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「野良上がりは教本を読め」と教官に言われてダンジョンの教本を開いたら、英雄の手記が俺のメモだった  作者: みれいぬ


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教習所のおっさん

 所長室に呼ばれたのは、十月二十七日の昼だった。


 応接のソファに、所長の坂東さんと、杖を脇に立てかけた仁科が座っていた。俺は向かいに座るよう言われた。少し遅れて、槙さんがノートパソコンを抱えて入ってきて、壁ぎわに立った。


「いやあ、真壁さん。忙しいところ悪いね」


 坂東さんは愛想よく笑ってから、机の上の書類を指で叩いた。ホチキスで留めた、数枚の紙だった。


「仁科くんから、報告書が出ててね。先週の岩喰いの件。真壁さんの行動に、危険行為があったと」


 仁科が、俺を見ないまま口を開いた。


「教官の指示を無視して、魔物に単独で接近した。心得七十二に反して、意図的に壁を叩いた。結果的に倒せたのは運です。ほかの教習生が真似をしたら死にます。第一段階を、最初からやり直させるべきです」


 俺は黙って聞いていた。


 言っていることは、筋が通っている。教習生が教官の指示を聞かずに魔物に向かっていくのは、教習所としては困るだろう。俺が教官なら、たぶん同じことを書く。


 ただ、あのとき仁科は床に倒れていて、指示を出せる状態ではなかった。


「槙さん。映像、出してくれる?」


 坂東さんに言われて、槙さんがノートパソコンを机に置いた。三番カメラの映像が、コマ送りで流れる。


「仁科教官の『集まれ』の指示から、教官が倒れるまで、四・六秒です」


 槙さんの声は、いつもどおり平らだった。


「教官が倒れた後、岩喰いは瀬尾さんへ向かっています。瀬尾さんとの距離は二・五メートル。この時点で、ほかに動ける教官はいません。真壁さんが壁を叩いてから岩喰いの向きが変わるまで、〇・九秒。叩かなければ、岩喰いの爪は、一秒以内に瀬尾さんの頭に届いていました」


 画面の中で、岩喰いが向きを変える。俺が横に入る。ひっくり返る。


「運ではありません。手順です」


 所長室が、少し静かになった。


 仁科は、画面を見ていなかった。膝の上で、拳を握っていた。


「……いやあ。これは、処分というのは、ちょっと難しいかなあ」


 坂東さんが頭を掻いた。


「真壁さん、今後は教官の指示をよく聞いてね。仁科くんも、膝を大事にして。ね。それで、この件は」


「分かりました」


 仁科は短く言って、杖をつかんで立ち上がった。俺の横を通り過ぎるとき、一度だけ、俺を見下ろした。何も言わなかった。


 ◇


 岩喰いの切り抜きは、百二十万回再生された。


 戸川のチャンネル「トガワの免許取るまで日記」の登録者は、二千三百人から、四万一千人になった。


「やばくないっすか。一週間で二十倍っすよ。俺の人生でいちばん伸びてる」


 休み時間、戸川はスマホの画面を見せながら、浮かれたり青ざめたりしていた。


「でも、伸びてるの、全部真壁さんなんすよね。コメント、『おっさんまだ?』『今日のおっさん』ばっか。俺、自分のチャンネルで脇役なんすけど」


「……すみません」


「謝らないでくださいよ! ありがたいんすよ!」


 戸川は切り抜きで俺の顔をぼかしてくれていた。それでも、分かる人には分かるらしい。


 その日の帰り、教習所の門を出たところで、知らない若い男二人に声をかけられた。


「あの、教習所のおっさんですよね?」


「……はい?」


「やっぱり! その作業着と、安全靴! 岩喰いひっくり返した人!」


 スマホを向けられそうになったので、俺は軽く頭を下げて、早足で駅に向かった。次の日から、トラック時代の帽子を目深にかぶって通うことにした。


 ◇


 十月二十八日と二十九日は、見極めだった。


 仮免の検定の前に、教官が教習生の技能を一人ずつ確かめる。見極めに通らないと、検定を受けられない。教習坑の手前の部屋で、仁科が杖をついて俺の横についた。


「指差し確認。腕が下がってる。減点」


「はい」


「声が小さい。減点」


「はい」


「スライムの前で止まりすぎ。三秒以上止まるな。減点」


「はい」


 仁科は、ほかの教習生には「よし」「そこはいい」と声をかけていた。俺のときだけ、細かい減点が続いた。


 別に、腹は立たなかった。


 丸新運輸では、毎朝の点呼で運行管理者のおやじさんに、同じように言われた。指差しの腕が下がってる。声が小さい。ミラーの確認が一拍遅い。言われたところを一つずつ直していけば、そのうち何も言われなくなる。決まりというのは、そういうものだ。


