王弟ルシフェル
どうもはじめまして春と桜です。
初めての作品なのであたかかく見守って頂けたらなと思っています。よろしくお願いします。
「ツバキィィィィーーッ!! 起きるの! ツバキ、目を開けるの!」
コマは結界を維持したまま玉座の間へ駆け戻り、倒れた椿の傍へ飛び込んだ。震える前足を胸へ重ねると、柔らかな神気が傷だらけの身体を包み込んでいく。裂けた傷は少しずつ塞がっていくが、黒い呪だけは微動だにしない。神気を強めるたびに鼻先から赤い雫がぽたり、ぽたりと石畳へ落ちる。それでもコマは止めなかった。
「お願いなの……起きるの……! まだ寝ちゃ駄目なの! ツバキがいなくなったら、コマ嫌なの!」
光は何度も椿を包む。しかし閉ざされた瞳は開かず、弱々しい呼吸だけが静かに続いていた。焦りは次第に恐怖へ変わり、小さな身体は震え始める。それでも神気を止めれば、王都で人々を守る結界まで消えてしまう。神獣は限界を超えて力を絞り続けていた。
「無駄だ。その呪は神獣ごときの治癒では消えぬ。余が死なぬ限り、その娘は二度と元へは戻らん」「そんなの嫌なの! ツバキを返すの! お願いなの……誰か……誰か助けてなのぉぉぉっ!!」
悲痛な叫びが玉座の間へ響いた。
その瞬間だった。
椿の耳元で紅玉の耳飾りが淡く明滅する。一度、また一度と鼓動するように輝きを増し、紅い光はやがて空間そのものを歪ませ始めた。静まり返っていた玉座の間へ、重く澄んだ魔力がゆっくりと流れ込んでくる。
「……ほぅ」
クリムゾンが初めて興味深そうに目を細めた。
裂けた空間の向こうから、一人の男が静かに姿を現す。黒い外套を揺らし、一歩、また一歩と歩みを進めるたび、広間を支配していた血の魔力が押し返されていく。その男はクリムゾンを見ることもなく、真っ直ぐ椿のもとへ歩み寄った。
「……よく頑張った」
穏やかな声だった。
男は石畳へ膝をつくと、血に濡れた椿をそっと抱き起こす。乱れた黒髪を静かに払い、その頬へ優しく触れた。閉ざされた瞳を見つめる紅い双眸には、深い悲しみと、それ以上に押し殺された怒りが宿っている。怒鳴ることも、魔力を荒らげることもない。ただ静かに、触れる者すべてを凍らせるような殺気だけが広間を満たしていった。
「……なるほど」
クリムゾンはゆっくりと口角を上げる。
長い時を生きた吸血鬼の瞳が、男の姿を品定めするように見据えた。
「なるほど。その魔力……魔王家の血か。王弟自ら人間ごときを庇いに現れるとは、随分と落ちぶれたものだ。感情ひとつ制御できず神々に封印されていたのは知っていたが、人間に肩入れするとは笑わせる。王とは常に冷徹であらねばならぬ。情へ流される愚か者に玉座を語る資格などない」
玉座の間へ静かな笑いが響く。
クリムゾンは剣先を床へ軽く落とし、なおも余裕を崩さない。長い時を生きてきた吸血鬼の王侯貴族にとって、魔王家など過去に滅びた一族でしかない。その瞳には警戒よりも嘲りの色が濃く宿っていた。血に濡れた椿を抱くルシフェルの姿さえ、敗者の末路として映っている。
「魔族はとうに歴史から姿を消した敗者だ。王も民も守れず滅び、人間へ希望を託す始末とは惨めなものよ。貴様も同じだろう、王弟。己の国を失い、誇りまで捨て、人間などという脆弱な種へ縋って生き永らえている。そんな有様で余の前へ立つとは、身の程を知らぬにも程がある」
ルシフェルは答えなかった。
椿を静かに石畳へ横たえ、乱れた髪を耳へ掛け直す。その手つきは驚くほど優しい。耳飾りが紅く揺れ、淡い光が椿の頬を照らす。ようやく立ち上がったルシフェルは、ゆっくりとクリムゾンへ向き直った。その口元には、ほんの僅かに皮肉めいた笑みが浮かんでいる。
