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潮待ちのレール ― 夏の船着場 ―  作者: たむ


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第十一章 帰りの便

 祭りが終わった翌朝、春口は少しだけ静かすぎる町になっていた。


 港の提灯は半分ほど外され、岸壁には昨夜の名残が薄く残っている。焼き物の匂いも、人の熱も、朝の海の白い光の中ではもう輪郭を失っていた。祭りのあとというのは、いつも少し不思議だ。賑わいが消えることで寂しくなるのではなく、町の本来の静けさが戻ってきたことに、かえって驚く。春口もまた、昨日まで外へ向けて少しだけ開いていた顔を、もう元の位置へ戻し始めているようだった。


 宿の朝食は、いつもよりさらに簡素だった。

 汐里が「祭り明けはみんなこうです」と言って、焼き鮭と味噌汁と、冷やした胡瓜の浅漬けを並べる。身体が疲れているときほど、余計な華やかさのないものが食べやすい。

 佐和子は食卓に着いてからしばらく、港のほうを見ていた。

 昨夜、夏の船着場で春乃の時間を引き取ると口にしてから、彼女の表情は静かだった。何かが片づいた顔ではない。けれど、何を持ち帰るのかがようやく定まった人の顔ではあった。


「今日の便で帰ります」

 食後の茶を飲みながら、佐和子が言った。

「夕方の?」

 汐里が訊く。

「いえ、昼過ぎの列車で。東京へ戻って、そのまま月曜から仕事です」

「急に現実ですね」

 湊が言うと、佐和子は少し笑った。

「こういうのは、案外そのほうがいいんです。間に変に休みを挟むと、逆に戻れなくなる」

「戻る、という感じですか」

「たぶん。でも、前と同じ場所じゃないですね」

「ええ」


 その会話は短かったが、十分だった。

 死者の時間を受け取って旅先から帰る人間に、劇的な慰めは似合わない。帰る便があり、戻る仕事があり、その現実のほうへ再び身体を差し出すしかない。

 春口はそういう町なのだろう。癒して終わるのではなく、抱えたものを抱えたまま戻るための姿勢を少しだけ整える町。


 午前中、佐和子は自室で荷物をまとめた。

 春乃のスケッチ帳、絵葉書、半券、写しを取ったメモ。持ってきたものは大半がそのまま戻る。けれど中身は、もう来たときと同じではない。

 湊はそのあいだ、宿の玄関を掃き、港のほうへ出る買い物を手伝った。

 汐里は普段と変わらない手つきで台所に立っていたが、ときおり手を止めて海のほうを見る。誰かを見送る前の町では、残る側もまた、少しだけ時間の速度を変えるのだと分かった。


 昼前、佐和子が荷物を持って階下へ降りてきた。

 白いシャツに濃紺のスカート。最初に春口へ来た日の緊張した雰囲気より、ずっと落ち着いて見える。それでも旅の終わりの顔ではあった。

 汐里が昼用に握った小さなおにぎりを紙に包んで渡すと、佐和子は「ありがとうございます」と言って、それを驚くほど丁寧に受け取った。


「相沢さん」

 佐和子が靴を履きながら言う。

「はい」

「一つだけ、聞いてもいいですか」

「ええ」

「あなたは、また春口へ来るんですか」

 問いは、思っていたよりまっすぐだった。


 湊は少し考えた。

 来るだろう。

 それは、もうかなり自然に思えた。

 第一作の終わりに、自分はそう書いた。春口はまた来ることのできる場所だと。

 今はその感覚が、以前よりさらに具体的になっている。


「たぶん」

 湊は答えた。

「仕事がどうなるかにもよりますけど、来ると思います」

「父親のことで?」

「それもゼロじゃないです。でも」

「でも?」

「もうそれだけではない気がします」


 佐和子は小さく頷いた。

 それ以上説明を求めないところが、この数日のあいだに春口で少し変わった彼女らしかった。


「それなら、よかった」

 彼女は言った。

「どうして」

「この町に、一度だけ来て終わる人と、そうじゃない人がいる気がするから」


 その言葉は、春口の本質に近かった。

 一度だけの旅で済む場所ではない。

 何かを置いていってしまった人間、あるいは何かを受け取ってしまった人間には、どうしても“次”が生まれる。

 それが観光とは違う、この町との関わり方なのだろう。


 春口駅までの坂を、三人で下った。

 昼の光は強いが、祭りのあとで町はどこか疲れている。商店の前で椅子に座っている老人、シャッターを半分下ろしたままの店、昨夜の飾りをまだ片づけきれていない軒先。賑わいのあとには、いつも少しだけ生の暮らしが濃く見える。

 港の向こうの海は変わらず明るかった。

 それだけに、見送りの足取りは必要以上に感傷へ傾かずに済む。


 春口駅のホームには、人が少なかった。

 観光客らしい二人連れがベンチに座り、地元の高校生がホームの端でスマートフォンを見ている。赤い屋根の待合室はいつも通り静かで、古い時刻表の額も変わらない顔をしていた。

 佐和子は改札を抜ける前に、一度だけ待合室のほうを見た。


「ここも、少し持って帰ります」

 彼女が言う。

「春乃さんと一緒に?」

「ええ」

「それがいいと思います」

 汐里が答えた。

「全部をこの町に置いていかなくていいから」


 佐和子はその言葉に、ほんの少しだけ目を伏せた。

 きっと、それが今回もっとも必要だった言葉なのだろう。

 旅先の悲しみをその土地に置いて帰ることは簡単に見える。だが実際には、人は持ち帰るべきものを持ち帰らなければならない。でなければ、また別の形でどこかに置き去りが生まれる。