 一日目の見極めで、瀬尾葉月は止められた。


 穴ネズミの群れの対処だった。四匹のネズミが床を走ってくると、彼女は棒を構えたまま、目だけでネズミを追っていた。一匹、二匹、と唇が動いている。数えているのだと分かった。四匹目を数え終える前に、一匹目が足元に来た。棒が遅れて、ネズミに膝の横をかじられた。


「瀬尾、もう一回。明日だ」


 仁科の声は、俺のときより、ずっと柔らかかった。


 休憩のとき、瀬尾葉月は廊下のベンチで、教本の第二部の穴ネズミのページをにらんでいた。膝に絆創膏を貼っている。


 俺は少し迷ってから、隣に座った。


「数えないほうが、いいと思います」


 瀬尾葉月が、顔を上げた。


「教本には、『群れの数を把握し』と書いてあります」


「把握するのは、教官に任せていいです。壁を背にして、来たやつだけ叩いてください。四匹いても、一度に足元に来るのは一匹か二匹です。来る順に叩けば、数はそのうち勝手に減ります」


 瀬尾葉月は黙って俺を見ていた。それから、教本に目を落として、小さく「……来たやつだけ」と繰り返した。


 次の日、彼女は見極めを通った。ネズミが来るたびに、唇を動かさずに、一匹ずつ叩いていた。


 二日目の終わりには、仁科の減点は二つまで減っていた。


 スライムは、核が右に来るまで待って、右から叩いた。三秒は止まらないように、待つ間はゆっくり右へ回り込んで、動いているように見せた。最後の一段は、ちゃんと飛ばした。


 頭の中で、瀬尾さんに謝った。あんたが転んだせいで、俺は四十近くになって、階段を一段飛ばしてる。


「……見極め、通過」


 仁科は、タブレットにそう打ち込んで、それきり何も言わなかった。


 ◇


 二十九日の夕方、教習所の裏の土手を歩いて駅へ向かっていると、後ろから杖の音が近づいてきた。


 振り返ると、仁科だった。


「真壁さん」


「……お疲れさまです」


 仁科は、俺の横に並んだ。夕方の荒川が、赤く光っていた。土手の下のグラウンドで、少年野球の子どもたちが道具を片づけている。


「あんたが悪い人間じゃないのは、分かってますよ」


 仁科は、川のほうを見たまま言った。


「岩喰いの映像も、槙さんの秒数も、見ました。あんたは強い。認めます。でも、それとこれとは話が別です」


「……はい」


「兄貴は、高校の同級生の伝手で、名前も知らない野良の連中に誘われたんです。夏休みの小遣い稼ぎだって。第三層に下りて、帰ってこなかった。四人いて、四人とも。遺体が上がったのは、一週間後でした」


 二〇〇八年の夏。


 第三層で、若い連中が四人死んだ。俺は、その話を、魔石の買い取り業者の店で聞いた覚えがあった。北のほうの回廊だった、と業者は言っていた。瀬尾さんが「若いのに、気の毒にな」と言って、その日は早めに引き上げた。


 仁科の兄が、その四人のうちの一人だったのかどうかは分からない。


「あんたらは、教本がない時代に、勝手に潜って、勝手に死んで、周りの人間を巻き込んだ。俺は、そういうのを二度と出さないために、教官をやってるんです」


 俺は、首を横に振れなかった。


「……そうですね。そういう人も、いました」


 仁科は、ようやく俺のほうを見た。何か言い返されると思っていたのかもしれない。少し拍子抜けしたような顔をして、それから、また硬い顔に戻った。


「明日の仮免。採点は、検定員の槙さんがします。俺は補助で入るだけです」


 杖の先で、土手の草を一度だけ突いた。


「でも、危険行為の旗は、俺も上げられる。覚えといてください」

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