第5話 勇者を辞める日
「追加検査は、ただ今をもって打ち切る」
アルドが掲げた軍令書に、赤い王国印が押されていた。
「軍令第十四号。回収した聖剣と聖弓、検査記録――そして、ルノア・フェルトの身柄を引き渡せ」
残り一日。
その時間が、赤い印に押し潰された。
アルドの背後で、回収隊員が腰から拘束縄を外す。
ざらり、と縄が石畳を擦った。
地下牢の湿った臭いが蘇る。
ルノアは一歩前へ出た。
「……分かりました。私が戻れば――」
「待て、ルノア」
肩を掴まれた。
アレンが、ルノアと拘束縄の間へ立つ。
「アルド。ルノアと証拠を渡せば、九十七点を止めるのか?」
返事はなかった。
朝もやの向こうで、回収隊の槍先だけが鈍く光っている。
「答えろ」
アルドが軍令書を握り締めた。
「……止めない」
ルノアの呼吸が止まった。
「代わりの武器は五日では揃わない。九十七人を丸腰にはできない。出陣式は予定どおり行う」
「欠陥があると知っていながら、使わせるのか」
「何も持たずに戦場へ出せば、全員死ぬ」
「所持者には知らせるのか?」
アルドの口が閉じた。
アレンは待った。
誰も動かない。
風に煽られた軍令書が、アルドの手元で乾いた音を立てる。
「……知らせない」
その一言が、石畳へ落ちた。
「今ここで聖武具への信頼が崩れれば、百勇部隊は瓦解する。大侵攻を前に、それだけは避けなければならない」
「折れるかもしれないと知らずに戦わせる。それがお前の守り方か」
「ほかに何がある!」
アルドの声が初めて揺れた。
「五日だぞ、アレン! 五日で九十七人分の代替武器を用意できるのか! 聖武具を奪われた勇者たちを率いて、押し寄せる魔獣を止められるのか!」
アレンは答えなかった。
アルドが声を落とす。
「お前まで罪人になる必要はない」
一歩、アレンへ近づく。
「ルノアと証拠を渡せ。そうすれば命令違反は不問にする。王都へ戻れ。お前には、百勇部隊を率いる責任がある」
ルノアはアレンの外套を見た。
泥に汚れてもなお白い、勇者の証。
ここで自分を渡せば、アレンは戻れる。
「アレン、私は――」
カチリ。
銀の留め金が外れた。
純白の外套が、アレンの肩から滑り落ちる。
「……何をしている」
アルドの声が低くなる。
アレンは胸元へ手を伸ばし、黄金の勇者章を外した。
「やめてください」
ルノアは反射的に腕を伸ばした。
「私のために、そこまで――」
「あなた一人のためじゃない」
アレンは、ルノアを見なかった。
視線はアルドへ向けたままだ。
「何も知らされず、欠陥武器を持たされる九十七人のためだ」
純白の外套を足元へ置く。
アルドの顔がこわばった。
「章を外せば、もう戻れないぞ」
「ああ」
「それは、勇者を辞めるということだ」
アレンは勇者章を、アルドの前の石畳へ置いた。
「今日、勇者を辞める」
コトン。
聖剣が折れた時より、ずっと小さな音だった。
それなのに、その音はルノアの胸の奥へ深く刺さった。
「危険を知りながら黙るために戻るなら、勇者の名など必要ない」
アルドの手が剣の柄へ伸びた。
「命令拒否だ。アレンも拘束する!」
回収隊員たちが一斉に踏み出す。
槍先が下がった。
アレンの手も、腰の制式剣へ動く。
抜けば、戦いになる。
ルノアは咄嗟にアレンの袖を掴んだ。
「待たれよ、回収隊長!」
砦の隊長が二人の前へ割って入った。
「証拠品を目録と照合せずに渡せば、今度は私が軍規違反に問われる。受領書もない引き渡しは認めん!」
「退け! 王命だぞ!」
「軍令のどこに、正規手続きを省略してよいと書かれている!」
砦の隊長が大声を張り上げる。
「書記官! 受領書を持ってこい! 兵站係は証拠品目録を確認! ロット刻印を一点ずつ照合しろ!」
「は、はい!」
砦の兵士たちが一斉に動いた。
書類を抱えた書記官が駆け込み、木箱を運ぶ兵士がアルドたちの前を横切る。
「この期に及んで時間稼ぎか!」
「軍規の厳格な適用だ!」
「ルノア!」
手首を掴まれた。
ミラだった。
