っていく。
佐和子はさっき見つけた同じ柄の絵葉書を手にしたまま、しばらく黙っていた。
「姉が何を好きだったのか」
やがて言う。
「私は、ほんとうはあまり知らないんです」
「ええ」
「歳が離れていたから、子どものころは優しくて忙しい人、という印象しかなくて。大人になってからは、お互いに仕事で、会えば普通に話すけど、深いことはあまり」
「でも、遺品を整理していて」
「初めて、姉にも話さなかった時間がたくさんあったんだと分かりました」
湊は少しだけ、父のことを思った。
死んだ人の遺したものは、故人を近づけると同時に遠ざける。
知らなかった一面が出てくるたび、その人がより生きた存在になる一方で、自分がどれほど知らずにいたかも突きつけられる。
「姉にとって私は、たぶん“待たせないようにしたい相手”だったと思います」
佐和子が続けた。
「子どもの私に対しては、いつも時間を守る人だった。迎えに来ると言ったら来るし、遅れるなら必ず連絡する」
「……」
「それってたぶん、春口の夏のあとで身につけたことなのかもしれない、って今は思うんです」
その想像は、痛いほど自然だった。
待たされた経験を持つ人は、他人を待たせることに敏感になる。
あるいは逆に、待たせてしまう人に過敏になる。
春乃が子どもに絵を教えながら、時間にきっちりした人だったのも、その延長なのかもしれない。
「春乃さん、待つことを終えられなかったんじゃなくて」
汐里が静かに言った。
「終えきれないままでも、別の人を待たせないように生きてたのかもしれませんね」
「ええ」
佐和子は絵葉書を見つめたまま答えた。
「たぶん」
そのとき、待合の柱に貼られた古いイベント案内が風で少しめくれた。
裏に、古いメモ書きのようなものが透けている。汐里がそっと剥がすと、観光ポスターのさらに下に、何かの連絡用紙の断片が押し込まれていた。
走り書きの字で、こうあった。
――ハルノさん
――七時十五分の便、今日は遅れる
――先に駅へ行く
――港では待たないで
三人とも、しばらく声が出なかった。
紙は新しくない。
だが春乃の時代とぴたり重なる保証もない。
それでも、「ハルノさん」という呼びかけと、「七時十五分の便」と「港では待たないで」という文が並んでいる以上、偶然だと言い切るには出来すぎていた。
「姉のこと……?」
佐和子がかすれた声で言う。
「たぶん」
湊は慎重に答えた。
「断定はできません。でも、かなり近い」
「先に駅へ行く」
汐里が読む。
「つまり、相手は港ではなく駅側へ回った」
「でも、姉は港で待っていた」
佐和子が言った。
「そういうことになります」
その一行で、春乃の夏の輪郭が急に立ち上がった。
来なかったわけではないのかもしれない。
来るつもりで、別の場所へ回った。
遅れた便、すれ違う連絡、港と駅のあいだの行き違い。
春口という町にふさわしいほど現実的で、だからこそ残酷な不成立だった。
「姉は、このメモを受け取れなかったんでしょうか」
佐和子が訊く。
「あるいは、見つけられなかった」
湊が言う。
「待合の柱に挟まれたままになっていたなら」
「誰かが伝えようとして、伝えきれなかった」
汐里が低く言った。
海の上を風が渡った。
さっきまで穏やかだった水面に細かい皺が立ち、待合の影が少し揺れる。
来なかった人。
そう思っていた相手は、もしかすると来ようとしていた。
だが、港では待つなという連絡が届かなかった。
春乃は港で待ち続け、相手は駅へ向かったのかもしれない。
すれ違ったのだ。
ただ感情としてではなく、便と場所の選択として。
湊は胸の奥で、第一作の父のことを思った。
少し待てば大丈夫。
先に港へ。
迎え未確認。
春口では、人の約束がしばしば場所の選択一つで切れてしまう。
だからこの町には、待ち終えられなかった時間が残るのだろう。
佐和子は紙片をじっと見つめていた。
泣いてはいない。
だがその横顔は、これまでよりいっそう静かだった。
「姉は」
やがて言う。
「来なかった人を待っていたんじゃない」
「ええ」
湊が答える。
「すれ違った人を待っていたのかもしれません」
「そのほうが、たぶん残酷ですね」
「そうかもしれません」
来ないより、来ようとしたけれど来られなかった。
そこへさらに、連絡の不達や場所の行き違いが重なる。
誰か一人を裏切り者にできないぶん、時間だけがいつまでも終わらない。
待合に船が着く時間が近づき、人が少しずつ集まり始めた。
老夫婦、地元の高校生、観光客らしい親子。
誰もが当たり前のように海のほうを見る。
その当たり前の動作の中に、春乃もまたいたのだろう。
ただ一人、別の意味でその方向を見て。
湊は、柱の影と、貼り紙の残り跡と、海の白い光を見つめた。
春口は、いつもこんなふうに人を行き違わせるわけではない。
だがひとたび便がずれ、場所がずれ、連絡が届かないと、そのズレは町の地形そのものに支えられて大きくなる。
駅と港の距離は近い。
近いからこそ、人は「間に合う」と思ってしまう。
その思い込みが、何度も誰かの待ち時間を長引かせてきたのかもしれない。
船が着き、ロープが投げられ、人が動き出す。
絵葉書は佐和子の手の中で小さく揺れていた。
待つことが終わったら帰る。
その終わりは相手が来ることではなく、すれ違いの現実を受け取ることだったのかもしれない。
だが春乃には、それをすぐには受け止められなかった。
だから絵葉書も出されず、時間だけが春口に残った。
夕方、宿へ戻るころには、提灯に一つずつ灯が入っていた。
港は小さく華やぎ始めている。
その明るさの中で、佐和子は歩きながら言った。
「姉の“来なかった”は、単純な不在じゃなかった」
「ええ」
「春口らしいですね」
汐里が、少しだけ苦く笑った。
「全部が完全に途切れるんじゃなくて、半端に繋がりかけるから余計に残る」
まさにその通りだと、湊は思った。
半端に繋がりかける時間。
潮待ち浜も、父の夏も、春乃の待ち時間も、その形をしている。
完全な喪失より、わずかな接続の失敗のほうが、時に人を深く縛るのだ。
夜、部屋に戻ったあと、湊はノートを開いた。
窓の外では提灯の赤い灯りが小さく揺れ、祭り前の音が遠く響いている。
今日見つけたメモのことを書こうとして、しばらくペンが止まった。
――ハルノさん
――七時十五分の便、今日は遅れる
――先に駅へ行く
――港では待たないで
それを書き写し、その下にさらに足した。
――来なかった人ではないのかもしれない。
――来ようとして、別の場所へ向かった人。
――すれ違いは、裏切りより長く残ることがある。
書き終えたところで、遠くから列車の音がした。
港のざわめきと混じり、海の上へほどけていく。
春口の夜は、相変わらず美しかった。
そしてその美しさの底で、人の約束がどれほど簡単に場所に引き裂かれるかを、町は何も言わずに知っているようだった。




