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潮待ちのレール ― 夏の船着場 ―  作者: たむ


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10/12

第十章 夏の船着場

 祭りの最終日、春口の夕方は朝からどこか決まっていたような顔をしていた。


 晴れている。

 風も強すぎない。

 船も列車も大きな乱れはない。

 港の提灯は昼の光の下でまだ白く、その下を子どもたちが走り、大人たちは屋台の支度をしている。外から見れば、ただ穏やかな港町の夏祭りだ。だが湊には、その「何事も起きそうにない」感じそのものが、この町では時にもっとも危ういのだと分かっていた。全部が止まるほどの嵐なら、人は諦める。半端に整っている日ほど、人は少しのすれ違いを軽く見積もる。


 朝食のあと、佐和子は春乃の絵葉書とスケッチ帳を前に、長く黙っていた。

 昨日見つかった「来たかった人の顔だった」という一文が、彼女の中でまだ動いているのだろう。姉を責めきれず、同時にすぐには赦しきれない、その途中の表情をしていた。

 湊には、その感じがよく分かった。死者を知り直すことは、理解に近づくたびに簡単な評価から離れていくことでもある。


「今日で、だいたい終わりにしたいと思います」

 佐和子が、不意に言った。

「終わりに」

「ええ。解決する、とは言えないですけど」

「……」

「姉の待ち時間を、これ以上“来なかった人の物語”として持ち続けるのは違う気がするから」

「そうですね」

 湊は答えた。

「来たかったけど来られなかった。しかも、それを姉自身も途中までは分かっていた」

「なら、どこかで“待つことの終わり”を引き取るしかない」

「はい」


 汐里が湯呑みを置き、二人を見た。


「今夜、港へ行きましょう」

「祭りの最中に?」

 佐和子が訊く。

「ええ。いちばん人が多くて、いちばん春口が“迎える場所”になる時間に」

「どうして」

「春乃さんが立っていたのは、たぶんそういう時間だからです」

「……」

「そして、“待ち終える”なら、誰もいない静かな場所より、その町の時間がちゃんと流れている中のほうがいい気がします」


 その考えは、湊にもすぐ腑に落ちた。

 春乃の夏は、孤独な無人の港で起きたわけではない。祭りの気配があり、港に人がいて、便が動き、接続がある、その中で起きたすれ違いだった。ならば、終え方もまた、その流れの中に置いたほうがいい。

