第二章 遺された切符
翌朝、港にはまだ昨日の夕方の光が薄く残っているような気がした。
もちろん実際には、朝の海は夜を越えてまったく別の色をしている。銀に近い青、あるいは白を多く含んだ灰色。島影も柔らかく、岸壁の影も短い。それでも湊には、佐和子が「待ち終えられなかった時間を引き取りに来た」と言ったあとの港の空気が、そのまま夜を越えて残っているように思えた。言葉には、時々、現実の景色を少しだけ変えてしまう力がある。
宿の朝食は、焼いた鯖と茄子の味噌炒め、冷やした豆腐、味噌汁だった。
汐里はいつものように手際よく配膳し、佐和子は湊より先に席へ着いていた。昨夜より少し表情が柔らかい。とはいえ、寛いでいるというより、ようやく呼吸の置き方を決めた人の顔に近かった。
「昨日はありがとうございました」
佐和子が言う。
「いえ」
「見慣れない土地で、ああいう景色を一人で見るのは少しきついですね」
「そうですね」
「特に、自分が何を探しに来たのかまだうまく言えないときは」
湊は味噌汁の湯気越しに彼女を見た。
やはり、言葉の周縁をきちんと見ている人だと思った。
探しているものの名前がまだ分からない。それでも動かずにはいられない。春口へ来る人間には、そういう段階が必ずあるのかもしれない。
汐里が茶を注ぎながら言った。
「今日、時間があれば、佐和子さんの持ってきたものをゆっくり見せてもらえませんか」
「もちろん」
佐和子は頷いた。
「切符も、半券も、スケッチ帳も、全部持ってきています」
「それを辿る感じになりそうですね」
湊が言うと、佐和子は少しだけ目を細めた。
「たぶん、そうなるんでしょうね。姉は記録魔ではなかったのに、旅先のものだけは捨てない人でした」
その言い方に、亡くなった姉への距離感が出ていた。
深く愛していたのだろう。
だが、完全には理解できないまま別れてしまった人への、少し乾いた敬意も混じっている。
湊は父に対して、自分が同じような気持ちを抱くようになっていることに気づいた。
朝食のあと、三人は居間の卓袱台を囲んだ。
窓の外では、港へ向かう軽トラックが小さく音を立てて通り過ぎる。蝉がどこかで鳴き始めたが、まだ本気の暑さではない。せとうちの朝は、夏でも立ち上がりが静かだ。
佐和子は大きめの封筒を開き、中身を丁寧に並べていった。
古い乗車券が二枚。
船の半券が三枚。
駅弁の包み紙の一部。
小さな絵葉書。
それから、使い込まれたスケッチ帳。
物の数は多くない。だが、その一つひとつに、春乃が何も語らなかった時間がひそんでいる気がした。
「まず、これです」
佐和子が乗車券を差し出した。
紙は黄ばんでいたが、文字はまだ読めた。
JR西日本の前身時代のものではなく、今と連続する比較的新しい時期の切符らしい。発駅は岡山、着駅は春口のひとつ手前の町になっている。そこから先は別の交通機関に乗り換えたのだろう。
「春口までじゃないんですね」
湊が言う。
「ええ。私もそれが気になって」
「その先は?」
「この半券です」
今度は、青い印字の船の半券だった。
春口近くの港から、さらに小さな島へ渡る便名がかすかに残っている。
「姉は、春口だけにいたわけじゃないんです」
佐和子が言う。
「最初にこの切符を見たとき、春口へ来たのだと思いました。でもそのあとで船の半券が出てきた。つまり春口は通過点だったか、あるいは戻ってくる場所だった」
戻ってくる場所。
その言い方が、この町に妙に似合っていた。
春口は港と駅の接続点であり、何かの起点であると同時に、別の場所から戻る途中にも置かれる町だ。第一作では父にとってそうだったし、佐和子の姉にとってもそうだったのかもしれない。
「スケッチ帳、見てもいいですか」
汐里が訊くと、佐和子は慎重に表紙を開いた。
最初の数ページには、岡山駅らしい大きなホームのスケッチがあった。
列車の窓、ベンチ、売店、乗り換える人の背中。
そこから先は、海が混じり始める。
橋の向こうに白く光る水面。
途中の無人駅。
坂の町。
港の屋根。
春口へ近づくにつれて、絵の余白が増えていくのが分かった。
都市の風景は輪郭をしっかり描いているのに、せとうちへ入ると線が少なくなり、光の抜けが大きくなる。春乃は目の前のものを正確に写すというより、景色が自分の中へほどけて入ってくる感じを描いていたのかもしれない。
「絵のうまい人ですね」
湊が言うと、佐和子は少し笑った。
「姉に言わせると、うまいんじゃなくて遅いんだそうです」
「遅い?」
「目で見たものをすぐに描けないから、いつも現場に長くいる必要があるって」
「でも、その遅さでしか見えないものもありそうですね」
