修了検定
十月三十日、金曜。修了検定の朝は、よく晴れていた。
教習坑の手前の部屋に、白いテープでコースが引かれていた。入口で指差し確認。スライム二匹。部屋の端の、三段の石の段差を下りて上がる。穴ネズミの群れの対処。最後に入口まで戻る。百点から減点して、七十点以上で合格だ。
採点は、検定員の槙さんがする。タブレットを持って、受ける教習生の三歩後ろをついて歩く。仁科は補助で、コースの脇に立っていた。杖は監視室の壁に立てかけてきたらしく、手には赤い旗を持っていた。危険行為があったとき、検定を止めるための旗だ。
所長の坂東さんまで、入口の監視室の窓からのぞいていた。岩喰いの件があってから、この教習所の検定は注目されているらしい。
検定の間は、配信は禁止だった。戸川は胸のカメラを外して、心細そうに自分の胸を撫でていた。
「カメラないと、なんか裸みたいっす」
「……落ち着いてやれば、大丈夫ですよ」
「真壁さんに言われると、逆に緊張するんすけど」
待合のベンチで順番を待っていると、瀬尾葉月が少し間を空けて隣に座った。膝の絆創膏は、もう取れていた。
「真壁さん。今日は、スライムを右から打ちますか」
前を向いたまま、そう聞かれた。
「……右から打ちます」
「核が左にあっても、ですか」
「右に来るまで待ちます。検定なので」
瀬尾葉月は、少し考えるような間を置いた。
「この前は、左にあったから左から打つ、とおっしゃいました」
「言いました」
「どちらが本当なんですか」
どちらも本当だ、とは言えなかった。右から打つのは、ノートに書いたからで、検定がそれで採点するからだ。左から打つのは、そこに核があるからだ。
「今日は、右からです」
「……今日は、ですか」
瀬尾葉月は、それきり黙った。けれど、席は立たなかった。
◇
十二人が、順番に受けた。
村瀬さんは七十二点で、ぎりぎり受かった。段差で尻もちをついて減点されたのに、「受かればいいのよ、受かれば!」と大声で笑っていた。戸川は七十八点。スライムに二回顔を狙われて、二回ともよけた。
瀬尾葉月は、俺の一つ前だった。
指差しも、スライムも、教本の図のとおりだった。右に回り込んで、核が右に流れるのを待って、右から打つ。段差では最後の一段を飛ばす。槙さんのタブレットに、減点の印はほとんど付かなかった。
穴ネズミの群れで、彼女の足が止まった。
五匹いた。見極めのときより一匹多い。床を走ってくるネズミを、瀬尾葉月の目が追う。唇が、一度だけ動きかけた。
それから、唇を結んだ。
一歩下がって、背中を壁につけた。最初に足元に来た一匹を叩く。次の一匹を叩く。三匹目は来なかった。残りの三匹は、仲間が叩かれるのを見て、壁ぎわを回り込んでくる。来たやつから、一匹ずつ。最後の一匹を叩いたとき、彼女は肩で息をしていた。
八十六点。合格だった。
コースを出てきた瀬尾葉月は、俺の前を通り過ぎるとき、ほんの少しだけ頭を下げた。何も言わなかった。
◇
「真壁さん」
槙さんに呼ばれて、俺は入口に立った。
指差し確認。右、左、前、天井。腕を伸ばして、声を出す。トラックの点呼と同じだ。仁科に二日かけて直された角度で、直された大きさの声を出した。
スライムは、二匹。
一匹目の核は、真ん中にあった。俺は右に回り込みながら、核が右に流れてくるのを待った。教本どおりに。三秒は止まらないように、ゆっくり足を動かしながら。四秒ほどで、核が右に寄った。右から一打。
二匹目は、最初から核が右にあった。運がいい。右から一打。
ここまで、槙さんのタブレットから、減点の音はしなかった。
部屋の端の段差へ向かう。三段の石の段差を、下りて、上がる。
その手前で、俺は足を止めた。
