第3話 死に場所はいらない
轟音とともに、半壊した防壁が内側へ弾け飛んだ。
土煙の中から、黒い巨体が雪崩れ込んでくる。
三メートルを超える猪型魔獣――鉄殻猪。
屋根瓦のように重なった黒い甲殻。鼻先から突き出した二本の牙は、防壁の丸太を枯れ枝のようにへし折っていた。
「止めろ!」
若手防衛隊員たちが槍を突き出す。
穂先が甲殻を滑った。
「うわっ!」
鉄殻猪が頭を振る。
槍ごと弾かれた隊員が、地面を転がった。
さらに後ろから、五体、六体。
その中央には、ひときわ巨大な群れ長がいた。五メートルを超える巨体が壊れた防壁を踏み潰し、村の広場へ向かってくる。
「下がっていろ、若造ども!」
白髪を逆立てた老勇者ギルバートが、若者たちの前へ躍り出た。
「待ってください!」
ルノアの制止には振り向かない。
手にした聖剣へ、大量の魔力を流し込む。
青白い光が刀身を駆け巡った。
「ハアッ!」
横一文字の閃光。
先頭の鉄殻猪が、硬い甲殻ごと両断された。
黒い血を噴き上げ、巨体が地響きを立てて倒れる。
「おお……!」
「見ろ、聖剣だ!」
「勇者様の聖剣だぞ!」
村人たちから歓声が上がった。
ルノアとアレンだけは、聖剣を見つめていた。
チィン――。
甲殻と衝突した時の、澄んだ音。
その一拍後。
ギィン……。
刀身の奥から、低く濁った第二音が響いた。
ルノアの鞄で、検査槌がカタカタと震えている。
聖剣の鍔元には、細い亀裂が走っていた。
それは今も、クモの巣のように広がり続けている。
「次に全力で振れば、その聖剣は折れます! 止めてください!」
ギルバートは荒い息を吐きながら、ルノアを睨みつけた。
「今の一撃を見ただろう!」
再び聖剣を構える。
「俺のような老いぼれが、もう一度振るだけで村を守れる! それで死ねるなら本望だ!」
青白く輝く刀身を見つめ、ギルバートが呟く。
「これなら、最後に相応しい」
「なら、俺が代わる!」
アレンが制式剣を抜き、ギルバートの前へ飛び出した。
迫る鉄殻猪の牙を、正面からは受け止めない。
刃を斜めに当て、牙の軌道を横へ滑らせる。
鉄殻猪が勢い余って荷車へ突っ込んだ。
「代わりにあなたが死ぬ話ではありません!」
ルノアの叫びに、アレンの動きが一瞬止まる。
ギルバートが乾いた笑みを漏らした。
「若い勇者。お前も俺と同じ顔をしているぞ」
アレンの脳裏に、昨日の光景がよぎった。
赤札の貼られた聖剣。
泣いている子ども。
その前へ飛び出した、自分。
アレンは答えられなかった。
「ギルバート!」
老鍛冶師が広場へ駆け込んできた。
その腕には、一振りの古い鉄剣が抱えられている。
「こいつを使え! お前が何年も使い、俺が手入れしてきた剣だ!」
柄の革紐は、何度も巻き直されている。
刀身には長年の戦いで刻まれた無数の打痕。それでも刃は、今も丁寧に研ぎ澄まされていた。
「その鉄剣では、鉄殻猪の甲殻は断てん!」
ルノアが古い鉄剣を受け取り、鍔元を一打した。
チリィン――。
澄んだ一音。
濁った音は続かない。
「聖剣ほどの力はありません。ですが、今は使えます!」
「だからどうした!」
ギルバートが聖剣へ、再び魔力を注ぎ込む。
青白い光が膨れ上がった。
「まだ刃は残っている!」
「残っているのは、刃ではありません!」
鍔元の亀裂が、音を立てて伸びる。
「破断するまでの、最後の一撃です!」
その時。
「助けてくれ!」
若い防衛隊員が、倒れた見張り台の下敷きになっていた。
仲間が二人がかりで梁を持ち上げようとしている。
その声に、群れ長が向きを変えた。
巨大な牙を低く構える。
蹄が地面を掻いた。
「逃げろ!」
アレンが群れ長の前へ飛び込んだ。
制式剣を牙へ当て、軌道を逸らそうとする。
だが、今度の相手は大きすぎた。
ガァンッ!
