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潮待ちのレール ― 夏の船着場 ―  作者: たむ


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第五章 観光の季節

 港を見下ろす小さな広場は、春口の町外れにあった。


 広場といっても、公園のように整えられた場所ではない。石垣を少し削って平らにしただけのような余白で、木のベンチが一つ、錆びた街灯が一本、それに古い案内板があるだけだった。案内板には島々の名前と、かつての航路を示す細い線が描かれている。だが、その地図もところどころ色褪せ、今はもう使われていない便名の部分だけが、かえって濃く残って見えた。


 広場からは、港と春口駅の両方が見えた。

 駅の赤い屋根。

 港の待合。

 岸壁に繋がれた船。

 そのあいだを行き来する坂道。

 ここに立てば、列車から港へ向かう人も、港から駅へ急ぐ人も、遠目にはだいたい見えるだろう。待つ人にとっては、希望を手放しきれない場所だ。まだ来るかもしれない、まだ間に合うかもしれない、そう思わせる視界が開けている。


 佐和子はスケッチ帳を開き、最後のページの一つ前を見せた。

 鉛筆だけで描かれたその絵は、まさにこの広場からの視界だった。港も駅も、小さく一枚の中に収まっている。だが不思議なことに、人物の影は一つもない。待合もホームも坂道も空いていて、ただ光だけが広場の端を白く照らしている。


「これが最後?」

 湊が訊く。

「スケッチ帳の最後ではないです」

 佐和子が答える。

「でも、春口の絵としてはほぼ最後です。そのあとは、東京へ戻ってから描いたらしい室内の静物ばかりになる」

「じゃあ、この広場で何かが終わった」

「そう思います」

 佐和子は少しだけ、苦いような笑みを浮かべた。

「少なくとも、姉が“待ち続けること”はここでやめたんだと思う」


 待ち続けることをやめる。

 それは相手が来ることではない。

 来なかった時間を、そのまま引き受けることだ。

 そう考えると、この絵に人物がいない理由も少し分かる。待つ相手も、自分自身の待つ姿も、もう描かれていない。春乃はこの広場から、港も駅も見渡したあとで、ようやく「今日はもう来ない」と決めたのかもしれない。


 汐里がベンチに腰を下ろし、港のほうを見た。


「ここ、夏祭りの日は子どもが集まるんです」

「祭り?」

 佐和子が訊く。

「ええ。明後日から小さな港祭りがあって。観光の人も来るけど、もとは町の人のためのものなんです」

「春口、そういうのがあるんですね」

「派手ではないですけど」


 その言葉どおり、町はすでに祭りの準備に入っていた。

 港の倉庫の前には提灯が積まれ、商店の軒先には簡単な飾りが出され、観光案内所の前には手書きの立て札が立っている。春口は派手な観光地ではないが、夏の数日だけ少しだけ“外に向く顔”を作るらしい。


 広場から坂を下りていく途中、若い観光客らしい男女とすれ違った。

 女性のほうがスマートフォンを掲げて港のほうを撮っている。


「やっぱり映えるよね、この感じ」

「ローカル線と海って、なんかいい」


 悪意のない声だった。

 湊はその言葉を責める気にはなれなかった。実際、春口はそういうふうに見えるだろうし、そう見えるだけの美しさも持っている。

 だが同時に、その“なんかいい”の奥に沈んでいる時間のことを、自分はもう知ってしまっている。美しい町であることと、そこに失われたものがあることは、矛盾しない。むしろ、美しいからこそ、沈んだものは見えにくくなる。


