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潮待ちのレール ― 夏の船着場 ―  作者: たむ


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第四章 迎えの来ない午後

 その夜、宿の居間には海の湿り気を含んだ風がゆっくり通っていた。


 障子は半分だけ開けられ、港のほうから低いエンジン音がときおり届く。客は佐和子のほかには二組だけで、食事の片づけも早く終わった。卓袱台の上には、佐和子のスケッチ帳と、今日書き留めたメモと、汐里が出した冷たい麦茶が並んでいる。昼間の暑さはまだ床の奥に残っているのに、夜の空気が少しずつそれをほどいていく感じがした。


 湊は、無人駅のベンチの下で見つけた「7・15」の数字を何度も思い返していた。

 時刻。

 約束。

 接続。

 春乃が待っていた相手が、単なる恋愛の記憶ではなく、もっと具体的な時間の中にいたことを示す断片。

 春口という町では、感情はしばしば、列車や船の時刻に変換される。

 待つことは気持ちであると同時に、便の問題でもある。

 来るはずの人が来ないということは、そのまま接続の不成立なのだ。


「姉、七時十五分の何かを待っていたんでしょうか」

 佐和子が言った。

「列車か船かは分かりませんけど」


 汐里が思い出すように天井を見た。


「春口の周辺だと、昔は夕方から夜にかけての便が今より少し多かった時期があります」

「船も?」

 湊が訊く。

「ええ。観光便じゃなくて、生活のための。島へ帰る最終が今より少し遅かったとか」

「JRの接続も変わってるかもしれないですね」

「そうですね」


 佐和子はスケッチ帳を開き、例の数字が入ったページを卓袱台の真ん中へ寄せた。

 海辺のホーム。

 白線。

 ベンチ。

 その隅に、小さく「7・15」。

 春乃は、風景と同じ面に時刻を書き込んでいる。

 それは情緒ではなく、待つ相手が現実の交通の中にいた証拠だった。


「恋人を待っていたなら、こんなふうに時刻を書きますか」

 佐和子が、半分は自分に問うように言った。


 湊は少し考えてから答えた。


「書く人もいるとは思います。でも、春乃さんの絵の残し方を見ると」

「はい」

「誰かの人柄より、来る経路のほうを先に意識している感じがします」

「経路」

「駅から来るのか、港から来るのか。何時に着くはずなのか。遅れているのか、もう無理なのか」

「……なるほど」


 佐和子はしばらく黙った。

 姉を恋愛の物語へ収めてしまえば、分かりやすくはなる。

 だが春口で見つかるものは、たいてい分かりやすさを拒む。

 人を待つことの中心にあるのは、感情だけではない。

 相手が今どこにいて、どの便に乗るはずで、どこで行き違ったのか。

 そういう具体のほうが、むしろ人を長く縛ることがある。


「春乃さん、仕事でここへ来た可能性は?」

 汐里が訊いた。

「姉は若いころ、デザイン事務所の手伝いをしていました」

 佐和子が答える。

「旅のスケッチをまとめて、雑誌の小さな特集に使うような仕事も少し」

「じゃあ、一人で旅しても不自然じゃない」

「ええ。ただ」

「ただ?」

「姉は“仕事だから”という理由で人を待つ人ではなかったと思います」


 そこに、姉を知る妹としての確信があった。

 春乃は誰かを待っていた。

 それはもう、ほとんど間違いない。

 では、その相手は誰だったのか。


 その夜、篠原へ連絡を入れることにした。

 古い時刻表や船便の記録を見れば、当時の「7時15分」に相当する列車か船が分かるかもしれない。電話をかけると、篠原は少し眠そうな声で出たが、話の内容を聞くとすぐに目が覚めたようだった。


「7時15分、ですか」

「ええ」

「年が絞れれば、かなり近づけます」

「だいたい二十数年前です」

「なら、明日の午前に旧公民館の資料を見ましょう」

「お願いします」

「こういう数字は、案外大事ですよ」

 篠原は電話の向こうで言った。

「人は感情を忘れても、便の時間だけは覚えていることがある」


 その言葉は、父のノートにも通じていた。

 風向や潮位や通過時刻。

 父もまた、感情を時刻に変換して残していたのだろう。


 翌朝、春口は少し曇っていた。

 強い晴天ではなく、海の色も白みを帯びている。こういう日のせとうちは、光がやわらかく拡散して、むしろ距離感が正確に見える。港と駅の近さ、島までの短さ、線路の細さ。そのどれもが手に届きそうで、それでいて実際には、便が一つ違えば簡単に遠のく。


