第三章 港のスケッチ帳
春乃のスケッチ帳を持って町を歩くと、春口はふだんより少しだけ、他人の目で見える町になった。
その感覚は不思議だった。
湊はもう、この町の坂道や駅や港を初めて見る旅人ではない。赤い屋根の待合室も、駅前の小さな食堂も、オリーブの鉢の並ぶ宿の玄関も、すでに自分の記憶の中に手ざわりを持って収まっている。けれど、春乃のスケッチ帳を開き、その頁ごとの視点に身体を合わせていくと、見慣れたはずの景色が少しずつ別の角度から立ち上がってきた。
父のノートを辿ったときは、そこにあったのは時刻と風向と不在の気配だった。
春乃の絵には、もっと長く滞在する視線がある。
待つことの手前にある、目を置き続ける時間の厚みだ。
昼前の港は、夏の明るさをいっぱいに抱えていた。
待合の柱には古い傷があり、ベンチの木目は潮風で少し膨らんでいる。港の向こうでは、島へ渡る定期船が白い腹を見せて揺れ、係船柱の周りにはロープの繊維が毛羽立ったまま残っていた。春乃のスケッチ帳の中では、そうした細部のいくつかが省かれている。だが省かれているぶん、空白のほうが強く見える。待合の横の白い空間、柱の影の先の何も描かれていない場所、遠くの水面の明るすぎる余白。そのどこかに、「来るはずの人」の位置が空けられているようだった。
「姉は、ものを細かく描く人じゃなかったんです」
佐和子が言った。
「でも、いらないものを省くというより、そこに自分が見ていないものを正直に空けておく人でした」
「見ていないもの」
湊が訊く。
「見えないもの、かもしれません。相手の顔とか、自分の感情とか、そういうものを無理に埋めない」
「なるほど」
「だから、あとから見ると、かえって何を描けなかったかが分かるんです」
その言葉に、湊はスケッチ帳を見下ろした。
父のノートと似ている、と少し思った。
父は数字や地名の裏に感情を書かなかった。
春乃は余白の中に描けなかったものを残した。
方法は違っても、どちらも直接には言わないことで本質を滲ませている。
汐里が待合の柱に手を触れながら言う。
「春乃さん、このあたりに何度も来ていたんですね」
「たぶん」
佐和子が頷く。
「同じ構図が何度かあります。時間帯だけ少し違う」
「待ってたんでしょうね」
「そう思います」
風が少し強くなり、スケッチ帳のページがめくれた。
そこには港ではなく、春口の坂道を見下ろす絵があった。
石垣、路地の向こうに見える海、屋根の重なり。絵の隅にだけ、黒い背広のようなものを着た男の後ろ姿が小さく入っている。待合にいた男とは別人かもしれないし、同じ人物かもしれない。だがいずれにせよ、春乃は「誰かのいる風景」を描いていたのではなく、「誰かを待つあいだに見える風景」の中へその人を混ぜていた。
「この坂、行ってみましょうか」
汐里が言った。
「この角度、たぶん郵便局の裏の路地です」
三人で港を離れ、坂道を上る。
昼に近い光は、石垣の凹凸をくっきり浮かび上がらせていた。路地の奥からは魚を焼く匂いが流れ、どこかの家の風鈴が短く鳴っている。観光で来れば「情緒がある」と言って済ませてしまいそうな風景だ。けれど湊には、いま目に入るものの一つひとつが、暮らしの中で生きてきた時間の厚みを持っていた。石垣はただ古いのではなく、何度も積み直されてきた気配がある。家の戸は新しく見えても、土台は昔のままだ。春口では、美しさはほとんどの場合、手入れされ続けてきた結果としてそこにある。
汐里が言った通り、郵便局の裏手の坂に出ると、スケッチ帳の構図とほとんど同じ視界が開けた。
海は正面ではなく、屋根と屋根の隙間から少しだけ見える。路地の先に光が切り取られ、その光へ向かって道が降りている。ここに長く立っていれば、港から上がってくる人間も、駅へ向かう人間も目に入るだろう。
「姉、ここで待ってたのかもしれませんね」
佐和子が小さく言った。
「港だけじゃなくて」
「ええ」
湊も頷く。
「待つ相手が船で来るのか、駅から来るのか分からないなら、こういう中間の場所にいるほうが見やすい」
「中間の場所……」
佐和子はその言葉を繰り返した。
中間の場所。
春口には、そういう場所が多い。
駅でもなく港でもなく、ただそのあいだにある坂や路地や広場。
誰かが立ち止まり、先を見たり、引き返したり、もう少しだけ待とうと思ったりする場所。
