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手札が多めのビクトリア 2 【書籍化・コミカライズ・アニメ化】  作者: 守雨
【今を生きる】

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158 走るルーシエ

 ルーシエは肉無しの夕食を作りながらジェイコブの帰りを待った。

 ジェイコブの帰宅時間はいろいろで、早い日も遅い日も帰ってこない日もある。


「暗号に携わっているなら当然ね。いつ重要な暗号が飛び込んでくるかわからないんだし。でも……」


 今握っている情報は重要だ。ランダルの貴族が国を裏切ってアシュベリーに情報を渡そうとしている。アシュベリー王国は穏やかで平和主義の国と思われているが、そんな表の顔だけではないことをルーシエは知っている。特にランダルの重鎮たちの間で第三騎士団と呼ばれている特殊任務部隊の恐ろしさは、養成所時代に散々聞かされてきた。


 実際、ルーシエが顔を知っている先輩は、アシュベリーの王都に潜入して数ヶ月で忽然と姿を消した。それ以来、組織は二度とその先輩と連絡が取れないらしい。


「今日感じたあの気配は勘違いだったのかな。帰り道は十分気をつけて後ろを確認したけど、尾行している人を見つけられなかった。気のせいだったらいいんだけど……」


 夕食は出来上がった。ジェイコブは帰ってこない。もう、自分の部屋に帰る時刻だ。こんな落ち着かない気分のときは、いつもと同じ行動をするに限る。

 エプロンを外し、手提げバッグにしまってから部屋を見渡した。部屋は整然と片付き、床にはちりひとつ落ちていない。

 自分は案外この手の仕事に向いていたんだなと苦笑しつつ、ドアに鍵をかけて帰途に就いた。

 

 ルーシエはいつもどおりの速さで歩いていたが、心の中では焦っていた。一刻も早くあの情報を仲間に渡したかった。今だって母国に知らせるのにギリギリ間に合うかどうか。

 肉店で働いているつなぎ役が住んでいる家は知っている。そこへ行くべきだろうか。でも、それは歓迎されない。もし今、ルーシエが監視されていたら、つなぎ役の先輩もろとも捕まってしまう。

 もう少し行くと、つなぎ役が住む家へ続く道と自分か住んでいる部屋に行く道の分岐点になる。


(どうする? どうする? 私はどうしたらいい?)


 少し考えて自分の部屋へ続く道を選んだ。

 どうも視線を感じる。気のせいかもしれないし、本当に尾行されているのかもしれない。早く部屋に帰りたい。さっさと帰ってドアに鍵をかけ、朝まで眠ってしまいたい。こんなに背後の気配にビクビクしたのは初めてだ。何が自分をそう不安にさせるのか、ルーシエにはわからない。ただただ不安が付きまとう。


 無事に三階にある自分の部屋に着き、ドアに鍵をかけた。最初からついている鍵の他に、差し込み錠を四個も後付けしてある。大男だってドアを簡単に蹴破ることはできない。窓には足がかりになるようなものはなく垂直な壁だけだから、窓からの侵入は無理だ。


 家賃が安い地区だから、隣の建物との距離は短い。ルーシエの腕の長さくらいの間を置いた向こうには、同じような家賃の安い集合住宅が建っている。建物の間は大柄な人間なら入れないほど狭い。

 建物と建物の間を見下ろすと、狭い隙間はゴミだらけだ。

 いつもならお湯を沸かして体をお湯で拭き清めてさっさと寝るのだが、どうにも落ち着かない。


「やっぱり今夜のうちに連絡しよう」


 そう思って全部の鍵を開け、一歩階段を下りたときだ。通りの端で動く人影が見えた。こんな時間に? と思って目を凝らしたが、もう人影は見えない。


「おかしい。こんな時間にこの辺りにいるのは酔っ払いぐらい。酔っぱらいは一瞬で姿を消したりしない」


 ルーシエはそっと自分の部屋に戻り、また五つの鍵をかけた。

 動きやすい服に着替え、ベッドの下から肩幅ほどの板を取り出した。爪先立って腕を伸ばし、向かいの建物の窓を開けた。その窓に鍵はかかっていない。窓枠から向かいの窓枠へと板を渡し、何も持たずに這って板を渡ってすぐに板を回収する。

 その部屋は、別の名義でルーシエが借りている。狭苦しい、日の当たらないそのひと間だけの部屋は、こういう場合のために三年前から借りていた。


 貯めていた給金はかさばらないよう、銀貨と金貨に両替してある。それを胸元に突っ込んで部屋を出る。この建物はルーシエの部屋とは背中合わせだ。通りに出て周囲を確認し、ルーシエはつなぎ役の男の家を目指した。

 目立たない程度の早足で歩く。静かな夜道にルーシエの靴音だけが聞こえる。大きな音が出ないよう、こういう場合の靴底は革だ。ヒタヒタと歩いているうちに、確信した。


(私、つけられている)


 訓練生時代、どの科目の成績もそこそこだったものの、尾行を察知して振り切る試験では毎回上位に入っていた。同期の仲間たちには「逃げる専門」と揶揄されたが、教官は褒めてくれた。

