第一章 ふたたび春口へ
東京へ戻ってから、相沢湊は何度か、通勤電車の窓に映る自分の顔が別人のように見えることがあった。
春口から帰って、もう三週間が過ぎていた。
仕事には復帰している。取引先との打ち合わせにも出たし、提案書も作った。コピーの修正も、社内会議も、メールの返信も、以前と同じようにこなしている。周囲から見れば、たぶん何も変わっていない。父の死を経て、少し長めの休暇を取り、地方へ行っていただけの人間だ。夏の終わりに向かう東京で、また同じ時間に出社し、同じように会議室でモニターを見つめている。
けれど湊自身には、何かが以前の位置へ戻りきっていないことだけが、はっきり分かっていた。
電車が駅へ滑り込むたび、人が扉の前へ集まり、開いた瞬間に一斉に流れ込んでいく。スマートフォンの画面、吊り革、広告、車内アナウンス、発車ベル。東京の鉄道は、瀬戸内で見たローカル線と同じ「列車」という名前を持ちながら、まるで別の生き物のように思えた。こちらでは人は待つために駅へ来るのではなく、待たされないために動いている。少しでも遅れないために歩き、少しでも列の前へ立つために位置を取り、少しでも乗り換えを短くするために車両を選ぶ。もちろん、それは悪いことではない。自分だってずっとその速度で暮らしてきた。けれど春口から戻ってきた身体には、その速度が以前より鋭く感じられた。
父のノートは、会社へは持っていかなかった。
自宅の机の引き出しの一番上に入れてある。けれど、見なくても中身は頭から離れない。
白い帽子の少女。
潮待ち浜。
待機継続。
迎え未確認。
亮介、港手伝いへ。
父は千紘を一度残し、その判断の軽さを一生背負った。
そして春口へ戻り続けた。
その事実は、父を「理解した」と簡単に言わせてはくれない。
むしろ逆に、理解しきれないまま引き受けるしかないものとして、湊の中に重く残っていた。
だからだろうか。東京へ戻ってからの毎日は、以前より少しだけ薄く見えた。提案書に書く言葉の一つひとつが、何かの表面だけを磨いているように感じられる瞬間が増えた。春口で見たものは、もっと説明しにくく、もっと曖昧で、それでも確かに人の中へ残るものだった。美しさを伝える言葉を書いてきたはずなのに、自分は今まで、美しいものの底に沈んでいる重さをどれだけ見ないふりしてきたのだろうと、会議室の白い壁を見ながら思うことがある。
昼休み、会社近くの喫茶店でスマートフォンを開くと、メッセージが一件届いていた。
送り主は、三崎汐里。
――今年の夏、少し町の空気が違う気がします。
短い文だった。
それだけなのに、湊の視線はしばらく画面の上に止まった。
春口を離れてから、汐里とは数回だけやり取りしていた。宿に置いてきた父のノートの件、澄江の手記の整理のこと、こちらから送った礼のこと。そのどれも簡潔な文面だったが、途切れずに続いていること自体が、湊には思っていたより大きかった。
――町の空気、ですか。
打って、少し考え、続ける。
――何かあったんですか。
返事はすぐには来なかった。
窓の外では、昼の車道をトラックが通り、歩道の影がゆっくりとずれていく。東京の八月は、瀬戸内より空が近くない。熱気はあっても、それは海の照り返しではなく、コンクリートと排気の熱だ。
五分ほどして、また画面が光った。
――まだ、はっきりしたことはありません。
――でも、去年までと違って、この夏は宿に少し不思議なお客さんが続いています。
――そのうちの一人が、相沢さんのことを少し思い出させるんです。
湊は眉を上げた。
自分を思い出させる客。
どういう意味だろう。
――どんな人ですか。
――東京の人で、誰かの遺したものを持って来ています。
――春口のことを調べているみたいです。
――でも、観光とは少し違う。
