作者、効果測定に落ちる
岩喰いの次の日、協会の職員が三人来て、教習坑の奥の穴を鉄板でふさいでいった。奥の部屋は立ち入り禁止になり、技能教習は手前の部屋だけで続けることになった。穴の向こうがどこにつながっているのかは、「調査中」とだけ書いた紙が掲示板に貼られた。
仁科は、左膝にサポーターを巻き、杖をついて出てきた。
俺とは目を合わせなかった。
◇
十月二十四日、土曜。第一段階の効果測定。
学科の模擬試験で、九十点以上で合格。受からないと、仮免の検定を受けられない。問題は五十問で、四十問が選択で一問一点、十問が記述で一問六点の、百点満点だった。
法令と装備と魔物の問題は、思ったより解けた。十五年トラックに乗っていると、法令の問題の言い回しには慣れる。「〜しなければならない」と「〜することができる」の違いで引っかけてくるのは、大型の免許の学科と同じだった。
問題は、記述の十問だった。
問四十一。心得三の理由を述べよ。
俺の右手が、勝手に「利き手」と書きかけた。慌てて消しゴムで消す。
理由。理由は何だったか。核が、右に、沈む。そうだ、確か右に沈むと書いてあった。何に沈む傾向がある、だったか。体の右寄り、だったか、右側、だったか。
問四十二。心得十二の理由を述べよ。
煙草一本半。違う。集中の、何だったか。
問四十三。心得二十七の理由を述べよ。
瀬尾さんが、二回、こけた。
俺はしばらく鉛筆を握ったまま、答案用紙を見下ろしていた。
自分の書いたことの理由を、知りすぎていて答えられない。そういうことが、世の中にはあるらしい。
◇
結果は、その日の夕方に出た。
「真壁さん、五十四点」
仁科は答案を掲げたりはしなかった。そのかわり、教室の全員に聞こえる声で、点数だけを読み上げた。
「全体で最下位です。記述の十問、ほぼ全滅。心得の理由が一つも書けてない」
教室に、くすくすと笑いが広がった。
「岩喰いを倒せても、教本を読まない野良は落ちる。そういうことです。月曜の再測定で九十に届かなかったら、仮免は受けられません」
仁科は杖をついて、次の名前を読み上げた。
「瀬尾、百点」
拍手が起きた。瀬尾葉月は、少しも嬉しそうな顔をせずに答案を受け取った。
「真壁さん、マジっすか……」
戸川が、六十八点の答案を握りしめて、俺の答案をのぞき込んだ。
「記述、白紙ばっかじゃないっすか。岩喰いの人が」
「……理由が、出てこなくて」
「全部、手記の最初のほうっすよ? 三、十二、二十七。俺でも書けたのに」
村瀬さんは七十二点で、「私も月曜、再測定よ」と言って笑った。
帰り支度をしていると、右から声がした。
「真壁さん」
瀬尾葉月が、鞄を肩にかけて立っていた。
「教えます」
「……え」
「月曜の再測定までに。岩喰いのとき、助けていただいたので。お礼です」
表情は、いつもどおり硬かった。でも、目はそらさなかった。
「借りを作ったままにするのは、嫌なんです」
◇
駅前のファミレスの、窓際の四人席。
瀬尾葉月はドリンクバーの紅茶を一口飲んで、付箋だらけの教本を開いた。
「心得三。スライムは右から打て。理由、核は体の右寄りに沈む傾向がある。はい、言ってください」
「核は、体の右寄りに……沈む、傾向がある」
「心得十二。休憩は二十分を守れ。理由」
「人間の……集中力の、回復に要する時間である」
「『人間の』は要りません。『集中の回復に要する時間』です。記述は教本の文言どおりに書かないと、減点されます」
「……はい」
俺は、自分の癖に付けられた嘘の理由を、一つずつ覚え込んだ。
煙草一本半を、集中の回復に要する時間と書く。二回こけたのを、最下段に罠が仕掛けられた例と書く。右肩にひびが入っていたから左に担いだ荷物を、利き腕を空けるためと書く。