制式剣から火花が散る。
アレンの身体が宙へ浮き、荷車へ叩きつけられた。
「アレン!」
群れ長が、倒れた隊員たちへ突進を始める。
ギルバートは聖剣を振り上げた。
「俺が斬る!」
「やめて!」
聖核へ、限界を超えた魔力が流れ込む。
パキンッ。
鍔元から、小さな破片が弾け飛んだ。
「っ!」
破片が若手隊員の頬をかすめ、背後の柱へ深々と突き刺さる。
細い血が、隊員の頬を伝った。
ギルバートの動きが止まった。
「振らないで!」
ルノアの叫びが、広場を裂いた。
「次は、小さな破片では済みません! 刀身全部が砕けます!」
ルノアは、頬から血を流す若手隊員を指した。
「その聖剣が、あなたの守ろうとしている人たちを殺します!」
群れ長が迫る。
地面が揺れる。
ギルバートは聖剣の柄を握ったまま、動けない。
「ギルバート!」
老鍛冶師が古い鉄剣を突き出した。
「甲殻を斬るな!」
長年手入れを続けてきた刃が、夕日を弾く。
「お前なら、その隙間を斬れる!」
ギルバートは古い鉄剣を見た。
次に、頬から血を流す若手隊員を見る。
聖核へ流していた魔力を断った。
青白い光が消える。
ギルバートは欠陥聖剣を老鍛冶師へ預け、代わりに古い鉄剣を受け取った。
使い込まれた革の感触。
指先が覚えている重心。
ギルバートは、倒れた若者たちの前へ立った。
荷車の残骸から、アレンが身体を起こす。
「残りは俺たちが止める!」
制式剣を杖にして立ち上がり、ほかの鉄殻猪へ向かって駆け出した。
防衛隊員たちも、その背中に続く。
「群れ長は俺が引き受ける! ほかの連中を近づけるな!」
「はい!」
群れ長がギルバートへ突進した。
地面が揺れる。
巨大な牙が迫る。
ギルバートは、古い鉄剣を正眼に構えた。
聖剣のような光はない。
それでも、その重さも、刃の長さも、ギルバートの手は覚えていた。
「甲殻を斬る必要などない」
牙が届く寸前、右へ半歩。
巨大な牙を紙一重でかわし、その内側へ潜り込む。
古い鉄剣が一閃した。
狙ったのは、甲殻ではない。
顎の下。
黒い甲殻が途切れた、細い隙間。
刃が、柔らかな喉を深く斬り裂いた。
群れ長は勢いのまま数歩走り、地響きを立てて倒れた。
古い鉄剣の刃を、黒い血が伝う。
折れてはいない。
仲間たちが倒れた梁を持ち上げ、下敷きになっていた若手隊員を引きずり出した。
群れ長を失った鉄殻猪たちが足を止める。
一体が背を向けた。
それを追うように、残りの群れも壊れた防壁から逃げていった。
広場に、静寂が戻る。
老鍛冶師が聖剣を木箱へ戻していた。
ギルバートは、その前へ歩み寄る。
鍔元の欠けから、亀裂が刀身の半ばまで伸びていた。
背後の柱には、先ほど弾けた破片が深々と刺さっている。
ギルバートは、救い出された若手隊員の頬に残る血を見た。
そして、木箱ごとルノアの前へ差し出した。
「……赤札は、剥がすものじゃなかったな」
聖剣から目を離さず、静かに続ける。
「お前の判定を信じる。回収してくれ」
「はい」
ルノアは鞄から新しい赤札を取り出し、聖剣の刀身へ丁寧に貼り付けた。
《使用禁止》
出荷台帳を開き、ギルバートの名の横へ書き込む。
《回収》
残り、九十八点。
アレンは、古い鉄剣を手に立つギルバートへ告げた。
「この村に必要なのは、英雄の死に場所じゃない」
ギルバートが顔を上げる。
「明日もここに立っている勇者です」
ギルバートは目を見開いた。
やがて老鍛冶師の肩を叩き、小さく苦笑しながら頷いた。
その時だった。
「北の国境砦から緊急報告!」
泥と汗に塗れた王国軍の伝令兵が、馬に乗ったまま広場へ飛び込んできた。
「今の鉄殻猪は、北の国境砦を抜けた群れだ! 奴らを追ってきた!」
伝令兵が馬から転がり下りる。
「砦の狙撃手が、峡道へ入る前に群れ長を射止めるはずだった。だが、放った三本がすべて標的の右へ逸れた!」
ルノアが伝令兵へ駆け寄る。
「三本とも、右へ?」
「ああ! 腕は震えていなかった。だが、矢だけが右へ逸れたんだ!」
「その狙撃手は?」
「故意に魔獣を通したと疑われ、拘束されている。このままでは明朝、部隊章を剥奪される!」
アレンが出荷台帳の地図を開いた。
北の国境砦にある赤印を指で示す。
「……その狙撃手の聖弓も、E-731です」
空は、もう暮れかけていた。
狙撃手の処分は、明朝。
「行きましょう」
ルノアとアレンは回収した聖剣の木箱を馬へ固定し、ギルバートたちへ深く一礼した。
そして三点目の欠陥を止めるため、夜の迫る街道へ馬を走らせた。
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