第9話:神より大切なもの
神殿の騒動から数日後。
王都は未だ混乱の中にあった。
神殿による虚偽。
神子への監禁。
“恋愛禁止”という教義が偽りだったこと。
長年絶対とされてきたものが崩れ、人々は戸惑い、貴族たちは慌ただしく動いている。
そしてその中心にいるのが、リュシエンヌだった。
◇
「……また眠っていませんね」
夜。
王城の一室。
窓辺に立っていたリュシエンヌへ、ルヴァルトが静かに声を掛けた。
神殿を出た彼女は現在、公爵家の保護下に置かれている。
最初は王城側も難色を示したが、ルヴァルトがほぼ脅しに近い勢いで押し切った。
『今さら神殿へ戻せと?』
『正気ですか?』
あの時の騎士団長の胃痛は相当だったらしい。
「……考え事をしていました」
リュシエンヌは小さく微笑む。
だがその笑みを見て、ルヴァルトは眉を寄せた。
「また無理してる」
「していません」
「しますね、その顔は」
即答される。
最近、本当に誤魔化せない。
彼はリュシエンヌの小さな変化を、すぐ見抜いてしまう。
「……怖いんです」
ぽつりと零れた声に、ルヴァルトは静かに近付いてきた。
「何が」
「もし……今は加護が残っていても」
胸元をぎゅっと掴む。
「後から、何か起きたらどうしようって」
王都に災厄が起きたら。
魔物が暴走したら。
誰かが傷付いたら。
きっと人々は言う。
“神子が恋をしたからだ”と。
「私があなたを選んだせいで、国に何かあったら……」
最後まで言えなかった。
怖かった。
幸せになりたいと思ってしまった自分が。
ルヴァルトはしばらく黙っていた。
やがて彼は、静かにリュシエンヌの前へ片膝をつく。
「顔を上げてください」
優しい声だった。
促されるまま視線を向ける。
灰青の瞳が真っ直ぐ彼女を映していた。
「もし何か起きたとして」
彼はゆっくり言う。
「それが、貴女が恋をしたせいだと、誰が決めるんです」
「……でも」
「人は、都合よく理由を探します」
静かな声音。
「不安だから。怖いから。誰かのせいにしたくなる」
その通りだった。
「けど、だからって」
ルヴァルトの手が、そっと彼女の頬へ触れる。
「貴女が幸せを諦める理由にはならない」
涙が滲む。
「リュシエンヌ」
名前を呼ばれる。
何度呼ばれても、胸が熱くなる。
「貴女は、十分苦しんだ」
その一言で、張り詰めていたものが揺らぐ。
「これ以上、自分を罰しないでください」
「……っ」
「俺は、貴女に笑っていてほしい」
優しくて、苦しい。
こんなにも大切にされることが、まだ少し怖い。
「……あなたは、ずるいです」
「よく言われます」
「絶対わかって言ってますよね」
「ええ」
即答だった。
思わず涙混じりに笑ってしまう。
するとルヴァルトは、少しだけ安堵したように目を細めた。
「その顔です」
「え?」
「やっと自然に笑った」
胸が跳ねる。
彼は本当に、ずっと見ている。
リュシエンヌのことを。
神子ではなく、一人の女性として。
◇
その翌日だった。
王都全域へ、突如として神聖力の波が広がったのは。
淡い金色の光が空を覆い、人々がざわめく。
「なんだ……!?」
「奇跡だ……!」
王宮も騎士団も騒然となった。
だがリュシエンヌは、その力の正体を理解していた。
苦しくない。
むしろ、今までで一番自然だった。
まるで長年閉じ込められていた力が、ようやく自由に呼吸しているみたいに。
「神子様!」
駆け込んできた神官が、震える声で叫ぶ。
「浄化の力が……以前より強くなっています!」
室内が静まり返る。
誰もが理解した。
“恋をすると加護が失われる”という教義は、完全に嘘だったのだと。
リュシエンヌはゆっくり目を閉じた。
温かな光が身体を包む。
その優しさは、どこか祝福みたいだった。
「……神様」
小さく呟く。
もし本当に神がいるのなら。
きっと。
人を幸せから遠ざける存在では、なかったのだ。
◇
「つまり」
夜。
公爵家の庭園で、ルヴァルトが腕を組む。
「神にも認められたわけですね、俺たち」
「そういう言い方をしないでください……」
「事実でしょう」
否定できないのが悔しい。
リュシエンヌが視線を逸らすと、ルヴァルトはふっと笑った。
「これで、もう逃げられませんね」
「逃げませんよ……」
小さく返した瞬間。
彼がぴたりと動きを止めた。
「……今、なんて?」
「え」
「もう一回」
妙に真剣な顔をしている。
リュシエンヌは恥ずかしくなって俯いた。
「だから……逃げません、って」
次の瞬間。
ぎゅっ、と強く抱き締められる。
「ル、ルヴァルト!?」
「無理です、嬉しい」
声が完全に隠せていない。
珍しく余裕が崩れている。
「ちょ、ちょっと苦し……」
「すみません。今かなり限界です」
「何の限界なんですか……!」
「理性の」
即答だった。
リュシエンヌは真っ赤になる。
そんな彼女を抱き締めたまま、ルヴァルトは低く囁いた。
「もう二度と離しません」
その言葉に、不思議と恐怖はなかった。
ただ胸が、幸せでいっぱいになっていく。
ようやく。
ようやくリュシエンヌは、“愛されること”を信じ始めていた。