瀬尾さんが聞いたら、腹を抱えて笑っただろう。あの人は、自分が転んだ話を、人に話すのが好きだった。
「真壁さん。笑うところじゃないです」
「……すみません」
顔に出ていたらしい。
瀬尾葉月は、ため息をついて、紅茶のカップを置いた。
「不思議です。岩喰いをあんなふうに倒せる人が、どうして心得の理由を一つも覚えていないんですか」
「……昔は、理由なんて考えずに潜ってたんで」
「父は、違いました」
瀬尾葉月は、窓の外を見た。
「父は、全部に理由を付けて書いたんです。休憩は二十分と決めていたのも、人の集中が戻るのに二十分かかるって、ちゃんと考えていたからです」
俺は、何も言わなかった。
「私が三歳のときに、死にました。顔は、ほとんど覚えていません。写真と、母の話と、この手記だけです」
瀬尾葉月の指が、教本の第三部の扉を撫でた。
「手記を読むと、父の声がするんです。会ったことのない人の声なのに。こういうふうに考えて、こういうふうに潜っていた人なんだって、分かる気がするんです」
俺は、ストローの紙袋を指で小さく折りたたんでいた。
あの手記を読んで聞こえる声は、半分は俺の声だ。十七の、十九の、二十二の俺の声だ。
でも、残りの半分は、確かに瀬尾さんだった。煙草も、口笛も、階段で転ぶのも、全部瀬尾さんだ。俺はあの人を見て、あの人のことを書いていた。
だから、この子が手記の中に父親を見つけたのは、間違いではない。
間違いではないから、余計に言えなかった。
「……いいお父さんだったんですね」
それだけ言うと、瀬尾葉月は少し驚いた顔をして、それから「はい」と頷いた。
◇
日曜も、同じファミレスで三時間教わった。
途中で、瀬尾葉月は問題の出し方を変えた。
「今度は逆にします。文を言うので、番号を答えてください。壁を叩いて歩くな」
「七十二」
「水場の水は、沸かしても飲むな」
「九十」
「荷は左肩に掛けよ」
「三十五」
瀬尾葉月の手が止まった。教本から顔を上げて、俺をじっと見る。
「……全部、合ってます」
「そうですか」
「どうして番号は言えるんですか。理由は一つも言えなかったのに」
書いた順番だからだ。七十二は、二十の春に第四層で岩喰いに追い回された次の日に書いた。九十は、その夏に腹を下した後。三十五は、右肩のひびが治った次の年の春。ノートのどのあたりに書いたかを思い出せば、番号は勝手に出てくる。
「……番号は、覚えやすくて」
「覚えやすくないです。普通は」
瀬尾葉月は眉を寄せて、しばらく俺を見ていた。それから、「変な人ですね」と小さく言って、また理由の問題に戻った。
十月二十六日、月曜。再測定の結果は、九十四点だった。
落としたのは、問四十三の一問だけ。「最下段に罠が仕掛けられた例がある」の「仕掛けられた」を、「あった」と書いてしまった。
「九十四点」
仁科は、読み上げて、それ以上は何も言わなかった。
答案を受け取って席に戻ると、瀬尾葉月がこちらを見ていた。
「合格ですね」
「おかげさまで」
瀬尾葉月の口の端が、ほんの少しだけ上がった。入校してから、この子が笑うのを初めて見た。
それから、ふと思い出したように、教本の扉から写真を抜いて、俺の前に置いた。
「真壁さん。前から気になっていたんですけど」
河川敷の草むらの、石の口の前で、煙草をくわえて笑う瀬尾さん。その写真の、右の端。
写真の枠で切れたところから、誰かの左手だけが写り込んでいた。手には、大学ノートを持っている。表紙に、マジックで書いた数字の一部。
「このノートを持ってる人、誰なんでしょうね。父のノートを、こんなふうに持ってるなんて」
その手首には、黒いデジタル時計が巻かれていた。
俺は、机の上に出していた自分の左手を、ゆっくり机の下に引っ込めた。




