膝を折らぬ国
どうもはじめまして春と桜です。
初めての作品なのであたかかく見守って頂けたらなと思っています。よろしくお願いします。
使者は護衛たちを押し退け、豪奢な衣の裾を乱しながら門へ駆け出した。黄金の鎖が腹の上で激しく跳ね、逃げるたびに幾重もの顎肉が揺れる。護衛兵たちも隊列を捨て、互いの肩を押し合いながらその後を追っていった。やがて一行の姿が門の向こうへ消えると、世界樹の広場には踏み荒らされた朝露と、静かな葉擦れの音だけが残された。
「追いかけなくていいの?」
「ええよ、コマ。あの人には無事に帰ってもろて、うちの返事を隅々まで伝えてもらわなあかんから」
「ガハハッ! あの慌てようじゃ、話す前に腰を抜かすんじゃねぇか?」
「笑い事ではない。これで奴らは初めて、ヤタガラス帝国を対等な敵国として見る」
「望むところや。友好やのうて脅しを選ばはったんは、向こうさんやさかい」
椿は逃げ去った門を見つめたまま、月詠を静かに下ろした。白銀の光が薙刀を包み、長い柄と刃は元の神弓へ姿を戻していく。勝利を喜ぶ者はいなかった。今交わされたのは、戦の始まりではなく、二つの国が決して同じ道を歩まないという確認に過ぎない。それでも、ヤタガラス帝国が誰にも屈しない国であることは、確かに刻み込まれた。
「ツバキ、これからどうする」
「向こうの出方を待つ。すぐ兵を出してくるほど、合衆国は一枚岩やあらへんやろ」
「評議会か」
「ええ。クリムゾンがおらんようになった今、誰が主導権を握るかで揉めてはるはずや。その間に、うちらは相手の顔を一人ずつ見せてもらお」
「随分と楽しそうだな」
「そら、あないに立派なご挨拶を頂いたんやもの。相応のお返しを考えな、失礼やろ?」
椿の口元へ浮かんだ笑みを見て、カザンの豪快な笑いさえ一瞬だけ止まった。柔らかな声も穏やかな表情も、普段と何一つ変わらない。それでも、その場にいた全員が理解していた。先ほど逃げ帰った使者よりも、これから椿が始めようとしていることの方が、よほど恐ろしい。剣を抜くより先に、女帝はすでに合衆国の綻びへ指を掛けていた。
その日の夕刻、使者は揺れる馬車の中で何度も報告書を書き直していた。自らが怯えて逃げ出した事実は消し、ヤタガラス帝国の女帝は狂気に満ち、魔族と妖を従えて合衆国へ牙を剥いたと記していく。やがて馬車は、七つの加盟国の紋章が刻まれた中央評議会へ辿り着いた。重い扉が開かれ、歪められた報告が各国の思惑へ静かに火を落とそうとしていた
中央評議会の円卓には、七つの加盟国を示す紋章旗が掲げられていた。使者が中央へ進み出ると、並んだ代表たちの視線が一斉に向けられる。男は乱れた衣を慌てて整え、額に浮かんだ脂汗を袖で拭った。世界樹の広場で震え上がった面影を隠すように胸を張り、用意してきた報告書を広げた。
「ヤタガラス帝国は、我らの慈悲を踏みにじりました。女帝を名乗る一宮椿は、魔族や妖を従え、合衆国へ徹底抗戦すると宣言しております。交渉の余地はありません。あの国は危険です。このまま放置すれば、奴隷制度を否定する思想が周辺諸国へ広がり、我らの秩序そのものが崩されるでしょう」
「それで、お前は尻尾を巻いて逃げ帰ったのか」「ち、違います! 使者として必要な情報を持ち帰るため、やむを得ず撤退したのです!」
「十数人も護衛を連れていながら、随分と勇ましい撤退だったようだな」
円卓の一角から乾いた笑いが漏れ、使者の顔が赤黒く染まる。報告書には椿たちの武装や世界樹の結界について細かく記されていたが、本人が受けた屈辱だけは巧妙に削られていた。それでも、震える指先と泥に汚れた衣が真実を物語っている。七人の代表は嘲笑しながらも、誰一人として報告を軽く扱ってはいなかった。クリムゾンが倒れた今、彼らにとってヤタガラス帝国は小さな辺境国ではなく、世界の秩序を揺るがす火種になりつつあった。
「軍を出せ。女帝の首を晒し、反抗した国がどうなるか見せしめにすればいい」