画面を見つめながら、湊は春口駅の赤い屋根の待合室を思い出していた。
父の手紙。
古い時刻表。
潮待ち浜。
自分もまた、最初はそうして町へ入っていった。
誰かの遺したものを手に、観光とは少し違う顔で。
――行ったほうがいいですか。
そう打つと、返事は少しだけ間を置いて返ってきた。
――来るかどうかは、相沢さんが決めることです。
――でも、また来ることのできる場所だと言ったのは、相沢さんでした。
喫茶店のテーブルの上に、アイスコーヒーの水滴が小さな輪を作っていた。
湊はその輪をしばらく見つめ、それからスマートフォンを伏せた。
また来ることのできる場所。
第一作の終わりに、自分は確かにそう書いた。春口は、完全に去る場所ではない。何かを失った人間が、一度では終えられない時間の続きを持って戻ってこられる場所だと。
その夜、帰宅してからしばらく迷った。
仕事の予定を確認し、来週の会議資料を開き、閉じた。
父のノートを引き出しから出し、最後のページを見返す。
――また来ることのできる場所として、この海を覚えておく。
そこに書いたのは自分だ。
ならば、その言葉に対して一度は自分で責任を取るべきだと思った。
スマートフォンを取り上げ、汐里へ送る。
――数日だけ、また春口へ行きます。
返事はすぐに来た。
――分かりました。
――部屋、空けておきます。
それだけで十分だった。
再び瀬戸内へ向かう列車の窓から見える景色は、最初に春口へ向かったときとは少し違って見えた。
岡山で新幹線を降り、在来線へ乗り換える。ホームに立つ列車の塗装、金属の匂い、発車前の静かなざわめき。前回は父の手紙に導かれるようにしてここまで来た。今回は、自分の意思で戻る。たったそれだけの違いなのに、旅の輪郭は大きく変わる。知らない場所へ向かう不安ではなく、一度触れたものへ自分から近づいていく感覚があった。
車窓に海が現れる。
島々のあいだに光が差し、岸壁のクレーンが小さく立ち、柑橘畑の緑が斜面に広がっている。せとうちの海は、相変わらず大きく開けているのにどこか内向きで、見渡せるのに見切れない。東京へ戻ってから何度も思い出した色だ。だが、思い出すのと、実際に列車の窓から見るのとではまるで違った。光の細かさも、海と陸の距離の近さも、島影が呼吸するように重なる感じも、実物は記憶よりずっと生々しい。
春口駅に着いたのは、午後のやわらかい時間だった。
ホームに降りると、潮の匂いがすぐ分かる。赤い屋根の待合室、花壇、改札脇の白い柱、そして遠くの港。何も変わっていない。だがそれは「変化がない」という意味ではなく、自分が戻ってきたことを静かに受け止める変わらなさだった。
駅舎を出ると、汐里が待っていた。
生成りのシャツに薄い青のパンツ、髪を後ろでまとめている。前に見たときと大きく変わらないのに、どこか夏の光に馴染んで見えた。湊の姿を見つけると、彼女は少しだけ笑う。
「おかえりなさい」
その言葉に、湊はわずかに息を止めた。
「……ただいま」
「今度はちゃんと言えましたね」
「たしかに」
二人は同時に少し笑った。
前回、宿へ戻ったときに思わず口をついて出た「ただいま」とは違う。今回は、帰ってきた場所に対して意識的に言えた気がした。
「暑いでしょう」
汐里が言う。
「東京も暑いですけど、こっちは光が近いですね」
「海があるから」
「それだけじゃない気もします」
「それもそうですね」
坂道を下りながら、町の様子を眺める。
前回来たときより、人通りが少し多い。観光客らしい夫婦が地図を見ていて、港のほうでは若いグループが写真を撮っている。路地の先に見える海は強く光っているのに、町の速度自体は変わっていない。せとうちの夏は、外から人を迎えても、土地の時間までは簡単に手放さないらしかった。