 旧公民館の二階には、あいかわらず古紙と木の匂いが満ちていた。

 篠原はすでに来ていて、机の上に何冊もの時刻表と、航路の案内、地元の広報の綴じ込みを並べていた。

 その紙の山を見るだけで、春乃が待っていた「7時15分」が急に現実の重みを持ち始める。


「この年なら」

 篠原が言う。

「七時十五分に該当する可能性があるのは、二つです」

「二つ」

「一つは、春口から隣町へ向かう上りの普通列車」

「もう一つは」

「島から戻る最終便に近い小型船」


 佐和子が息を止める気配がした。

 列車か、船か。

 春乃が待っていた相手は、そのどちらかの時間にいたことになる。


「どちらだと思いますか」

 湊が訊くと、篠原はすぐには答えなかった。

 代わりに、春乃のスケッチ帳のコピーを机の上へ置く。


「この絵を見る限り」

 彼は指先で待合の柱の影をなぞった。

「港側の待合ではなく、海の見える駅のホームに近い構図です」

「ええ」

「なら列車の可能性が高い。ただし、港から駅へ来る人間を待っていたという線もあります」

「つまり」

「相手は船で来て、そのあと列車で春口へ入るはずだった、あるいは逆。せとうちでは、そういう接続は珍しくありません」


 佐和子が低く言った。


「姉が待っていたのは、人そのものというより、接続の成立だったのかもしれない」

「そうです」

 篠原が頷く。

「来る人を待つというより、“ここでちゃんと繋がるはずだった時間”を待っていた」


 その言い方に、湊は胸の奥が静かに震えるのを感じた。

 父もそうだった。

 千紘の消息そのものより、「どこで接続が切れたのか」を追い続けた。

 春乃の夏もまた、誰かとの感情より先に、つながるはずだった時間がつながらなかったところから始まっているのかもしれない。


 篠原はさらに、当時の小さな地方紙の切り抜きを見せてくれた。

 大きな事件ではない。

 沿線の保守工事による夜間列車の遅れ。

 島の小型船の機関不調。

 夏祭りによる港の混雑。

 それぞれは取るに足らない記事に見える。

 だが、せとうちのように列車と船の接続で生活や移動が成り立っている土地では、その小さな乱れが人の約束を簡単に壊す。


「この年のこの週」

 篠原がある記事を示した。

「夕方の上り普通がしばらく不規則だった形跡があります」

「7時15分は」

「定刻ではそのあたり。ただ、数日、到着が読めない日があった」

「つまり」

「来るつもりでも来られない日が十分にありえた」


 来るつもりでも、来られない。

 その言葉は、第一作で千紘をめぐって浮かび上がった感覚と重なった。

 裏切りではなく、事故でもなく、混乱や遅れや、現実の些細なずれの積み重ね。

 だからこそ人は、相手を憎み切れず、自分の待ち時間だけがいつまでも残る。


 旧公民館を出たとき、昼の曇り空の下で海は鈍く光っていた。

 港のほうから祭りの準備らしい音がしている。盆を前に、春口にも少しずつ人が増え始めていた。町は外から来る人を迎えようとしている。

 その一方で、春乃のように「迎えが来なかった人」の時間も、同じ場所に重なっている。


「姉は、もしかしたら」

 坂を下りながら佐和子が言った。

「待ち続けていたんじゃなくて、遅れ続ける接続に見切りをつけられなかっただけかもしれません」

「そうかもしれません」

 湊が答える。

「来る、来ない、ではなく、まだ決まっていない状態が一番長引くことがあります」

「終わりにできないから」

「ええ」


 汐里が前を向いたまま言う。


「春口って、そういう町なんでしょうね」

「どういう」

「来るか来ないか、帰るか帰れないか、その境目が長い町」

「……」

「海と鉄道のあいだに、決まりきらない時間が残りやすい」


 その言葉に、湊は深く頷いた。

 潮待ち浜もまた、そういう町の性質が極端な形で表れた場所だったのだろう。


 午後、三人はもう一度港の待合へ行った。

 昨日と違い、今日は雲のせいで光が少しやわらかい。待合の床の影もにじみ、柱の向こうの海は銀に近い色をしている。人はまばらで、島へ渡る老夫婦と、自転車を押した高校生が一人いるだけだった。