 宿へ戻る道すがら、佐和子がぽつりと言った。


「姉がこの町のことを語らなかった理由、少し分かる気がします」

「どうして」

 湊が訊く。

「きれいすぎるんです」

「……」

「きれいな風景の中に、自分の待っていた時間だけが置き去りになってると、話した途端に変な話になりますから」

「変な話」

「ええ。聞く側は、だいたい風景の話を求めるでしょう。“いい旅だった?”とか、“海きれいだった?”とか。でも本当は、来なかった時間ばかりが残ってる」

「そうですね」

 汐里も静かに頷いた。

「春口は、そういう町かもしれません。観光の人には明るく見えるし、実際に明るい。でも、長くいた人には別の色も見える」


 別の色。

 湊はその言葉を胸の中で反復した。

 せとうちの色は、青や白や緑だけではない。待っていた午後の色、帰れなかった人の影の色、霧の日の白、濡れたレールの鈍い銀。

 春口の魅力をただ「きれい」と言ってしまうことはできる。

 けれど自分がここで受け取ったものは、もっと混ざり合ったパレットだった。


 その日の午後、宿には新しい客が一組入った。

 大学生くらいの若い二人連れで、大きなカメラを首から下げている。町歩きの本を片手に、チェックインのあいだも「ここ、絶対朝のホーム撮りたいよね」「港の夕景もいいらしいよ」と弾んだ声で話していた。汐里はいつも通り穏やかに対応し、部屋へ案内していく。


 帳場に残された空気の中で、佐和子が苦笑した。


「私も他人から見たら、ああいう観光客みたいに見えるんでしょうね」

「最初は」

 湊が言う。

「でも、見ているものが違う」

「そうでしょうか」

「少なくとも、春口にある“明るさだけではないもの”を見ようとしている」

「……」

「それは、この町ではたぶん大きいです」


 佐和子は何か答えかけたが、結局黙った。

 言葉を選びすぎる人は、こういう沈黙をよく持つ。

 湊には、その感じが少し分かるようになっていた。


 夕方近く、湊は一人で港へ出た。

 提灯を吊るす準備が進み、岸壁では地元の若者たちが簡易の屋台を組み立てている。夏祭りの匂いがした。油の熱、木材、海水、日焼け止め、そうしたものが混じっている。町は浮き立つほどではないが、たしかに外を迎える顔になりつつあった。


 その光景を見ていると、第一作で父と千紘をめぐって追った“夏の港の混乱”がふと重なった。

 祭りの日。

 人の増える港。

 船と駅の往来。

 子どもの姿。

 大人たちの忙しさ。

 今は穏やかな準備の一つひとつが、ひとたび便や天候が崩れれば簡単に混乱へ変わることを、湊はもう知っている。


「珍しい顔しとるね」


 後ろから声がした。

 振り向くと、早苗がいた。元食堂の主だった女性だ。薄い灰色のシャツに、手には買い物袋を提げている。


「珍しい顔?」

「観光の人を見る目が、前より少し厄介になってる」

「厄介ですか」

「この町を綺麗に見てくれるのはうれしい。でも、それだけでは足りないと思い始めた顔」


 早苗の観察は相変わらず鋭かった。

 湊は少し笑ってから、隠さずに答えた。


「そうかもしれません」

「まあ、そうなるわね」

 彼女は隣に立ち、港の準備を眺めた。

「でも、観光の人が増えるのが悪いわけでもないのよ」

「分かっています」

「ええ。町は閉じてるだけじゃ生きられない。港も宿も駅も、来る人がいるから続く」

「ただ」

「ただ、その明るさだけで塗りつぶされると、ここに残ってるものが見えなくなる」


 湊は頷いた。

 まさにその感覚だった。


「父も」

 ふと口に出していた。

「春口を綺麗な場所として好きだったんだと思います。でも、綺麗だからこそ戻ってきたわけじゃない」

「そうでしょうね」

 早苗はあっさり言った。

「人は美しいだけの場所には、そんなに何度も戻らないもの」

「……」

「帰れなかったものがある場所に、戻るのよ」


 帰れなかったもの。

 その言い方は、佐和子の姉にも、父にも、澄江にも、そのまま当てはまる気がした。


 夕食のあと、宿の居間で三人は祭りの準備の音を聞きながら過ごした。

 窓の外では提灯の灯りの試験点灯がされ、港の一角がうっすらと赤く染まっている。春口の夜はふだん静かだが、祭り前の数日だけは、その静けさの中に小さなざわめきが混じる。