 列車が近づく気配がした。

 レールが細く震え、ホームの空気が少し変わる。

 春口では、列車が来る前にまず音と振動が町へ届く。

 その順序が、湊は以前より好きになっていた。姿が見える前に接近を知るというのは、待つ人間にとって小さな救いだからだ。


 車体がホームへ滑り込む。

 扉が開き、冷えた空気が少しだけ流れ出る。

 佐和子は振り返り、二人に頭を下げた。


「ありがとうございました」

「こちらこそ」

 汐里が言う。

「無事に帰ってください」

「ええ」

「また」

 湊が口にすると、佐和子は少し驚いたように、それから笑った。

「また、かもしれませんね」


 その言い方が、春口にはよく似合っていた。

 必ず来るとは約束しない。

 だが、来ないと決めもしない。

 人と場所の関係は、そのくらいのゆるさで続くほうが本当なのかもしれない。


 列車が動き出し、佐和子の姿が窓の向こうへ流れていく。

 ホームの上に残された二人は、その車体がカーブの向こうへ消えるまで見送った。

 見えなくなってもしばらく、レールの音だけが細く残る。

 それが消えるころになって、ようやく見送りという行為は終わる。


「帰りましたね」

 汐里が言う。

「ええ」

「姉さんの時間、少し持って」

「そうですね」


 二人はしばらく、ホームに立ったままだった。

 赤い屋根の待合室の影が、少しずつ位置を変えている。港のほうから、昼の船の音が遅れて聞こえた。

 春口では、列車で去る人を見送っていても、海の気配が同時に残る。

 それがこの町の不思議なところだった。

 一つの別れが、別の移動の気配と重なる。

 去ったはずの時間が、完全な空白にはならない。


 駅を出たあと、汐里が「少しだけ港へ」と言った。

 祭りのあとの岸壁は、もうほとんど元の顔へ戻っていた。提灯は外され、屋台の痕跡も少ない。けれど、灯りのあった場所にだけ、なぜか空気の名残が残っている。昨夜ここで佐和子が絵葉書を握りしめ、春乃の時間を引き取ると言ったことも、その“空気の名残”の一部のように思えた。


「終わりましたかね」

 汐里が言う。

「何がですか」

「春乃さんの夏」

 湊は少し考えた。


「終わった、というより」

「ええ」

「東京へ戻っていける形になったんじゃないでしょうか」

「それ、いい言い方ですね」

「本当かどうかは分かりませんけど」

「でも、春口ってたぶんそういう町ですよね」

 汐里は海を見たまま続ける。

「全部をここで終わらせるんじゃなくて、戻っていける形に少しだけ整える町」


 湊は静かに頷いた。

 父にとっても、おそらくそうだったのだろう。

 完全に終わらせることはできなかった。

 だが戻るたびに、少しだけ違う角度で自分の持つ時間を見直し、次の生活へ持ち帰る形を探していた。

 佐和子もまた、そうして帰っていったのだ。


 午後、宿へ戻ると、そこはもういつもの春口の宿だった。

 新しい予約の電話が入り、荷物を預かりに来た客がいて、汐里は帳場で宿帳を開いている。

 佐和子のいた部屋には、風だけが通っていた。

 人が去ったあとの部屋というのは、なぜか少しだけその人の思考の残り香を持つ。けれどその香りも、窓を開けて海風を通せばほどなく消えていく。

 それは喪失というより、持ち帰られるべきものがちゃんと外へ出ていった証のように思えた。


 夕方前、湊は一人で部屋に戻り、父のノートを開いた。

 第一作の終わりから何度も読み返しているはずなのに、今日はページの重さが少し違って感じられる。

 父は自分の夏を背負い続けた。

 そして今、湊は別の誰かの夏を春口で見送った。

 そのことで初めて、父がなぜ何度も戻らずにいられなかったのかを、理屈ではなく少しだけ身体で理解した気がした。


 ノートの余白に、湊は書いた。


 ――見送ることは、終わりを確定することではない。

 ――その人が抱えて戻る時間を、こちらも知っているということだ。

 ――春口は、別れのあとに完全な空白を残さない。


 書き終えると、遠くから港の汽笛が短く鳴った。

 それに重なるように、レールの音がごく薄く届く。

 海と鉄道。

 春口では、その二つがいつも同時に「帰りの便」の気配を運んでくる。

 そして人は、そのどちらに乗るときも、何かを少しだけ持ち帰る。


 夕食のあと、縁側で汐里と茶を飲んだ。

 祭りの終わった町は静かだが、静まり返ってはいない。港ではまだ片づけが続いているらしく、時々遠くで金属の当たる音がする。


「相沢さん」

 汐里が言った。

「はい」

「前より、この町で人を見送ることに慣れましたね」

「そうでしょうか」

「ええ。最初は、自分のことでいっぱいだったから」

「今もいっぱいですよ」

「でも、少しだけ外を見られるようになった」

「……」

「それ、いい変化だと思います」


 湊はすぐには返事をしなかった。

 だが、その言葉はうれしかった。

 父の背中と千紘の白い帽子ばかりを見つめていた自分が、いま目の前の他人の時間に少しだけ寄り添えるようになっているのだとしたら、それは春口が自分にくれたものの一つなのだろう。


 夜が更けるころ、港の音もほとんど消えた。

 春口はまた、本来の静けさへ戻っていく。

 だが湊には、その静けさが以前より少しだけ厚く感じられた。

 この町は今日も、誰かの帰りの便を送り出した。

 そしてまた別の誰かを迎える準備を、もう静かに始めているのだ。

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