大海を知らず
どうもはじめまして春と桜です。
初めての作品なのであたかかく見守って頂けたらなと思っています。よろしくお願いします。
男は静かに剣を下ろした。その仕草はどこまでも自然だった。だが、それだけで空気が重くなる。まるで巨大な魔物が牙を隠しただけのような圧迫感があった。スクナは剣を握り直す。掌は血で滑り、呼吸は荒い。それでも目だけは逸らさなかった。
「恐怖で折れる個体は面白くない。だが君は違う。壊れそうなのにまだ立っている。だから少しだけ教えてあげようか。君は確かに強い。この辺境なら上位だろう。だが、それだけだ。世界は広い。君が思っているよりずっとね」
男の声は穏やかだった。まるで弟子へ世間話でも聞かせるような口調だったが、その言葉には圧倒的な現実が滲んでいた。スクナは血の混じる唾を吐き捨てる。認めたくはない。だが身体は理解していた。目の前の男は今まで戦った誰よりも強い。戦士長ですら比較にならないほどに。
「君が倒してきた相手など所詮は小物だ。奴隷商人も、兵士たちも、この国の中では取るに足らない存在に過ぎない。君が強くなったと感じるのも無理はないよ。でもね、それは池の中で大きな魚になっただけなんだ。世界には海がある。そして海には化け物がいる」
男が一歩踏み出す。
それだけだった。
それだけなのにスクナの全身が総毛立つ。戦場の喧騒が遠のく。兵士たちも無意識に距離を取っていた。本能が警鐘を鳴らしている。この男は危険だと。
「例えば戦士長。彼は強いね。だが私なら十秒も掛からない。そして私より強い者は、この国だけでも何人もいる。だから言っただろう。世界は広い、と」
男の姿が揺らぐ。
スクナは反射で身体を捻った。
ザンッ!!
肩から胸元へ深い傷が走る。鮮血が宙へ散った。吹き飛ばされながらも何とか着地するが、呼吸が乱れる。いつ斬られたのかすら分からなかった。男は元いた場所に立っている。まるで最初から動いていなかったみたいに。
「……っ」
スクナは歯を食いしばる。
悔しかった。
強くなったと思った。
守れるようになったと思った。
それなのに届かない。
「本当に興味深いな」
男がそう呟いた直後だった。
赤く燃え上がる火球が解き放たれる。
轟音と共に灼熱が森を呑み込んだ。熱風が木々を薙ぎ払い、火球の軌跡にあった草木は一瞬で炭へ変わる。地面は溶け、近くにいた兵士たちでさえ悲鳴を上げながら後退した。避けられない。そう悟るほどの一撃だった。
「……っ」
歯を食いしばる。
終わる。
そう思った。
「スクナァァァァッ!!」
横から誰かが飛び込んできた。
若いエルフだった。
最近まで共に訓練し、共に笑い、共に戦ってきた仲間だった。その背中を見た瞬間、スクナの目が大きく見開かれる。
「なっ……!」
轟ッ!!
炎が直撃した。
肉の焼ける臭いが広がる。焦げた煙が立ち昇る。時間が止まったようだった。スクナは動けない。ただ目の前の光景を見つめることしかできなかった。
「……なんでだ」
掠れた声が漏れる。
青年は焼けただれた顔で振り返った。立っていることすら不思議なほど傷付いている。それでも無理やり口元を持ち上げる。
「……仲間、だろ」
それだけだった。
青年の身体が崩れ落ち、地面へ倒れる音だけが妙に大きく響いた。
「無駄死にだな。庇わなければ生きていただろうに。仲間を守ったつもりなのだろうが意味はない。結局お前も捕まる。里も落ちる。彼が死んだ理由も消える」
「そういう感情は理解できないな。合理性がない」
ドクン。
胸の奥で何かが脈打った。心臓だったのか、それとも別の何かだったのか分からない。ただ確かなのは、身体の奥底で眠っていた何かが目を覚まし始めていることだった。熱が血管を駆け巡り、流れ出る血さえ燃えているように感じる。奴隷商人たちの笑い声、泣き叫ぶ獣人たち、切り落とされた左腕、守れなかった仲間たち。忘れたことなど一度もない記憶が次々と脳裏を焼き、胸の奥で燻り続けていた怒りへ薪を投げ込んでいく。
