英雄の手記を読む
十一月二日、月曜。第二段階の初日。
校舎の三階の講堂には、パイプ椅子が百脚ほど並べられていた。俺たちの期の十二人のほかに、ほかの期の教習生と教官たちが座っている。後ろの壁ぎわには、テレビ局のカメラが一台。演台の横には「講演 英雄の手記を読む 日本探索者協会教育部長・教本編纂委員長 御子柴宗一郎」と書いた紙が貼られていた。
俺は、いちばん後ろの列の端に座った。帽子は脱いで膝に置いた。
戸川が隣に来て、胸のカメラを指でつついた。
「講演は配信オッケーなんすって。所長が、協会の宣伝になるからって」
瀬尾葉月は、最前列の真ん中に座っていた。背筋がいつもよりさらに伸びている。教本を膝の上で、両手で持っていた。
◇
「皆さん、こんにちは」
演台に立ったのは、銀色の髪をきれいに撫でつけた、六十前くらいの男だった。紺のスーツに、協会の徽章。声は柔らかく、よく通った。
「御子柴です。今日は、皆さんの教本の、第三部のお話をしに来ました」
御子柴は、教本を片手に掲げた。
「二〇〇四年、この国の地面に穴が開きました。最初の七年間、そこには何の決まりもありませんでした。誰でも入れた。誰も守ってくれなかった。若者が、小遣い稼ぎに潜り、帰ってきませんでした。私たちは、その時代を『無法の時代』と呼んでいます」
講堂は静かだった。前のほうの列で、仁科が腕を組んで聞いていた。
「私自身も、その時代に潜った一人です。浅い層だけでしたが、多くの仲間を失いました。ですが」
御子柴は、そこで一拍置いた。
「その無法の時代にも、一人だけ、正しく潜り、記録を遺した人がいました。危険を一つずつ確かめ、理由を考え、ノートに書き留めた人。その人は、荒川第一の第七層で、殉職しました。英雄、瀬尾隆之君です」
講堂のあちこちで、頷く気配がした。
「私は、ご遺族からお預かりした瀬尾君のノートを、一冊一冊、読みました。そこには、命を守るための知恵が詰まっていた。それを百八の心得にまとめたのが、皆さんの教本の第三部です」
まとめた。
俺は、膝の上の帽子のつばを、指でつまんでいた。
「さて。今日は、特別なお客様がいらしています」
御子柴が、最前列を手で示した。所長の坂東さんが、前から二列目で嬉しそうに手を叩いている。
「瀬尾葉月さん。瀬尾隆之君の、娘さんです。お父さんの手記を学ぶために、この教習所に入られました。どうぞ、壇上へ」
拍手が起きた。
瀬尾葉月は、少しためらってから立ち上がり、演台の横に上がった。御子柴が、彼女の肩に軽く手を置いた。テレビのカメラが、そちらを向いた。
「英雄の娘さんです。お父さんの遺した教えが、こうして次の世代に受け継がれていく。教本を作った者として、これほど嬉しいことはありません」
瀬尾葉月は、深く一礼した。顔を上げたとき、目が少し潤んでいた。
拍手が、さっきより大きくなった。
俺は、手を叩けなかった。
◇
御子柴の話は、二〇一一年の事故に移った。
「瀬尾君は、二〇一一年の十一月、第七層で、崩落に巻き込まれました。原因は、今も分かっていません。第七層の、原因不明の崩落です」
原因不明。
「あの頃の事故の聴き取りは、私が担当しました。生き残った人たちの話を、一人ひとり聞きました。中には、つらい体験のせいでしょう、錯乱して、妄言を口にする者もいました。ありもしない音を聞いたとか。そういう話も、全部、記録しました。でも、記録に残すべきは、確かめられた事実だけです。教本は、確かめられた事実だけでできています」
ありもしない音。
その言い方で、思い出した。
二〇一一年の十二月。まだ協会ができる前の、設立準備室。どこかのビルの、窓のない会議室だった。長い机の向こうに、四十すぎの男が座っていた。今より髪が黒くて、今と同じように声が柔らかかった。
俺は、四つ目が鳴ったと言った。三つで戻れと思って走りかけた瀬尾さんの腕を、つかみ損ねたと言った。四つ目のあとに、来た道のほうから、空気の塊が来たと言った。伏せていた俺は助かって、立っていた瀬尾さんは、壁に。
男は、メモを取る手を止めて、隣の職員に言った。
「錯乱、と書いておきなさい。生存者の記憶の混乱」
それから、俺に向かって、柔らかい声で言った。
「真壁君。つらかったね。今日はもう、帰って休みなさい」
あのときの男の名前を、俺は覚えていなかった。覚える気もなかった。教本の前書きで見た名前に、聞き覚えがあった気がしたのは、そのせいだった。
御子柴宗一郎。
俺の四つ目を消した男が、俺のノートを、英雄の手記にしていた。
◇
「では、質問のある方」
講演の最後に、御子柴が講堂を見回した。
俺の隣で、戸川が勢いよく手を挙げた。胸のカメラが、御子柴を映している。
「はいっ。トガワです。配信、見てる人からの質問なんすけど。心得四十一の、赤苔の通路は走るなって、なんで走っちゃだめなんすか? 昔は走ってたって話も聞いたんで」
戸川は、ちらりと俺のほうを見た。
御子柴は、にこやかに頷いた。
「良い質問です。手記の原文には、少し分かりにくい書き方をされた箇所もありました。編纂の際、深層の実態を踏まえて、私が判断しました。胞子を巻き上げ、転倒の危険もある。走るのは、危険です」
「なるほど、了解っす!」
戸川は座って、小声で「……私が判断した、って言ったっすね」と呟いた。
深層の実態を、あんたは知らない。
浅い層だけでしたが、と、さっき自分で言ったばかりだ。第三層まで下りたかどうかも怪しい。赤い苔の上で十秒立ち止まったことも、膝からしびれて崩れたことも、きっとない。それで「判断」して、俺の書いた一行をひっくり返した。
俺は、帽子のつばを握ったまま、動かなかった。
ここで手を挙げても、何にもならない。最前列で、瀬尾葉月が、御子柴の言葉を一つも聞き漏らさないように、まっすぐ前を向いている。
◇
講演が終わって、教習生たちが講堂を出ていく。俺は人の流れが途切れるのを待ってから、廊下に出た。
階段の手前で、靴音が止まった。
「失礼。君」
振り返ると、御子柴が立っていた。協会の職員らしい若い男が一人、少し離れて控えている。
御子柴の目が、俺の胸の名札に落ちた。教習生の名札。真壁恭二。
柔らかい笑顔が、ほんの一瞬だけ、止まった。
「真壁……恭二君か」
御子柴は、名札から俺の顔へ、ゆっくり目を上げた。
「生きていたのか」
俺は、何も答えなかった。
御子柴は、職員に「先に車へ」と言って下がらせた。それから、一歩、俺に近づいた。声を落とす。講演のときと同じ、柔らかい声だった。
「君の動画は、見たよ。岩喰いの。立派なものだ。協会としても、才能のある教習生は歓迎する」
「……」
「ただね、真壁君。君が何を覚えていようと、あの手記は、瀬尾君のものだ」
御子柴は、講堂の扉のほうへ目をやった。中では、瀬尾葉月が、所長と何か話している。
「英雄の娘さんを見ただろう。あの子は、お父さんの手記を支えに生きてきた。君も、あの子を悲しませたくはないだろう」
御子柴は、俺の肩に手を置いた。軽く、二度叩いた。
「――そうだね?」
笑顔のまま、御子柴は階段を下りていった。