潮待ち浜が象徴的だったから見えやすいだけで、この町にはたぶん、そうした「途中の空白」がいくつもある。
「姉は、どうして待ったんでしょう」
佐和子が訊いた。
「来ると信じていたから?」
「たぶんそれもあります」
湊は答える。
「でも、来ないかもしれないと思いながら待つこともあります」
「それでも?」
「ええ。来ないと確定する瞬間を見るのが怖いから」
「……」
佐和子はしばらく黙っていた。
図星だったのかもしれない。
あるいは、自分自身にも似た経験があるのかもしれない。
人は、希望だけで待つわけではない。終わりを確定したくないから待ち続けることもある。春乃がこの坂に立っていたとしたら、それは来るはずの相手を信じていたからだけではなく、「来なかった」と認める場所が見つからなかったからかもしれない。
坂をさらに上ると、小さな理髪店の前を通った。
店先に吊るされたサインポールは回っておらず、ガラス戸の向こうは薄暗い。だが店は閉まっているわけではないらしく、奥で人の動く気配がした。すると戸が開き、年配の男が顔を出した。白い半袖シャツに、細い体。髪はすっかり薄いが、目は生き生きとしていた。
「三崎さんとこのお客さん?」
男が訊く。
「ええ」
汐里が答える。
「ちょっと昔の絵を見ながら歩いてまして」
「絵?」
「このへんの」
佐和子がスケッチ帳を見せると、男は裸眼のまま顔を近づけ、じっと見た。
「おや」
短く声を漏らす。
「これ、昔ここへ来てた女の人の絵じゃないか」
佐和子の表情がはっきり変わった。
「ご存じなんですか」
「顔までは覚えちゃおらんが、スケッチしてる人は何人かいたよ。けど、こんなふうに待合とか坂ばっかり描く人は珍しかった」
「待合とか坂」
「景色そのものより、人が来るか来ないか分かる場所ばっかり選んどった」
湊は思わず男を見た。
やはり、春乃の視線はそう見えていたのだ。
「その人、誰かと一緒でしたか」
佐和子が訊く。
「最初は一人だったな。あとで、眼鏡をかけた若い男と話しとるのを一度見た」
「眼鏡」
「背は高くない。地元の人間ではなかった気がする」
春乃が待っていた相手かもしれない。
あるいは、別の誰か。
しかし重要なのは、春乃が完全な孤独の中でただ待っていたわけではなく、誰かと接触していたらしいことだった。
「何を話していたか、分かりますか」
湊が訊くと、男は首を振った。
「店の中から見えただけだからね。ただ、あの女の人は笑ってなかったな」
「……」
「怒ってるわけでもない。ただ、決められない顔をしてた」
「決められない」
「待つのをやめるかどうか、自分で決めるときの顔、ってあるだろう」
その言葉に、佐和子は小さく息を呑んだ。
待つのをやめるかどうか。
来なかった相手を責める前に、待っていた自分の時間をどう終えるかが問題になる。
春乃の夏は、まさにそこに引っかかっていたのだろう。
理髪店を離れたあと、三人はしばらく無言で坂を下った。
蝉の声が高くなり、海の白い光が路地の先で揺れている。
春口はどこまでも夏だった。
その明るさの中で、春乃の「決められない顔」だけがかえって濃く思い浮かんだ。
宿へ戻る前に、汐里が「昼を食べたあと、もう一か所だけ」と言った。
春乃のスケッチ帳の後半に、春口駅の隣町にある小さな無人駅が何度か描かれているらしい。海の見えるホームで、春乃はそこでも同じように長い空白を描いていた。
「そこ、行けますか」
佐和子が訊く。
「JRで二駅です」
汐里が答えた。
「午後の列車なら戻れます」
「行きたいです」
佐和子の返事は迷いがなかった。
昼食のあと、三人は春口駅へ向かった。
ホームには、島からの買い物帰りらしい人たちと、観光客らしい若者のグループがいた。ホームの先に見える海は、昼の照り返しで眩しく白い。列車が入ってくると、窓に空が映り、車体がゆっくりと光の中へ滑り込んだ。
車内は冷えすぎない程度に涼しく、座席の布地には夏の湿気が少し残っている。
湊は窓際に座り、外を見た。
線路は春口を離れてすぐ、海の縁をなぞるように走り始める。防波堤、倉庫、古い船具店、柑橘畑、空き家になった家の屋根。どれも見慣れつつある景色なのに、今回は春乃の視線がその上に重なっていた。彼女はこの車窓をどう見たのだろう。旅先の明るさとしてか、待っている時間の延長としてか。それとも、来ない相手を責める前の、自分を保つための風景としてか。