「空気が違う、というのは」
湊が切り出すと、汐里は少しだけ考えるように前を見た。
「観光の人が増えてるのもあるんですけど、それだけじゃなくて」
「はい」
「今年は、宿に来る人の中に“誰かを迎えに来たみたいな顔”の人が多いんです」
「迎えに」
「ええ。実際には、もう会えない人とか、昔の自分とか、そういうものかもしれないんですけど」
その言い方が、春口らしかった。
人を迎えに来る。
言葉としては単純だが、この町ではそれがそのまま海と鉄道のあいだに立つことを意味する。来るはずの便、来なかった約束、待つ場所。春口はそうした途中の時間を引き受ける町なのだ。
「その人も?」
「はい」
「東京の」
「ええ。もう三泊しています」
宿へ着くと、玄関のオリーブが前回より少しだけ伸びていた。
二階の同じ部屋に荷物を置き、窓を開ける。港の向こうに島影が重なり、小さな定期船が出る準備をしている。何もかも見覚えがあるのに、再訪の風景は初訪の風景よりも強く体へ入ってくることがある。湊はしばらく窓辺に立ち、それから階下へ降りた。
居間には、見知らぬ女性が一人いた。
四十代の前半くらい。白いシャツにグレーのスカート、肩までの髪は少し癖があり、きちんと整えているのにどこか疲れが残っている。テーブルの上にはノートと薄いスケッチ帳、それに封筒が一つ置かれていた。女性は湊の姿に気づくと、少しだけ居住まいを正した。
「こちら、名越佐和子さんです」
汐里が言う。
「今お話ししていた方」
「相沢です」
「名越です」
佐和子の声は低く、よく通った。
出版社か編集者にいそうな声だ、と湊は思った。相手に余計な警戒を与えず、それでいて曖昧にも逃げない声。こちらを一度見てから、もう一度見直すような視線に、実務の人間らしい慎重さがあった。
「三崎さんから、少しだけ伺っています」
佐和子が言う。
「あなたも……この町で、昔の記録を辿ったことがあると」
「ええ」
「観光ではなく」
「たぶん」
「そうですか」
そこまで言って、彼女はスケッチ帳に一度目を落とした。
この町に来てから何かを見つけた人間特有の、言葉を出す前にもう一度紙へ触れたくなる仕草だった。
「名越さんは」
湊が訊く。
「何を辿っているんですか」
「姉です」
彼女はあまりためらわず答えた。
「亡くなった姉の遺品の中に、この町の古い乗車券と船の半券、それからスケッチ帳がありました」
「春口の?」
「ええ。姉は若いころに一度だけ、瀬戸内を旅したことがあったらしいんです。でも、その話をほとんどしなかった」
「……」
「遺品整理をしていたら、その中に一枚だけ紙切れがあって」
佐和子は封筒を開き、中の紙を取り出した。
メモ帳の切れ端らしい小さな紙。そこに、細い字でこうあった。
――迎えに来ると言った人が、最後まで来なかった。
その一文を見た瞬間、湊は胸の奥に小さな冷えを感じた。
迎えに来ると言った人。
最後まで来なかった。
春口。
夏。
それは第一作で追った千紘の時間とは別の出来事でありながら、同じ土地の同じ潮の匂いの中にある傷の形に思えた。
「姉の名前は春乃といいます」
佐和子が言う。
「画学生で、若いころ、よく旅先でスケッチをしていました。この町を描いた絵が何枚も残っていたのに、どうしてここだったのか、誰を待っていたのか、何も書いていない」
「だから来た」
「はい」
汐里が静かに茶を出し、三人の前に湯呑みを置いた。
夕方の光が障子越しに差し込み、居間の中に柔らかな明るさを作っている。窓の向こうでは港のエンジン音が低く鳴り、少し遅れて線路のほうから列車の気配が届いた。海と鉄道が同時に存在する音だ。春口ではその重なりが自然なのに、今はそれがむしろ、誰かの約束の不在を際立たせているように聞こえた。