「たぶん」
佐和子はそう言ったあと、少しだけ黙った。
遅く描く人。
長くその場にいる人。
待つことに近い制作だ、と湊は思った。
春乃もまた、待つ時間の中で風景を描いたのだろうか。
ページを繰ると、春口駅の待合室が現れた。
赤い屋根。
木の長椅子。
ガラスに映る外の光。
人物は描かれていない。だが、誰かがいた後の温度だけが残っているような絵だった。
「ここ、母の写真と同じ場所ですね」
汐里が呟いた。
「ええ」
湊も頷く。
「待合室にこだわっていたのかもしれない」
次のページには、港の待合小屋と船着場が描かれていた。
昨日見た絵より少し線が多く、柱の影が長い。隅にだけ、小さく人の後ろ姿が入っている。背の高い男。帽子はかぶっていない。体の向きは海のほうではなく、港の入口の方へ向いていた。
「この人が、迎えに来ると言った人でしょうか」
汐里が訊いた。
「分かりません」
佐和子は正直に答えた。
「でも、何度も出てきます」
そのあと何ページかにわたって、同じような男の後ろ姿が描かれていた。
駅のホームの端。
港へ下る坂道。
待合の柱の影。
いずれも顔は描かれていない。
まるで春乃は、その人物を「描こう」としたのではなく、その人を待っている視線の位置からしか世界を描けなかったかのようだった。
「姉はこの人について何も話しませんでした」
佐和子が言う。
「恋人がいたとか、瀬戸内で誰かと会ったとか、そういう話も」
「東京では?」
湊が訊く。
「ほとんどずっと一人でした。仕事も絵のことも、あまり人に見せるタイプではなくて」
「それで、この町のことも」
「ええ。母が一度だけ“昔、瀬戸内で何かあったの”と聞いたことがあるそうです。でも姉は笑ってごまかしたらしい」
笑ってごまかす。
それもまた、父や澄江の沈黙に似ていた。
人は、本当に触れられたくないことほど、重く拒絶するのではなく、軽く流してしまうことがある。
「この絵葉書も」
佐和子は次に、小さな絵葉書を広げた。
宛名面は空白。
表には、瀬戸内の多島海を上から見下ろすような写真が印刷されている。
裏の余白に、細い字でたった一行だけ。
――待つことが終わったら帰る。
湊はその文をじっと見た。
待つことが終わったら帰る。
終わる、とは何を意味するのだろう。
相手が来ることか。
来ないと知ることか。
待つ意味そのものを失うことか。
「でも、帰らなかった」
汐里が言う。
「少なくとも、その絵葉書は出されていない」
「はい」
佐和子は頷いた。
「姉は戻ってきて、そのあと普通に暮らしました。でも、その夏のことだけは、どこにも帰していない感じがあった」
普通に暮らした。
その言い方に、湊はまた父のことを重ねてしまう。
父もまた、あの八月のあとで普通に暮らした。仕事をし、家庭を持ち、息子を育てた。けれどその夏の時間だけは、どこにも帰しきれなかった。
「春乃さんは、そのあと絵を続けたんですか」
湊が訊くと、佐和子は少し笑って、それから首を振った。
「商業的には無理でした。美術系の仕事を少ししたあと、町の小さな教室で子どもに絵を教えていました」
「子どもに」
「ええ。子どもには根気よく教える人だったみたいです。私は年が離れていたので、姉を“描く人”というより“待ってくれる人”として覚えてるんです」
待ってくれる人。
その言葉は、春乃の新しい輪郭を湊の中に作った。
誰かを待っていた人が、その後は子どものそばで待つ側になった。
そこには償いのようなものもあったのかもしれない。あるいは、自分が終えられなかった時間を、別の形で手当てしていたのかもしれない。
「相沢さん」
佐和子が突然言った。
「あなたは、どうしてこの町へ戻ってきたんですか」
問いは穏やかだったが、曖昧ではなかった。
湊は少し考えた。
父のこと。
千紘のこと。
潮待ち浜。
どれも本当だ。
だが今、佐和子に向けて言うべき答えは少し違う気がした。
「前に来たときは、父の残したものに引っ張られて来ました」
「ええ」
「今回は、自分で来ると決めました」
「それは大きな違いですか」
「大きいです」
湊は答えた。
「前は謎の中へ入る感じでした。今は、戻ってこられると分かっている場所へ来た感じです」
「戻ってこられる場所……」
「春口は、そういう町になってしまったんです」
「あなたにとって」
「たぶん」
佐和子はしばらく無言でスケッチ帳の表紙を撫でた。
そして、小さく言う。
「姉にとっても、そうだったのかもしれませんね」
「春口が?」
「戻ることのできる場所、ではなくて」
「ではなくて?」
「戻りきれないまま残る場所として」
