第十章 夏の船着場
祭りの最終日、春口の夕方は朝からどこか決まっていたような顔をしていた。
晴れている。
風も強すぎない。
船も列車も大きな乱れはない。
港の提灯は昼の光の下でまだ白く、その下を子どもたちが走り、大人たちは屋台の支度をしている。外から見れば、ただ穏やかな港町の夏祭りだ。だが湊には、その「何事も起きそうにない」感じそのものが、この町では時にもっとも危ういのだと分かっていた。全部が止まるほどの嵐なら、人は諦める。半端に整っている日ほど、人は少しのすれ違いを軽く見積もる。
朝食のあと、佐和子は春乃の絵葉書とスケッチ帳を前に、長く黙っていた。
昨日見つかった「来たかった人の顔だった」という一文が、彼女の中でまだ動いているのだろう。姉を責めきれず、同時にすぐには赦しきれない、その途中の表情をしていた。
湊には、その感じがよく分かった。死者を知り直すことは、理解に近づくたびに簡単な評価から離れていくことでもある。
「今日で、だいたい終わりにしたいと思います」
佐和子が、不意に言った。
「終わりに」
「ええ。解決する、とは言えないですけど」
「……」
「姉の待ち時間を、これ以上“来なかった人の物語”として持ち続けるのは違う気がするから」
「そうですね」
湊は答えた。
「来たかったけど来られなかった。しかも、それを姉自身も途中までは分かっていた」
「なら、どこかで“待つことの終わり”を引き取るしかない」
「はい」
汐里が湯呑みを置き、二人を見た。
「今夜、港へ行きましょう」
「祭りの最中に?」
佐和子が訊く。
「ええ。いちばん人が多くて、いちばん春口が“迎える場所”になる時間に」
「どうして」
「春乃さんが立っていたのは、たぶんそういう時間だからです」
「……」
「そして、“待ち終える”なら、誰もいない静かな場所より、その町の時間がちゃんと流れている中のほうがいい気がします」
その考えは、湊にもすぐ腑に落ちた。
春乃の夏は、孤独な無人の港で起きたわけではない。祭りの気配があり、港に人がいて、便が動き、接続がある、その中で起きたすれ違いだった。ならば、終え方もまた、その流れの中に置いたほうがいい。
死者の時間を扱うとき、人はつい静かな場所ばかり選びたくなる。
だが春口で起きたことは、静かな追悼だけではなく、生活のただ中の不成立だったのだ。
昼のあいだ、湊たちはそれぞれ別に動いた。
汐里は宿と祭りの手伝いを行き来し、佐和子は自室で春乃の遺品をもう一度整理していた。湊は港へ氷を運び、その帰りに春口駅まで足をのばした。
赤い屋根の待合室は、祭りの日でも変わらず静かだった。
ホームには地元の高校生と観光客が少し。
列車が来て、去る。
その何気ない往復を見ていると、春乃の「来なかった人」と、父の「一度残した時間」が、同じ町の別の層として重なって見えた。
駅で待つ人。
港で待つ人。
迎えに向かう人。
そして、場所を選び損ねる人。
春口には、そのすべてがある。
夕方、港はゆっくり明るさを増していった。
提灯に灯が入り始める。
屋台から焼き物の煙が上がる。
島へ渡る最終に近い船が岸へ寄り、そのたびに人の流れがひとつ出来る。
子どもが走り、浴衣姿の女たちが笑い、観光客らしい若者がカメラを構える。
どこを見ても祭りだ。
そしてその賑わいの下に、港という場所本来の機能――出会うはずの人を迎え、送り、待ち、見失う――がそのまま残っている。
三人は、日が完全に暮れる少し前に、港の待合小屋の脇に立った。
ここが、春乃の絵に最も多く描かれた場所だった。
待合の柱。
ベンチ。
海の向こうの島影。
7時15分の便。
港では待たないで。
先に駅へ行く。
その断片のすべてが、いま目の前の空気の中で揃っているように感じられた。
佐和子は、春乃の絵葉書の写しを一枚だけ持っていた。
本物ではない。
それでも十分だった。
彼女は待合の柱に手を触れ、それから海のほうを見た。
「姉はたぶん」
静かに言う。
「ここで、ずっと来ない人を待っていたんじゃない」
「ええ」
湊が答える。
「来たかったのに来られなかった、その不成立の時間に残っていた」
「そうだと思います」
「私、その相手を責めたかったんです」
「……」
「責めたほうが、姉のことも単純になるから。でも、そうじゃないと分かってしまった」
祭りのざわめきが、少し遠くでふくらんだ。
子どもたちの歓声がして、太鼓が一度だけ鳴る。
その賑わいは、こちらの会話を邪魔しない。
むしろ、春口という町がいつものように生きていることを示していた。
「姉が持ち帰れなかったのは」
佐和子が続ける。
「相手でも、約束でもなくて」
「待ち時間、ですか」
湊が訊く。