「姉は、誰かを待っていたんでしょうか」
佐和子が独り言のように言う。
「それとも、迎えに来ると言った人を待たされていただけだったのか」
「その違いは大きいです」
湊は思わず言った。
「待つことを自分で選んだのか、待たされていたのかで、同じ駅や港も違って見えるから」
「そうですね」
佐和子はその言葉をまっすぐ受け止めた。
それだけで、彼女が単なる感傷で春口へ来たのではないと分かった。言葉の差に意味を置く人だ。きっと東京で、紙や文章を扱う側にいたのだろう。
「相沢さん」
汐里が言う。
「今日、もしお疲れでなければ、夕方の港だけ一緒に行きませんか」
「名越さんも?」
「ええ。スケッチ帳にある一枚が、ちょうど夕方の船着場なんです」
佐和子はスケッチ帳を開いた。
鉛筆と淡い水彩で描かれた絵だった。
岸壁、待合の小屋、海の向こうの島影、そして空白の多い光。
人の姿はほとんど描かれていない。けれど、その空白の向こうに「来るはずの誰か」を待っている気配だけが残っていた。
湊はその絵を見て、ゆっくり頷いた。
「行きましょう」
「ありがとうございます」
佐和子はそう言ったが、礼を言う声の奥に少しだけ疲れがあった。
誰かの遺した不在に向き合うのは、それだけで体力を使う。
湊にも、それはよく分かった。
夕方の港は、夏らしい明るさをまだ残していた。
船着場には数人の乗客がいて、買い物帰りらしい人、島へ戻る高校生、観光客らしい男女が混じっている。待合の屋根には西日が当たり、柱の影が床に長く落ちていた。春乃のスケッチ帳の絵と、ほとんど同じ構図だった。違うのは、絵の中には描かれなかった人のざわめきと、現在の時刻表が張り替えられていることだけだ。
佐和子は待合の前で立ち止まり、スケッチ帳と現実の風景を何度も見比べた。
「姉はここにいたんですね」
「たぶん」
湊が答える。
「少なくとも、この景色を長く見た」
「待っていたんでしょうか」
「……かもしれません」
すぐにはそれ以上言えなかった。
迎えに来ると言った人が最後まで来なかった。
その一文だけで分かることは限られている。けれど春口という町で、その不在がどういう時間の形を取るかは、少しだけ想像できる。港と駅のあいだ、船と列車の接続、遅れ、途中の待機、来るはずの便。春乃の夏もまた、そうしたせとうちの移動の網の目の中でほどけたのだろう。
海の向こうに、船が一艘見えた。
白い船体が夕方の光を受けて、小さくきらめいている。
待合にいた人たちが、それぞれ自然に海のほうへ目を向けた。
待つ人の身体は、説明されなくても同じ方向を向く。
その瞬間、湊は思った。
第二作の始まりは、ここなのだと。
父の背中と千紘の白い帽子を受け取ったあとで、いま目の前にいる別の誰かの「来なかった時間」にどう向き合うのか。
春口はまた、新しい待ち時間をこちらへ差し出している。
船が岸へ近づく。
ロープを取るために男が一人前へ出る。
風が少しだけ強くなり、スケッチ帳のページが揺れた。
佐和子はそれを押さえながら、まるで自分に言い聞かせるように呟いた。
「姉が待っていたものを、私はたぶん見に来たんじゃないんです」
「では?」
湊が訊く。
「待ち終えられなかった時間を、引き取りに来たんだと思います」
港の空気が、一瞬だけ静かになった気がした。
それは、湊が春口へ最初に来たときにはまだ言えなかった言葉だった。
待っていた人ではなく、待ち終えられなかった時間。
それを引き取る。
春口は、そういう言葉にだけ静かに応える町なのかもしれない。
船が接岸し、ロープが鳴り、待合の人たちが立ち上がる。
夏の船着場に、また一つ、人の時間が出入りする。
その明るさの中で、湊は自分がふたたび、この町の物語の中へ足を踏み入れたことを知った。