「こっち!」
物陰へ引き込まれる。
ルノアが振り返ると、アレンもすぐ後ろへ続いていた。
「待て!」
アルドの怒声が追ってくる。
二人は兵舎の裏を駆け抜け、裏厩舎へ飛び込んだ。
そこでは砦の兵士たちが、荷馬の左右へ二つの木箱を縛りつけていた。
一つは、ギルバートから回収した聖剣。
もう一つは、赤札の貼られたミラの聖弓。
鞍袋へ検査記録が押し込まれる。
「乗って!」
ミラが一本の書類筒を荷馬の鞍袋へ差し込んだ。
「砦に届いていた一斉召集令の写しよ。E-731の所持者全員に、同じ命令が出ている」
「ミラ、あなたまで処分されます」
「今さらよ」
ミラはルノアの背を、馬の方へ押した。
「あなたは、外したのは私じゃないって証明してくれた」
裏門の方角から、鎧の音が迫ってくる。
「その借りを返すだけよ。行って!」
ルノアとアレンは、それぞれ馬へ跨がった。
アレンが荷馬の引き綱を取る。
「行くぞ!」
三頭の馬が、裏門を駆け抜けた。
その先には、渓谷へ架けられた細い軍用吊り橋。
馬蹄が板を叩く。
橋全体が激しく揺れた。
中ほどで、荷馬が足を止める。
左右の木箱がぶつかり、鈍い音を立てた。
「大丈夫です!」
ルノアは身を乗り出し、荷馬の手綱を引いた。
「来て!」
背後から蹄音が迫る。
「逃がすな!」
回収隊の騎馬が、裏門から飛び出してきた。
荷馬が前脚を踏み出す。
一歩。
もう一歩。
ようやく走りだした。
アレンが対岸へ着く。
続いて、荷馬。
ルノアの馬が最後の一枚を蹴り、地面へ飛び降りた。
「ルノア、走れ!」
「でも、ミラが!」
振り返る。
吊り橋の向こう側で、ミラが革巻きの愛用弓を構えていた。
回収隊の騎馬が迫っている。
ミラの狙いは、兵士ではない。
橋の支柱に結ばれた、赤い《緊急切り離し索》。
縄切り矢をつがえる。
弦を引く指は、もう震えていなかった。
遠くから、ミラの唇が動いた。
――今度は、外さない。
指が離れる。
シュッ!
縄切り矢が赤い索を断った。
ガンッ!
連動した金属の留め具が引き抜かれる。
軍用吊り橋の片側が大きく沈み、崖下へ落ちた。
先頭の騎馬が、崖際で急停止する。
前脚の下から小石がこぼれ、谷底へ消えていった。
「くそっ!」
追手の怒号が渓谷へ響く。
ミラは弓を下ろした。
対岸のルノアへ、一度だけ拳を掲げる。
ルノアも拳を握り返した。
ミラは弓を背負うと、崖沿いの細い保守路へ駆け込んだ。
「行きましょう」
「ああ。アルドなら、東側の橋を使って追ってくる」
二人は馬首を山道へ向けた。
◇
吊り橋が見えなくなるまで走った。
山道の分岐点で、アレンが馬を止める。
「長くは止まれない。書類だけ確認する」
苔むした道標の根元へ、出荷地図を広げた。
王国全土に散らばる、九十七の赤い印。
見ているだけで息が詰まりそうになる。
ルノアは荷馬の鞍袋から書類筒を取り出した。
中の羊皮紙を開く。
『製造ロットE-731全所持者一斉召集令』
冒頭に、三行だけ太い文字が並んでいた。
《対象点数――九十七点》
《集結場所――王都大広場》
《出陣式当日・午前十時――全聖核一斉起動》
九十七点。
王都大広場。
午前十時。
ルノアは地図へ目を落とした。
全土に散った九十七の赤い印。
それが、同じ場所へ集まる。
「九十七点が一か所へ集まるなら、全部を止める機会があります」
「どうやって?」
「まだ分かりません」
分からないものを、分かったとは言えない。
ルノアは腰の鞄越しに、検査槌へ触れた。
「でも、九十七点を一つずつ追う必要はなくなりました」
アレンの指が、召集令の最後の行で止まる。
「九十七点が、同時に起動される」
ルノアは《王都大広場》の文字を、指で強く押さえた。
「その前に、全部止めます」
大侵攻まで、あと五日。
ルノアは召集令を畳み、馬へ跨がった。
逃げるためではない。
九十七点を止めるため、王都へ戻る。
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