 佐和子はスケッチ帳を開かず、ただ待合の柱にもたれた。

 しばらく海を見ていたが、やがて小さく言う。


「姉、ここで相手を責めていたわけじゃない気がします」

「はい」

「むしろ、“どうして来ないんだろう”より、“まだ来るのだろうか”のほうに長くいた」

「その感じ、分かります」

 湊は言った。

「来ないと決めてしまえば、怒りは持てる。でも、来るかもしれない状態だと、怒りも諦めも宙に浮く」

「ええ」


 そのとき、待合の端に貼られた古い観光ポスターが風で少しめくれた。

 裏に、さらに古い紙の端が見える。

 汐里が気づいてそっと剥がしてみると、以前の船便案内の名残だった。今は使われていない便の時刻が薄く残っている。その中に、かすれた「19:15」の数字が見えた。


 佐和子が息を呑む。


「同じ……」

「昔の島便ですね」

 汐里が言う。

「今はもうないけど」


 19:15。

 春乃が書き留めた「7・15」と同じ時刻。

 列車ではなく、船便だったのか。

 あるいは、船と列車の両方にまたがる接続だったのか。


 佐和子はその数字を見つめたまま、かすかに首を振った。


「姉、船を待ってたんだ」

「かもしれません」

 湊が答える。

「でも船そのものというより、その便で来るはずの人を」

「そうですね」


 待合の外で波が小さく砕けた。

 夏の船着場は明るい。

 だが、そこに残る数字ひとつが、何年も前の誰かの待ち時間を唐突にこちらへ引き寄せる。

 春口は、そういう町だった。


 佐和子はしばらく黙っていたが、やがて言った。


「姉が待っていたのは、恋人じゃなかったかもしれない」

「ええ」

「仕事相手でも、友人でも、親類でもない気がします」

「どうして」

「“迎えに来る”って、姉にとってはたぶん、もっと曖昧な関係にしか使わない言葉だから」

「曖昧な関係」

「家族でも恋人でもないけど、その場所ではその人だけが頼りだった、みたいな」


 その表現は、春口の景色にひどく似合った。

 旅先で、あるいは移動の途中で、たまたま接続を共有した相手。

 長い関係ではない。

 それでも、その時その場所においてだけは、迎えに来ると言ったその人が世界の向こう側を繋ぐ役を負ってしまう。

 来なかったときに残るのは、恋愛の傷よりもっと説明しにくい、不成立の感覚だ。


 港の向こうに、遅い船が小さく見えた。

 定刻かどうかは分からない。

 だが、それが視界に入っただけで、待合にいる人たちの身体が自然とそちらを向く。

 待つことは、この町では長く説明抜きで共有されてきた身体の動きなのだろう。


 湊はその光景を見ながら思った。

 迎えの来ない午後は、過去の一点ではない。

 それは春口という町の中で、何度も繰り返し形を変えて現れる時間のあり方なのだ。

 第一作では千紘。

 いまは春乃。

 そしておそらく、これからも別の誰かが同じように、海と鉄道のあいだで決まりきらない時間に立ち尽くすのだろう。


 佐和子が待合の柱から背を離した。


「もう少し歩けますか」

「どこへ」

 汐里が訊く。

「姉が最後にスケッチした場所があります」

「まだあるんですか」

「あります。坂を上がって、港が見える小さな広場です」

 佐和子は少しだけためらってから続けた。

「その絵だけ、人物の影が一つもないんです」


 人物のいない最後の絵。

 それが何を意味するのか、まだ分からない。

 だがそこへ行かなければならないことだけは、三人とももう分かっていた。

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