 死者の時間を扱うとき、人はつい静かな場所ばかり選びたくなる。

 だが春口で起きたことは、静かな追悼だけではなく、生活のただ中の不成立だったのだ。


 昼のあいだ、湊たちはそれぞれ別に動いた。

 汐里は宿と祭りの手伝いを行き来し、佐和子は自室で春乃の遺品をもう一度整理していた。湊は港へ氷を運び、その帰りに春口駅まで足をのばした。

 赤い屋根の待合室は、祭りの日でも変わらず静かだった。

 ホームには地元の高校生と観光客が少し。

 列車が来て、去る。

 その何気ない往復を見ていると、春乃の「来なかった人」と、父の「一度残した時間」が、同じ町の別の層として重なって見えた。


 駅で待つ人。

 港で待つ人。

 迎えに向かう人。

 そして、場所を選び損ねる人。

 春口には、そのすべてがある。


 夕方、港はゆっくり明るさを増していった。

 提灯に灯が入り始める。

 屋台から焼き物の煙が上がる。

 島へ渡る最終に近い船が岸へ寄り、そのたびに人の流れがひとつ出来る。

 子どもが走り、浴衣姿の女たちが笑い、観光客らしい若者がカメラを構える。

 どこを見ても祭りだ。

 そしてその賑わいの下に、港という場所本来の機能――出会うはずの人を迎え、送り、待ち、見失う――がそのまま残っている。


 三人は、日が完全に暮れる少し前に、港の待合小屋の脇に立った。

 ここが、春乃の絵に最も多く描かれた場所だった。

 待合の柱。

 ベンチ。

 海の向こうの島影。

 7時15分の便。

 港では待たないで。

 先に駅へ行く。

 その断片のすべてが、いま目の前の空気の中で揃っているように感じられた。


 佐和子は、春乃の絵葉書の写しを一枚だけ持っていた。

 本物ではない。

 それでも十分だった。

 彼女は待合の柱に手を触れ、それから海のほうを見た。


「姉はたぶん」

 静かに言う。

「ここで、ずっと来ない人を待っていたんじゃない」

「ええ」

 湊が答える。

「来たかったのに来られなかった、その不成立の時間に残っていた」

「そうだと思います」

「私、その相手を責めたかったんです」

「……」

「責めたほうが、姉のことも単純になるから。でも、そうじゃないと分かってしまった」


 祭りのざわめきが、少し遠くでふくらんだ。

 子どもたちの歓声がして、太鼓が一度だけ鳴る。

 その賑わいは、こちらの会話を邪魔しない。

 むしろ、春口という町がいつものように生きていることを示していた。


「姉が持ち帰れなかったのは」

 佐和子が続ける。

「相手でも、約束でもなくて」

「待ち時間、ですか」

 湊が訊く。

「ええ。ここで待って、港を見て、駅のほうも気にして、岬の停留所まで頭の中で何度も行って、それでも会えなかった、その時間」

「……」

「だから私は、姉の代わりに“相手の事情”を知ることより、その時間をどこで終えるかを考えないといけなかったんですね」


 その言葉を聞いた瞬間、湊は第一作の父のノートの最後に近い一文を思い出した。

 自分を責めることと、相手を忘れないことは同じではない。

 春乃もまた、自分の待った時間と相手の不在を切り分けきれずにいたのだろう。

 佐和子は今、その絡まりを少しずつ解こうとしている。


「名越さん」

 汐里が言った。

「はい」

「姉さんの時間を持ち帰るなら、相手を赦すとか赦さないとかじゃなくて」

「ええ」

「“会えなかったままでも、その時間はあった”って認めることが大事なのかもしれません」

「……そうですね」


 佐和子は絵葉書を見下ろし、それから小さく息を吐いた。


「姉は、来なかった人を待っていたんじゃない」

「はい」

「来たかった人と、会えなかった午後に立っていた」

「ええ」

「その午後を、やっと引き取れる気がします」


 海から船が一艘、岸へ寄ってきた。

 船体は白く、提灯の灯りを少しずつ映し始めている。

 係の男がロープを取るために前へ出る。

 待合にいた人たちが、自然と海のほうへ身体を向けた。

 その動作を見ていると、春乃もきっと同じように、何度も身体を海へ向けたのだろうと思った。

 そして、来るかもしれない相手を待ちながら、途中で駅のほうも気になり、坂道も見て、岬の停留所のことまで想像した。

 待つというのは、一点を見つめ続けることではない。

 むしろ、あらゆる可能性へ身体と心が引き裂かれることなのだ。


 湊は、気づくと自分も港の入口のほうを見ていた。

 もし相手が来るなら、あちらからかもしれない。

 もし駅側へ回るなら、今ここにいないのかもしれない。

 春乃の待ち時間を、ほんの一瞬だけ自分の身体でなぞってしまったのだと分かった。


「相沢さん」

 佐和子が呼ぶ。

「はい」

「あなたのお父さんも、こういう感じだったんでしょうか」

「春口で待っていたとき?」

「ええ」

 湊は少し考えた。

「たぶん、少し違って、でも同じです」

「どう違うんですか」

「父は“自分が残してしまった時間”の側から戻っていた。春乃さんは“会えなかった時間”の側で立っていた」

「……」

「でもどちらも、場所の選択一つ、便のずれ一つで人の時間が切れてしまう町に引っかかっていた」


 佐和子は静かに頷いた。

 その目に涙はなかった。

 だが、泣かないことが、むしろ何かを受け取った証のように見えた。


 祭りの灯りが完全に港へ満ちたころ、佐和子は絵葉書を封筒へ戻し、それを両手で包むように持った。


「姉のことを、東京へ持って帰ります」

「はい」

「春口に置いていくんじゃなくて」

「ええ」

「でも、この町のことも忘れません」

「それでいいと思います」

 湊は言った。

「春口は、全部を預けて去る場所じゃない」

「そうですね」

 佐和子は、ほんの少しだけ笑った。

「来たかった人のことも、来られなかったことも、姉の待った時間も、まとめて持って帰るしかない」

「ええ」

「その上で、また来るかもしれない」

「そういう場所ですから」

 汐里が、静かに言った。


 港のざわめきは続いていた。

 屋台の灯り、子どもの声、提灯、海の匂い、船のロープの軋み、遠くの列車の短い音。

 春口は今日も、迎える場所だった。

 そして、迎えが成立しなかった時間さえも抱え続ける場所だった。


 湊は、その場に立ちながら、自分の中で何かが静かにほどけるのを感じた。

 第一作で父の時間を受け取った。

 そして今、春乃の待ち時間を佐和子とともに見届けた。

 自分はもう、ただ謎を解くために春口へ来る人間ではないのかもしれない。

 春口を訪れる他者の“途中”に立ち会い、その時間が置き去りのままにならないよう、少しだけ一緒にいる。

 それがこの町で、自分にできることの一つになり始めている気がした。


 夜更け、宿へ戻ったあと、湊はノートを開いた。

 ページに向かう前に、しばらく手を止めた。

 今日のことは、簡単には書きたくなかった。

 それでも、最後にはこう書いた。


 ――夏の船着場で、待ちは終わらなかった。

 ――終わったのは、来るか来ないかを見張り続ける時間のほうだ。

 ――会えなかった午後は消えない。

 ――だが、その午後を誰かが引き取ることで、人はようやく帰りの便を持てる。


 ペンを置く。

 窓の外では、祭りの最後の灯りが少しずつ消え始めていた。

 港のざわめきも、やがて一日の底へ沈んでいく。

 春乃の夏は、完全に終わるわけではない。

 けれど今夜、少なくとも「来なかった人」のまま固定されることはなくなった。

 それだけでも、春口へ来た意味は十分にあった。

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