三・二秒(side 槙志乃)
三・二秒です。
岩喰いが仁科教官を跳び越えてから、真壁さんの訓練棒が腹に入るまで。監視室の三番カメラの映像を、私はもう十回、止めては戻しています。
壁を石で叩いてから、岩喰いが頭の向きを変えるまでが〇・九秒。向きを変え終わったとき、真壁さんはもう岩喰いの左に入っています。距離は四メートルあったはずです。そこから甲羅の縁に棒を差し込んで、ひっくり返すまでが一・一秒。
自衛隊のダンジョン対処の部隊に、私は八年いました。中層まで潜りました。岩喰いの対処は、盾を二枚並べて壁際に追い込み、三人がかりで甲羅の隙間を突く、と教わりました。音でこちらを向かせて、一人でひっくり返す手順は、教わったことがありません。
それに、もう一つ。
岩喰いが出てくる三分前から、真壁さんは列の端に寄っています。奥の壁と、教習生たちのちょうど間に。
あの人は、出てくるのを知っていました。
◇
救護の人たちが仁科さんを担架で運び出したのは、十時過ぎでした。左膝の古傷が、また悪くなったそうです。教習生は全員、校舎に戻しました。怪我をした人はいません。
岩喰いの死骸は、協会の職員が引き取りに来るまで、教習坑に置いたままです。亀裂は、岩喰いが割って出たせいで、人がかがめば通れるほどの穴になっていました。穴の向こうは、暗い土の通路が斜め下に続いています。教習坑には、第一層しかないはずなのに。
監視室に戻って、私はお茶を淹れ、饅頭の箱を開けました。真壁さんが来るまでの間に、スマートフォンで掲示板を開きます。戸川さんの配信の切り抜きが、もう出回っていました。
【荒川教習所】教習坑に岩喰い出たらしい【おっさん】
1:名無しの探索者
トガワって教習日記の配信者の切り抜き。教習坑の壁から岩喰いが出て、教官が膝やって、教習生のおっさんがひっくり返して仕留めた
2:名無しの探索者
は?教習坑って第一層しかないとこだろ。岩喰いは第三層からだぞ
3:名無しの探索者
>>2
だからスレ立ってんだよ。協会「教習坑は組み替えない」って言ってたよな
4:名無しの探索者
動画見た。壁二回叩いて呼んでるじゃん。教本の七十二の逆やってる
5:名無しの探索者
甲羅の縁に棒差して起こすの、うちの会社の深層組のベテランがやるやつ。普通の新人はまず無理
6:名無しの探索者
教習生だろ?なんでそんなの知ってんの
7:名無しの探索者
名簿読み上げてるとこ、前の配信に映ってた。探索歴2004〜2011。第一世代
8:名無しの探索者
野良上がりか
9:名無しの探索者
野良でも生き残ってる第一世代は別物だよ。浅層で死ぬやつは最初の二年で全員死んでる
10:名無しの探索者
教官ざまぁ案件?