白いテープのコースは、段差の正面へまっすぐ延びている。その床の、テープの内側の一角だけ、石の色が濃かった。湿っている。それに、においがした。冷えた鉄のにおい。一週間前、この穴の奥の壁から嗅いだのと、同じにおいだった。
床の石の継ぎ目が、ほんのわずかに開いている。髪の毛一本ぶんくらい。
俺は、テープの外に出た。
壁ぎわを、石の色の変わっていないところだけ選んで、段差の横へ回る。そこから段差に入って、下りて、上がる。最後の一段は飛ばした。
赤い旗が上がった。
「コース逸脱! 危険行為!」
仁科の声が、部屋に響いた。
「検定中にコースを外れた。教習生が勝手に動くのは、危険行為です。槙さん、検定中止を――」
「続けてください、真壁さん」
槙さんの声は、仁科の声にかぶせるように、静かだった。
「判定は、検定の後でします」
仁科が何か言いかけた。槙さんは、仁科のほうを見なかった。俺のほうも見ていなかった。テープの内側の、色の濃い床の一角を見ていた。
穴ネズミは、四匹だった。壁を背にして、来たやつから叩いた。入口まで戻って、指差し確認をして、検定は終わった。
◇
コースを出て、入口の横で待っていると、仁科が旗を持ったまま、槙さんに詰め寄っていた。
「明らかな逸脱です。減点じゃ済まない。不合格にすべきです。教習生がコースを勝手に――」
床の下で、音がした。
岩鳴りではなかった。もっと鈍い、重いものがずれる音。部屋の誰もが、そちらを向いた。
段差の正面の、テープの内側。色の濃かった床の一角が、ゆっくり沈んでいった。石の継ぎ目が開いて、二メートル四方ほどの床が、まるごと下へ抜け落ちた。どさり、と遠くで土の崩れる音がした。
穴の縁から、冷たい空気が吹き上がってきた。
部屋が、静まり返った。
あと一分早ければ、俺はあの上を歩いていた。俺の前に受けた十一人は、全員、あの上を歩いていた。
「……全員、壁ぎわへ。穴に近づかないでください」
槙さんがそう言ってから、タブレットを操作した。監視室の映像を呼び出しているらしい。しばらく画面を見て、それから顔を上げた。
「真壁さんがコースを外れる直前、その床の継ぎ目が、映像でも分かるほど開いています。真壁さんは、それを避けて壁ぎわを通りました」
槙さんは、旗を持った仁科のほうを向いた。
「危険回避です。減点はありません」
タブレットに、数字を打ち込む音がした。
「真壁恭二さん。百点。合格です」
一拍置いて、誰かが息をのむ音がした。
「百点……?」
「この教習所で、仮免の百点は初めてです」
槙さんが付け足した。相変わらず、少しも嬉しそうな声ではなかった。
村瀬さんが、最初に手を叩いた。つられて、何人かが拍手をした。戸川は、カメラのない胸を両手でつかんで、「なんで今、配信禁止なんすか……!」と天井を仰いでいた。
瀬尾葉月は、拍手をしていなかった。少し離れたところで、黙って俺を見ていた。驚いているのとは、少し違う顔だった。何かを確かめようとしている顔だった。
仁科は、赤い旗を握ったまま、穴の縁を見下ろしていた。
監視室から出てきた坂東さんが、その横に立った。仁科は所長のほうを向いて、口を開いた。何も出てこなかった。
坂東さんは、仁科の肩を軽く叩いて、それから俺のほうへ、満面の笑みで歩いてきた。
「いやあ、真壁さん! 百点! すごいねえ。いやあ、これは宣伝に――じゃなくて、いや、本当にすごい」
それから、手を一つ打って、教習生たちのほうを振り返った。
「ちょうどいい。皆さんに、お知らせがあります。第二段階の初日、来週の月曜。協会から、御子柴部長が講演に来てくださいます。皆さんの教本の、編纂委員長だよ」
ざわめきが起きた。
俺の右のほうで、瀬尾葉月が、はっと顔を上げた。