「ええ。ここで待って、港を見て、駅のほうも気にして、岬の停留所まで頭の中で何度も行って、それでも会えなかった、その時間」
「……」
「だから私は、姉の代わりに“相手の事情”を知ることより、その時間をどこで終えるかを考えないといけなかったんですね」
その言葉を聞いた瞬間、湊は第一作の父のノートの最後に近い一文を思い出した。
自分を責めることと、相手を忘れないことは同じではない。
春乃もまた、自分の待った時間と相手の不在を切り分けきれずにいたのだろう。
佐和子は今、その絡まりを少しずつ解こうとしている。
「名越さん」
汐里が言った。
「はい」
「姉さんの時間を持ち帰るなら、相手を赦すとか赦さないとかじゃなくて」
「ええ」
「“会えなかったままでも、その時間はあった”って認めることが大事なのかもしれません」
「……そうですね」
佐和子は絵葉書を見下ろし、それから小さく息を吐いた。
「姉は、来なかった人を待っていたんじゃない」
「はい」
「来たかった人と、会えなかった午後に立っていた」
「ええ」
「その午後を、やっと引き取れる気がします」
海から船が一艘、岸へ寄ってきた。
船体は白く、提灯の灯りを少しずつ映し始めている。
係の男がロープを取るために前へ出る。
待合にいた人たちが、自然と海のほうへ身体を向けた。
その動作を見ていると、春乃もきっと同じように、何度も身体を海へ向けたのだろうと思った。
そして、来るかもしれない相手を待ちながら、途中で駅のほうも気になり、坂道も見て、岬の停留所のことまで想像した。
待つというのは、一点を見つめ続けることではない。
むしろ、あらゆる可能性へ身体と心が引き裂かれることなのだ。
湊は、気づくと自分も港の入口のほうを見ていた。
もし相手が来るなら、あちらからかもしれない。
もし駅側へ回るなら、今ここにいないのかもしれない。
春乃の待ち時間を、ほんの一瞬だけ自分の身体でなぞってしまったのだと分かった。
「相沢さん」
佐和子が呼ぶ。
「はい」
「あなたのお父さんも、こういう感じだったんでしょうか」
「春口で待っていたとき?」
「ええ」
湊は少し考えた。
「たぶん、少し違って、でも同じです」
「どう違うんですか」
「父は“自分が残してしまった時間”の側から戻っていた。春乃さんは“会えなかった時間”の側で立っていた」
「……」
「でもどちらも、場所の選択一つ、便のずれ一つで人の時間が切れてしまう町に引っかかっていた」
佐和子は静かに頷いた。
その目に涙はなかった。
だが、泣かないことが、むしろ何かを受け取った証のように見えた。
祭りの灯りが完全に港へ満ちたころ、佐和子は絵葉書を封筒へ戻し、それを両手で包むように持った。
「姉のことを、東京へ持って帰ります」
「はい」
「春口に置いていくんじゃなくて」
「ええ」
「でも、この町のことも忘れません」
「それでいいと思います」
湊は言った。
「春口は、全部を預けて去る場所じゃない」
「そうですね」
佐和子は、ほんの少しだけ笑った。
「来たかった人のことも、来られなかったことも、姉の待った時間も、まとめて持って帰るしかない」
「ええ」
「その上で、また来るかもしれない」
「そういう場所ですから」
汐里が、静かに言った。
港のざわめきは続いていた。
屋台の灯り、子どもの声、提灯、海の匂い、船のロープの軋み、遠くの列車の短い音。
春口は今日も、迎える場所だった。
そして、迎えが成立しなかった時間さえも抱え続ける場所だった。
湊は、その場に立ちながら、自分の中で何かが静かにほどけるのを感じた。
第一作で父の時間を受け取った。
そして今、春乃の待ち時間を佐和子とともに見届けた。
自分はもう、ただ謎を解くために春口へ来る人間ではないのかもしれない。
春口を訪れる他者の“途中”に立ち会い、その時間が置き去りのままにならないよう、少しだけ一緒にいる。
それがこの町で、自分にできることの一つになり始めている気がした。
夜更け、宿へ戻ったあと、湊はノートを開いた。
ページに向かう前に、しばらく手を止めた。
今日のことは、簡単には書きたくなかった。
それでも、最後にはこう書いた。
――夏の船着場で、待ちは終わらなかった。
――終わったのは、来るか来ないかを見張り続ける時間のほうだ。
――会えなかった午後は消えない。
――だが、その午後を誰かが引き取ることで、人はようやく帰りの便を持てる。
ペンを置く。
窓の外では、祭りの最後の灯りが少しずつ消え始めていた。
港のざわめきも、やがて一日の底へ沈んでいく。
春乃の夏は、完全に終わるわけではない。
けれど今夜、少なくとも「来なかった人」のまま固定されることはなくなった。
それだけでも、春口へ来た意味は十分にあった。