その表現は、春口の本質に近い気がした。
完全に帰ることはできない。
だが失うこともできない。
人はそういう場所を、人生にいくつか持ちながら生きるのかもしれない。
昼前、三人はスケッチ帳の順に沿って町を歩いてみることにした。
最初は春口駅の待合室。
次に港へ下る坂。
その先に古い食堂の跡地。
最後に船着場。
絵の視点を辿りながら実際の場所を歩くと、春乃がどこで立ち止まり、どこで長く人を待ったのかが少しずつ見えてくるはずだった。
夏の坂道には、もう蝉の声が満ち始めている。
石垣の上から柑橘の葉がのぞき、路地の先では海が白く光っていた。観光で訪れるなら、それだけで十分美しい町だ。
けれど美しさだけでは、人は何度もここへ戻らない。
この町には、風景の奥に人の時間を留める力がある。
父も、澄江も、春乃も、そして自分も、その力に一度足を止められたのだろう。
春口駅の待合室に入ったとき、佐和子は驚くほど長く黙っていた。
絵と現実を見比べるでもなく、ただ木の長椅子に手を触れ、窓越しの光を見ている。
やがてぽつりと言う。
「姉、この場所を“駅”として描いてないですね」
「どういう意味ですか」
汐里が訊く。
「乗るための場所、降りるための場所ではなくて」
佐和子は待合室を見回した。
「誰かが来る前と、来なかったあとのあいだを置いておく場所として描いてる気がします」
その言葉に、湊は思わず息を止めた。
潮待ち浜のことを知ってしまった自分には、その感覚がよく分かる。
待合室とは、駅の機能ではなく、途中の時間を置いておく箱なのだ。
春乃もまた、そういうふうにこの町を見ていたのかもしれない。
駅を出て坂を下る途中、佐和子は不意に足を止めた。
スケッチ帳を開き、あるページを湊に見せる。
そこには古い売店らしき小屋と、その脇に貼られた時刻表が描かれていた。
細かい字は読めないが、欄外に手書きで何か書き足されている。
「これ、前にも見覚えがある」
湊が言う。
「海沿いの駅や港では、生活者が使う時刻表に手書きの接続メモが足されることがあります」
「姉もそれを描いてる」
「気にしていたんでしょうね。待つ時間を左右するのは、風景じゃなくて接続だから」
「接続」
「列車と船の」
佐和子は少し黙り、それから言った。
「姉が待っていた相手は、恋人だったとは限らないですね」
「はい」
「“迎えに来る”って、恋愛の言葉だけじゃない」
「そうです」
「もっと生活に近い約束かもしれない」
「ええ」
それは重要な感覚だった。
春口という土地では、「迎えに来る」は感傷より先に移動の言葉だ。
船着場まで迎えに来る。
駅まで来る。
遅れた便のあとで合流する。
その実務的な約束が果たされないとき、人は感情より先に場所へ取り残される。
春乃の夏もまた、そういう現実の隙間から始まったのかもしれない。
港へ着くころには、陽射しがいっそう強くなっていた。
待合の柱の影が床へくっきり伸び、船の白い腹が眩しい。スケッチ帳の中の光景と比べると、今の港のほうが少し整って見えた。案内板のデザインも新しく、待合の屋根も塗り直されている。けれど、船を待つ人の身体の向きだけは、昔も今も変わらないように見えた。
「ここです」
佐和子がスケッチ帳の一枚を示した。
「姉がいちばん多く描いていた場所」
絵の中には、待合の柱と、海の向こうの島、それから長い空白がある。
その空白に、来るはずの誰かがいたのだろう。
湊は海を見た。
白い光の中で、遠くの船が小さく進んでいる。
夏の船着場は明るい。
だからこそ、その明るさの中で「来ない」という事実がいっそうはっきりする。
佐和子は、その場に立ったまま言った。
「姉の持ち帰れなかったものが、少しだけ分かる気がします」
「何ですか」
湊が訊く。
「来なかった人そのものじゃなくて」
「ええ」
「待っていたあいだの、自分の時間です」
その言葉は、春口の風景にひどく似合っていた。
来なかった相手より、待ってしまった自分の時間。
それこそが、後々まで人を縛るのかもしれない。
父が千紘を探したのも、澄江が駅へ行ってしまったのも、きっと同じ種類の時間のためだった。
船がひとつ、岸へ近づいてくる。
ロープを取る男の背中が、スケッチ帳の中の後ろ姿と一瞬重なった。
佐和子は目を細め、その姿を長く見ていた。
湊はその横顔を見ながら思った。
第二作の物語は、もう動き始めている。
父から受け取った「待たされた時間」の記憶が、いま目の前の女性の抱える別の不在と静かに響き合っている。
春口はまた、新しい誰かの途中の時間を受け止めようとしているのだ。