「明るいですね」

 佐和子が言う。

「はい」

 汐里が答える。

「春口がいちばん“外を迎える顔”になる時期です」

「でも、それでいて騒がしすぎない」

「そういう町なんです」


 湊はふと思い出し、訊いた。


「春乃さん、祭りの時期に来たんでしょうか」

「遺品の日付からすると、たぶんその少し前後です」

 佐和子が答える。

「じゃあ、この空気も感じていたかもしれない」

「そうですね」


 祭りの気配の中で、待ち続けること。

 周囲が少しずつ浮き立ち、人が外へ向き、港や駅が“迎える場所”として賑わう中で、自分だけが来ない相手を待っている。

 それはきっと、痛かっただろう。

 世界の明るさが、自分の不成立だけを際立たせるからだ。


「姉、もしかしたら」

 佐和子が静かに言う。

「この町のことを嫌いになれなかったからこそ、余計に語れなかったのかもしれません」

「嫌いになれなかった」

「ええ。嫌な思い出なら、むしろ切ってしまえる。でも、きれいで、好きになってしまって、その中に来ない時間だけが残ると、どう片づけていいか分からなくなるでしょう」

「……分かる気がします」

 湊が言うと、佐和子は少しだけ驚いたようにこちらを見た。

「相沢さんも?」

「春口に対して、まだそこまで言い切れはしませんけど」

「けど?」

「この町には、人を簡単に嫌わせない力がある気がします。だから余計に、ここで失くしたものが長く残る」


 汐里は、その言葉を否定しなかった。

 代わりに、窓の外の提灯の明かりを見ながら言った。


「だから宿を続けてるのかもしれません」

「どういう意味ですか」

 佐和子が訊く。

「好きだからだけじゃなくて」

 汐里は少し考えてから続けた。

「この町を、ただの“綺麗だった思い出”にも、“辛かっただけの場所”にもしたくないから」

「……」

「戻ってこれる場所のままにしておきたいんです。たとえ、戻ったからって何かが完全に解決するわけじゃなくても」


 その言葉は、第一作の終わりに湊が感じたこととも重なっていた。

 春口は、問題を解決する場所ではない。

 何度でも来ることのできる場所だ。

 戻るたびに少しずつ、自分の中の時間の置き方を変えられる場所。


 夜更け、部屋に戻ってから、湊は窓を開けた。

 港の提灯が小さく揺れ、その向こうに海の黒い面が広がっている。祭り前のざわめきはもう落ち着き、代わりに遅い列車の音が遠くで響いた。春口の夜にはいつも、海と鉄道が別々の場所から同じ静けさへ入ってくる。


 観光の季節が始まる。

 町は外へ開く。

 けれど、その明るさの底には、迎えの来ない午後や、帰れなかった時間や、待ち終えられなかった人たちの記憶が、ちゃんと沈んでいる。

 春口の魅力は、その両方を抱えたまま崩れないところにあるのかもしれなかった。


 湊はノートを開き、今日のことを書いた。


 ――春口は、外から見れば夏の港町だ。

 ――提灯が下がり、海が光り、列車が海辺を走る。

 ――だがその明るさの底に、来なかった便や、迎えの途切れた時間が残っている。

 ――きれいだからこそ、人はその中に残したものを長く忘れられない。


 書き終えて顔を上げると、窓に自分の顔が映った。

 その向こうで、提灯の赤が小さく揺れている。

 春乃もまた、こういう夜に春口を見ていたのだろうか。

 そして、祭りへ向かう町の明るさの中で、自分だけが待ち時間の途中にいることを、どう受け止めていたのだろう。


 その答えはまだ遠い。

 だが、春口の夏は確実に、次の断片をこちらへ運び始めていた。

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