11:名無しの探索者
>>10
教官は教本どおり動いて膝やっただけだし、ざまぁは可哀想だろ。当日の朝におっさんの警告を「教習坑は組み替えない」で流してるのはアレだけど
私は画面を閉じました。
九番の書き込みは、正しいと思います。第一世代で、今も生きていて、あの動きができる人。数は多くないはずです。
◇
十一時に、扉が叩かれました。
「失礼します」
真壁さんは、入口で一度頭を下げてから入ってきました。百八十センチ近い大きな体を、少し縮めるようにしています。作業用の安全靴。左手首に、古い黒のデジタル時計。
「どうぞ。お茶と、饅頭があります」
「……ありがとうございます」
真壁さんは丸椅子に座って、饅頭を一つ、両手で持ちました。食べずに、持ったままでいます。
私は、三番カメラの映像を止めた画面を、真壁さんのほうへ向けました。
「真壁さんは、第一世代ですね」
「はい。二〇〇四年から、二〇一一年まで」
「どこまで潜りましたか」
真壁さんは少し黙ってから、短く答えました。
「第七層です」
私は、手元の湯呑みを置きました。
協会の記録で、第七層に達した第一世代は、数えるほどしかいません。その一人が、手記の英雄、瀬尾隆之さんです。
「免許は」
「ありません。法律ができたときに、届けを出さなかったので」
「なぜ、出さなかったんですか」
「……やめたので」
それ以上は聞きませんでした。聞いても答えてもらえない種類の沈黙だと思いました。
かわりに、ずっと引っかかっていたことを聞くことにしました。
「心得二十七、階段の最後の一段は踏むな。理由は、最下段に罠が仕掛けられた例がある、です」
真壁さんの指が、饅頭の上で止まりました。
「私は自衛隊にいたころ、その例を探しました。協会の記録も、部隊の記録も読みました。最下段の罠の例は、一つも見つかりませんでした。真壁さん。最後の一段を踏まない理由を、ご存じですか」
真壁さんは、しばらく饅頭を見ていました。
それから、少しだけ笑いました。初めて見る顔でした。困ったような、懐かしいような。
「昔、一緒に潜ってた人が、二回こけたからです」
「……こけた」
「最後の一段で。二回とも。それで、飛ばすようにしたんです」
私は、しばらく何も言えませんでした。
第七層まで潜った第一世代。英雄の手記の心得の、記録にない本当の理由を知っている人。一緒に潜っていた人。
この人は、瀬尾隆之さんと組んでいた人なのだと思いました。手記の英雄の横で、英雄が階段で転ぶのを見ていた人。
だから、手記の心得の理由を知っている。仁科さんの学科で、この人が赤苔の項に異を唱えたと、教習生たちが噂していたのも、そのせいなのでしょう。
「……そうでしたか」
私は、それだけ言いました。
真壁さんは、ようやく饅頭を一口かじって、「うまいです」と言いました。
饅頭を食べ終えると、今度は真壁さんのほうから口を開きました。
「あの割れ目の向こう、通路が下に続いてましたか」
「斜め下に。暗くて、奥までは見ていません」
「この穴には、第一層しかないですよね。だったら、あいつは下から上がってきたんじゃない。横から来たんだと思います」
真壁さんは、窓の外の土手のほうを見ました。
「荒川第一が、近いですよね」
「地図の上では、七百メートルほどです」
「第三層の端っこが、こっちのほうまで延びてるのかもしれません。昔は、そんなことはなかったんですが」
昔は。この人は、荒川第一の第三層の端がどこにあったかを、覚えているのだと思いました。私は手帳に「七百メートル、第三層の東端」と書き留めました。協会に報告するときに、添えるつもりでした。
◇
真壁さんが帰った後、私は所長室に行きました。
所長の坂東さんは、窓際でテレビのワイドショーを見ていました。画面の端に、戸川さんの切り抜きが小さく流れています。
「いやあ、槙さん。すごいことになったねえ。問い合わせの電話が、もう二十件だよ。来月の入校の申し込みが三件。宣伝費に換算したら――」
「所長。協会に、正式に報告してください」
坂東さんが、こちらを向きました。
「教習坑の奥の壁が割れて、第三層の魔物が出ました。協会は十七年、『教習坑は組み替えない』と言ってきました。穴の向こうに、斜め下へ続く通路があります。どこにつながっているか、調べてもらう必要があります。それまで、教習坑の技能教習は止めるべきです」
「いやあ、それは……止めると、教習の日程が全部ずれるんだよね。仮免が来週末で――」
「教習生が死ぬよりは、ずれたほうがいいと思います」
坂東さんは困った顔で頭を掻いて、「協会には連絡しておくよ」と言いました。
それで、その日は終わりました。
◇
翌朝、十月二十三日。
仮免の検定のコース表を受け取りに所長室へ行くと、坂東さんは席を外していました。机の上に、ホチキスで留めた書類が一部、置いてありました。
見るつもりはありませんでした。でも、表紙の一行目は、大きな字で印刷されていました。
教習生・真壁恭二の危険行為について。
報告者の欄に、仁科誠司とありました。