「吸血鬼一族か。なるほど、随分と長生きしたようだな。だからそんな古臭い価値観へ縋っておるのか。時代に取り残された老害ほど、自分を賢者と思い込みたがる」
静かな声だった。
それでも、その一言だけで玉座の間の空気が凍りつく。クリムゾンの笑みは崩れない。しかし赤い双眸だけは僅かに細まり、ルシフェルを改めて見据えた。王弟の纏う魔力は、人間や精霊とはまるで異なる。数百年という時を生きてきた吸血鬼だからこそ、その気配が紛れもない魔王家の血であると理解できた。
「そのままダンジョンの奥底で力尽きておればよかったものを。己の責任から逃げ、王座も民も捨てた敗者が、今さら何をしに現れた。貴様のような臆病者へ、余が割く言葉などない」
クリムゾンは退屈そうに剣を肩へ担ぐ。
その瞳にあるのは侮蔑だけだった。かつて栄華を誇った魔王家も、今の王弟も、自分より格下でしかないという揺るぎない確信。血の魔力が足元を這い、玉座の間を赤黒く染め上げていく。
ルシフェルは一度だけ椿へ視線を落とした。
頬へ掛かった髪を静かに払う。その仕草は優しく、壊れ物へ触れるように丁寧だった。やがて立ち上がると、その紅い瞳は再びクリムゾンだけを射抜く。
「……随分と好き勝手に喋る。」
短く息を吐く。
「王がどうあるべきかなど、貴様に説かれる筋合いはない。」
一歩、前へ踏み出した。
「だが、一つだけ訂正しておこう。」
その声音はどこまでも穏やかだった。
だからこそ、押し殺した怒りがより鮮明に伝わる。
「私の友人へ手を出した。」
紅い瞳が細くなる。
「その一点だけで十分だ。」
静寂が落ちる。
ルシフェルの周囲から溢れ出した魔力が、床を這う血の魔力と静かにぶつかり合う。
クリムゾンは剣を肩へ担ぐと、不敵に笑った。
「そんなに人間が愛おしいか。つくづく甘い男だ。よかろう。その感情ごと叩き潰し、二度と立ち上がれぬよう地へ沈めてやる」
ルシフェルは何も答えない。
静かに椿へ視線を落とし、その寝顔を一度だけ確かめる。やがて右手をゆっくりと前へかざした。漆黒の魔力が掌から溢れ、渦を巻きながら一つの形を成していく。空間が軋み、濃密な闇は一本の巨大な柄となり、その先へ三日月を思わせる黒い刃が生まれた。禍々しく、それでいて神々しい死神の大鎌だった。
「その武器……魔力の具現化か」
クリムゾンの笑みが深まる。
吸血鬼の王侯である彼でさえ、その技術は容易に扱えるものではないと理解していた。膨大な魔力だけでは足りない。絶対的な支配力がなければ、ここまで完成された具現化は成し得ない。
「私は急いでいる。」
ルシフェルは鎌を静かに肩へ乗せる。
「貴様を終わらせる。」
その言葉が終わるより早く、姿が掻き消えた。
クリムゾンの瞳が僅かに見開く。
真横から黒い刃が唸りを上げた。咄嗟に赤い剣を差し込み受け止めるが、凄まじい衝撃が腕を貫く。轟音と共に床が陥没し、王の身体は数十メートル先まで押し込まれた。靴底が石畳を削り、一直線に深い裂け目が刻まれていく。
「なるほど……それでこそ魔族だ。」
クリムゾンは剣を握り直す。
口元は笑っている。
しかし赤い瞳からは、先ほどまでの侮りが完全に消えていた。目の前にいるのは没落した王弟ではない。同じ魔族の頂点へ立つ資格を持つ、一人の強者。その事実を、ようやく身体で理解したのだった。
「ようやく本気になったか。」
ルシフェルは鎌をゆっくりと振るう。
刃から零れ落ちた漆黒の魔力が床を裂き、玉座の間を一直線に駆け抜ける。二人の魔力は真正面から激突し、王城全体が地鳴りのような震動に包まれた。次の瞬間、吸血鬼の王と魔王家の王弟は再び姿を消し、肉眼では追えぬ速度の死闘が幕を開けた。
新連載!【獄門道中閻魔大王への道】を始めました!
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