「焦るな。クリムゾンの帝国軍が崩れたばかりだ。こちらまで兵を失えば、誰が得をすると思っている」
「だが、放置すれば獣人奴隷を抱える国々で反乱が起きるぞ」
「問題はヤタガラスだけではない。革命軍が王都を押さえ、新たな国を作ったという情報も入っている」
「ジャスティス共和国だったか。ふざけた名だ」「二国が手を結べば厄介になる。まずは、その繋がりを断つべきだ」
意見は瞬く間に割れた。武力で押し潰そうとする者、兵力を温存しようとする者、混乱へ乗じて他国の領土まで奪おうと企む者。クリムゾンという絶対的な支配者が消えたことで、押さえ込まれていた欲望が一斉に噴き出している。誰も合衆国全体の未来など考えてはいなかった。円卓へ並ぶ七つの席は、一つの国を支える柱ではなく、次の支配者を狙う獣たちの檻へ変わっていた。
「ヤタガラスへ兵を送るのは最後だ。先に周囲から孤立させる」
「交易路を閉ざすのか」
「それだけでは足りん。薬草、鉱石、武器、全ての流通を止めろ。奴らと取引した国も敵と見なすと通告する」
「ジャスティス共和国にはどうする」
「内側から崩す。生まれたばかりの国だ。民の不満を煽り、革命軍の中へ金で動く者を送り込め」
「……なるほど。剣を交える前に、二国の足元を腐らせるということか」
使者はようやく安堵し、口元へ卑しい笑みを戻した。だが、円卓の最奥に座る評議長だけは、一度も笑わなかった。細い指でヤタガラス帝国とジャスティス共和国を結ぶ街道をなぞり、その中間へ黒い駒を置く。武力で潰せば英雄が生まれる。ならば民を飢えさせ、互いを疑わせ、手を差し伸べる余裕そのものを奪えばいい。
「戦争はまだ始めるな。まずは、女帝が守ろうとしているものを一つずつ奪う」
黒い駒が、二つの国を結ぶ道を静かに塞いだ
評議会の命令を受け、周辺諸国へヤタガラス帝国との交易を禁じる通達が送られた。従わぬ国は合衆国への敵対行為と見なし、国境を封鎖する。薬草も食糧も鉄も、一切流してはならない。評議員たちは、それだけで小国の暮らしが立ち行かなくなり、女帝が自ら頭を下げに来ると疑いもしなかった。
それから十日が過ぎた。
「それで、ヤタガラス帝国から降伏の申し出はまだないのか」
「ございません」
「物価の高騰は? 食糧不足はどうした」
「確認されておりません」
「商人を止めたのだろう!」
「それが……ヤタガラス帝国へ定期的に出入りしていた商隊そのものが、存在しておりませんでした」
円卓へ沈黙が落ちる。ヤタガラス帝国は世界樹の森で食糧と薬草を確保し、武具も妖やエルフたちの手で作り上げていた。自国で賄えない物資を他国から買い集める仕組みは、まだ整えられてすらいない。評議会が封じたのは交易路ではなく、最初から誰も通っていない街道だった。その事実を前にしても、誰一人すぐには失策を認められなかった。
「では、ポンパドゥール王国とジャスティス共和国を締め上げろ! 奴らはヤタガラスと友好関係にあるはずだ!」
「友好関係にはありますが、現在のところ大規模な物資の取引は確認されておりません」
「……何も奪えていないと言うのか」
「はい。今のところは、何一つ」
評議長の指が、円卓の上で静かに止まった。剣を抜かずに国を弱らせるはずだった策は、敵国へ届くことすらなく空を切った。ヤタガラス帝国を辺境の小国と侮り、その暮らしも文化も調べようとしなかった代償だった。だが、評議会の者たちが失敗を笑って済ませるはずもない。恥をかかされたと感じた時、権力者は自らの誤りではなく、相手の存在そのものを憎み始める。
「……ならば、別のものを奪え」
評議長はヤタガラス帝国の駒を見下ろし、細い目を冷たく歪めた。
「物が駄目なら、信用を奪う。ポンパドゥール王国とジャスティス共和国へ、女帝が世界征服を企んでいるという噂を流せ」
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