 尾行されている以上、つなぎ役への連絡は諦めた。捕まったら終わりだ。今、自分を尾行しているのが第三騎士団だったらと想像しただけで恐怖に包まれる。


 教官は「アシュベリー王国の第三騎士団を統括している人間は、恐ろしく有能だ」と繰り返し言っていた。「いまだにそれが誰なのか把握できていない」とも。


 追手は恐らく男だろう。尾行を得意としている人間に違いない。

 ルーシエはこんな場合のために三年間、この街を歩き回っていた。買い物をするときもジェイコブの家から部屋への行き帰りも、なるべく毎回違う道を選んで歩いた。休みの日は、何時間も街を歩き回った。


 頭に入っているこの街の地図と小柄で細い体格を利用して、逃げる道すじを考えながら歩いた。蓄えてきた知識を使って、建物と塀の隙間、建物と建物の間を選んで進む。


 やがて、背後の気配は感じられなくなった。「ふうう」と安堵の息を吐いていると、前方に見知らぬ男が現れた。ルーシエに向かってゆっくり歩いてくる。鍛えているとわかる引き締まった体つき、隙のない足の運び。ルーシエは考える前に走った。


(最後の頼みの綱。あそこまでたどり着ければ!)


 それはとある民家の裏庭にある。鉄の柵を乗り越え、庭を走り、今は使われていない古い井戸の蓋を持ち上げて飛び込んだ。この場所はつなぎ役の仲間から教わった。枯れて使われなくなった井戸の底は、別の家の床下に続いている。

 何十年も前にランダルからアシュベリーへ潜入した人が引退後に、「後輩のために」と言って再びアシュベリーまで出向いて地下の連絡通路を掘ったと聞いている。


 その家は主が亡くなったあと、ランダル王国が手を回して所有している。人は住んでいない。

 湿った土の上を中腰で進みながらルーシエは思う。


(その人、後輩のためと言いつつ、アシュベリーの住み心地を気に入っていたんじゃないかな。実際、豊かで華やかで治安が良いから、私だってこの国が気に入っているもの)


 行き着いた先で頭上の板を押し上げると、別の家の物置小屋に出た。ルーシエは素早く自分が出た床板の上に、工具箱や積み石を運んで重しにした。小さな母屋には、様々な種類の着替えが用意されているはずだ。


(それに着替えたら、落ち着いて移動しよう)


 母屋の鍵を壁から手に取り、小屋を出ようとした。するとドン! ドン! と突き上げるような音が、重しを載せた地下通路の出口から響いてくる。

 ここまで来たのか! と恐怖と怒りを感じつつ、ルーシエは母屋へ向かわず通りへ飛び出して再び走った。


 土で汚れた服と手足、乱れた髪を気にする余裕もなく、ルーシエは走り続けた。息が続く限り走り、追手の気配がないのを確認して止まった。荒い息を繰り返しつつ後ろを振り向いた。誰もいない。


「ちっくしょおおお! アタシの三年を返せええ! ちっくしょおおおおお!」


 そう小声で恨みを言ってからまた限界まで走ると、そのあとは何事もなかったような顔で歩いた。

 ルーシエは生きていることを神様に感謝した。生きて帰国して、また別の仕事でランダル王国の役に立つつもりだ。


 ◇


 ルーシエを尾行していたエイダンが、クラークに深々と頭を下げた。


「申し訳ありません。娘に逃げられました」

「残念だったけど、彼女がつかんでいる情報は偽物です。だからその点は気にする必要がありません。彼女とランダル王国を結ぶ人間の目星めぼしはついていますから、明日以降、探ってください」

「はい」

「今回、あの二軒の家と地下通路がランダル絡みだとわかったのは大きな収穫です。取り逃がした彼女は、おそらくランダルに帰国するでしょうから一応、国境検問所に連絡を入れます。しかし彼女は深追いするだけの価値が今はありません。今はね。あ、そうそう、本物のイヴリンとその母親を見つけ次第拘束するように」


 そうエイダンに伝えてから、クラークがマイクを見た。マイクがその意図を察して口を開いた。


「あの建物に関わった人物を、過去に遡って調べます」

「そうしてください。エイダンさん、今夜はゆっくり休んでください。マイクさん、これから地下室に向かいます」

「はい」


 マイクと二人で地下室へ続く階段を下りる。これから部下だったジェイコブの尋問をする。気の重い仕事だが、それを顔には出さない。

 クラークは、この仕事を三十年近くも続けてきたエドワードを思う。

 さぞかし心労が絶えなかっただろうと同情する一方で、もしかしたらおじさまはこの仕事を楽しんでいたのかもしれない、とも思う。


 クラークは自分が第三騎士団の水に合うことを、とっくに気づいている。だが若いせいで、成果を上げてもなお重鎮たちに甘く見られている自覚もあった。


「もっと力を手に入れて、この国の中枢を動かす立場に食い込んでやる」


 クラークは静かなやる気に満ちていた。



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