佐和子が静かに言った。
「姉、東京ではいつも締切に追われていました」
「絵で?」
「いえ、デザインの仕事です。商業系の。速く、分かりやすく、使いやすく、そういうものを求められて」
「……」
「その人が、春口ではこんなにゆっくり絵を描いていたのかと思うと、少し不思議なんです」
「この町では、遅いことがそのまま見えることになるのかもしれません」
湊が言う。
「待つ時間があるから」
「そうですね」
佐和子は窓の外へ目を向けた。
列車が小さなトンネルを抜け、海がぱっと開ける。
その瞬間だけ、車内の全員が少しだけ外を見る。
言葉にしないまま、その景色の明るさに身体を向ける。
せとうちでは、そういう一秒が何度もある。
降りた駅は、春口よりさらに小さかった。
ホームが短く、上屋は半分だけ。駅舎らしい建物もなく、木のベンチが一つ置かれている。その向こうにはすぐ海が見えた。
スケッチ帳の中の絵と同じだ。
春乃はここで、ベンチとホームの白線、それから海しか描いていない。人物はない。けれど、その空白の置き方だけで、ここにも誰かを待つ気配が濃く残っていた。
「姉、どうしてこんなに“人のいない待つ場所”ばかり描いたんでしょう」
佐和子が、ホームに立ったまま言った。
「来ない人を待つとき、人は人の多い場所にいられなくなることがあります」
湊は答えた。
「どうして」
「周りに、普通に待って普通に会える人が多すぎるから」
「……」
「そういう場所では、自分の待ち時間だけが異物になる」
佐和子は何も言わなかった。
だがその沈黙が、言葉をそのまま飲み込んだのだと分かった。
ベンチに座ると、海の匂いが強かった。
小さな波が岸に当たり、遠くで船のエンジンが低く唸る。駅は静かだが、完全な無音ではない。海と鉄道がそれぞれ別の場所で動き続け、その音だけがここへ届いている。
春乃はこの音を聞きながら、来ない相手のことを考えていたのだろうか。
それとも、自分がどこまで待つのかを考えていたのだろうか。
ホームの端を歩いていると、ベンチの下に何か黒い跡が見えた。
よく見ると、古いガムの跡でも焦げでもなく、鉛筆で小さく数字のようなものが書かれている。
「7・15」
それだけだった。
駅の落書きだと言ってしまえばそれまでだ。
だが春乃のスケッチ帳の一頁の隅にも、同じような数字が小さく入っていたことを湊は思い出した。
「佐和子さん」
呼ぶと、彼女が近づいてきた。
「これ」
「……あ」
彼女もすぐ気づいた。
「姉の絵の隅に、同じ数字がありました」
「時刻かもしれません」
汐里が言う。
「便の?」
「あるいは、会う約束の」
7・15。
午後七時十五分か、朝の七時十五分か。
列車か、船か。
どちらにしても、それは春乃が「待ち」を具体的な時刻として刻んでいたことを示している。
感傷だけではなく、接続の時間。
やはり春乃の夏も、せとうちの移動の時刻表の中にあったのだ。
湊はノートを取り出し、数字を書き留めた。
父のノートに続いて、自分のノートにもまた小さな断片が増えていく。
第一作では父の時間を辿るための記録だったものが、今は目の前の誰かの時間へ寄り添うための記録になり始めていた。
帰りの列車を待つあいだ、三人はホームに並んで海を見た。
言葉は少なかった。
だが沈黙が重苦しいわけではない。
同じ景色を共有している人間の沈黙だった。
やがて、遠くから列車の来る音がする。
白い車体がカーブの向こうに現れ、ホームへ近づいてくる。
佐和子はその姿を見つめながら、ふいに言った。
「姉はたぶん、相手を待っていただけじゃないですね」
「ええ」
湊が答える。
「待っているあいだの自分を、描いていたんだと思います」
「そのほうが近いかもしれません」
列車が滑り込み、扉が開く。
海の匂いをまとった風が、車内の冷気と入れ替わる。
湊はその一瞬の境目に、春口という町が持つ力をまた感じた。
ここではいつも、海と鉄道、待つことと去ること、期待と諦めが、こうして短く交差する。
佐和子の姉・春乃は、その交差の中に長く立っていたのだろう。
そしていま、自分たちはその場所を、少しずつ辿り直している。