「……ああ、本当に面白い。生け捕りにできれば理想だったけど、ここまで抵抗されると少し面倒だ。死体でも十分価値はあるみたいだし、多少壊れても研究材料としては問題ないからね」
男の声はどこまでも穏やかだった。珍しい魔物でも眺めるような視線がスクナへ向けられる。その目には敵意も怒りもない。ただ純粋な好奇心だけがあった。だからこそ不気味だった。スクナは俯いたまま動かない。血が滴る。拳を握る。呼吸は荒い。それでも倒れない。胸の奥で燃え続ける怒りだけが身体を支えていた。
「終わりだ。覚醒個体の回収は諦めるとしよう」
男が踏み出した。
戦場の音が遠ざかる。燃える木々も、誰かの悲鳴も、剣戟の音も、全てが霞んでいく。ただ目の前の男だけが鮮明だった。振り下ろされる刃を見つめながら、それでもスクナは動かない。いや、動けないのではなかった。胸の奥で膨れ上がる何かに全てを呑まれていたのだ。
「――スクナァァァァァッ!!!」
その瞬間、森中を震わせる怒号が響いた。
里長だった。普段は穏やかな男から放たれたとは思えないほどの声だった。同時に空を裂いて黒い何かが飛来する。風を裂き、煙を裂き、戦場そのものを切り裂くように一直線に迫るそれは、夜を削り出して形にしたような禍々しい黒刀だった。
スクナの身体が反射的に動く。考えるより先に手が伸びた。迫り来る刀を掴んだ、その瞬間だった。
バァァァァァンッ!!!!
黒い魔力が爆発した。衝撃波が周囲へ吹き荒れ、地面が砕ける。木々が軋み、近くにいた兵士たちは悲鳴を上げながら吹き飛ばされた。戦場そのものが揺れたような轟音だった。暗部の長ですら目を細める。スクナ自身も何が起きているのか分からない。ただ刀が脈打っていた。ドクン、ドクンと、生き物みたいな鼓動が掌から腕へ流れ込み、黒い魔力が身体の奥へ雪崩れ込んでくる。
「ぐっ……ぁ……っ!!」
熱い。痛い。全身を内側から焼かれているようだった。歯を食いしばっても悲鳴が漏れる。それでも黒刀は止まらない。溢れ出した魔力は失われた左肩へ集まり、骨を作り、筋肉を編み、血管を繋ぐように形を作り始めた。
「あ……」
「腕が……」
「生えてるぞ……!」
兵士たちが呆然と呟く。誰も動けなかった。ただ見ていることしかできない。失われたはずの左腕が再生していく。それは人の腕ではなかった。闇を固めたような漆黒の腕。その表面には紅い筋が脈動するように走り、鼓動に合わせて妖しく光っていた。
「ッ、あああああああああっ!!!」
絶叫が森へ響く。紅い尾が大きく膨らむ。焔のように揺らめく尾は今度は消えない。魔力が溢れ、空気が震え、森が悲鳴を上げる。スクナの周囲だけ世界の色が変わったようだった。
「……なるほど、予想以上だな」
暗部の長が静かに呟く。その目には先ほどまでより深い興味が宿っていた。研究者が未知の発見を前にした時のような目だった。警戒でも恐怖でもない。ただ純粋な好奇心だけがある。スクナは答えない。ゆっくりと顔を上げる。瞳の奥では紅い光が燃えていた。遠くの剣戟も、兵士の呼吸も、風の流れも、木の葉が落ちる音さえ鮮明に聞こえる。世界そのものが違って見えた。
「……悪くねぇな」
掠れた笑いが漏れる。新しく生えた左腕で黒刀を握り直す。その感触は奇妙なほど馴染んでいた。まるで最初から自分の腕だったかのように。男が笑った、その瞬間だった。姿が消える。だが今度は違う。見える。呼吸も、重心も、殺気も、全てが分かる。スクナの紅い瞳が空間を射抜いた。
「――そこだ」
黒刀が閃く。
ギィィィィンッ!!!
凄まじい衝撃が爆ぜた。だが今度は押されない。真正面から受け止めている。足元の地面が砕け散る中、スクナは一歩も退かなかった。暗部の長の目が初めて大きく見開かれる。
「……なに?」
スクナの口元が獣のように歪む。紅い尾が背後で大きく揺れた。
「捕まえた」
新連載!【獄門道中閻魔大王への道】を始めました!
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