逃げない理由
どうもはじめまして春と桜です。
初めての作品なのであたかかく見守って頂けたらなと思っています。よろしくお願いします。
その姿は、あまりにも無防備だった。
床へ背を預けたまま、椿は静かに眠っている。
長い黒髪が肩からさらりと流れ、薄暗い灯りの中で白い肌がぼんやり浮かんで見えた。
呼吸は穏やかで、警戒している様子もない。
こんな場所で、こんな風に眠れる神経が理解できなかった。
スクナはベッドの端へ腰掛けたまま、じっと椿を見る。手を伸ばせば届く距離だ。
今なら逃げられる。金もある。武器もある。鎖もない。このまま窓から飛び降りれば、そのまま夜の街へ消えられる。
そう思った。……思ったはずなのに、身体は動かなかった。
視線が椿から離れない。
昨日、頭へ触れられた感覚がまだ残っていた。
殴るための手じゃなかった。
押さえつける手でもない。
値踏みするみたいに顎を掴む手でも、商品を確認するみたいに身体を撫で回す手でもなかった。
ただ、静かに撫でられた。壊れものへ触るみたいに。
「……なんだよ、あれ……」
掠れた声が零れる。
胸の奥がざわついていた。剣を向けられるより、鎖を嵌められるより、あの優しさのほうがよほど落ち着かなかった。
スクナは無意識に自分の首へ触れる。
そこには長年擦れ続けた鉄輪の痕が残っている。
赤黒く変色し、皮膚は硬くなっていた。
物心ついた頃にはもう鎖があった。
名前なんかなかった。
呼ばれる時は「おい」か「商品」だけ。
飯は床へ投げられ食うのが遅ければ蹴られた。
眠っている最中に叩き起こされ、木剣を握らされる。倒れても終わらない。立てなくなるまで振らされる。売れる奴隷にするためだと笑われながら、何度も何度も剣を握らされた。
「お前みたいなクズ、剣が振れなきゃ生かしておいても意味がねぇ」
殴られながら覚えた。蹴られながら覚えた。勝てば飯が出る。負ければ鞭だった。血塗れで倒れても、水をぶっかけられて無理やり立たされた。
耳と尾を切り落とされた時のことも、まだ覚えている。逃げようとした罰だった。焼ける鉄の臭い。自分の血の臭い。笑い声。
「これで少しは大人しくなるだろ」
そう言って笑っていた男の顔まで覚えている。左腕を失ったのも、片目を潰されたのも、全部そうだ。壊れても構わない。死ななければいい。商品だから。それだけだった。
「……知らねぇよ……」
ぽつりと声が落ちる。優しくされる理由なんか分からない。
腹が減っているなら食えばいいと、当たり前みたいに飯を出されて。
傷が痛むなら治すと言われて。
泣いた時だって笑われなかった。
「意味わかんねぇ……」
どうせ最後には裏切られる。誰も信じなければ傷つかなくて済む。それなのに、昨日の声が耳の奥に残って離れなかった。
──よう頑張ったねぇ。
スクナの喉がひくりと震える。騙されてたまるか。
椿へ向かって手を伸ばす。細い首だった。今なら簡単に折れるし刃なんかなくても殺せる。
なのに、その手は途中で止まった。
しばらく宙で止まったあと、ぐしゃり、とシーツを掴んだ。
「……っ、くそ……」
そのまま額を押し付けるみたいに俯いた。
逃げない。
その選択を、自分でしてしまった。
コマが薄く目を開ける。眠そうに瞬きをしながらスクナを見て、小さく鳴いた。
「わふ……」
「……うるせぇよ」
床へ背を預けて眠る椿は、相変わらず無防備なままだった。着物の袖が少し乱れて、細い手首が覗いている。
その時、椿の身体が小さく揺れた。
「……ん……」
寝返りを打った拍子に、肩へ掛けていた羽織が落ちる。スクナの目が止まった。
春とはいえ夜は冷える。
放っておけば風邪を引くかもしれない。
そこまで考えて、スクナは眉を寄せた。
「……は?」
なんでそんなこと気にしてる。なんで心配してる。
苛立ったみたいに舌打ちする。
けれど視線は逸れない。しばらく睨むみたいに見ていたあと、スクナは乱暴に息を吐いた。
「……くそ」
ゆっくり立ち上がる。
傷が痛んだが構わなかった。
コマがちらりと目を開けた。
「わふ?」
「見るな」
椿は眠ったままだ。スクナは落ちた羽織を拾い上げる。驚くほど軽い布だった。
少し迷ってから、その肩へそっと掛け直す。
起こさないように。
そんな風に動いた自分に、また腹が立った。
「……何やってんだ、俺……」
その時だった。椿の睫毛がゆっくり揺れる。
スクナの身体が固まった。
しまった、と思った時にはもう遅い。
薄く開いた瞳が、ぼんやりスクナを映す。
「……ふふ」
柔らかい声だった。
「優しい子やねぇ」
スクナの顔が引き攣る。
「ち、違っ……」
椿はくすくす笑いながら羽織を胸元へ引き寄せた。
「ありがとう」
ただそれだけ言って、また目を閉じる。疑いもしていない顔だ。
スクナはしばらくその場へ立ち尽くしていたが、やがて耐えきれなくなったみたいに顔を覆う。
「……意味わかんねぇ……」
コマがそんなスクナを見上げ、楽しそうに尻尾を振った。
「わふっ」
「笑ってんじゃねぇ……」
小さく零れたその声は、昨日より少しだけ柔らかかった。
明日は2話更新です!
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