教習坑に、いないはずのもの
岩鳴りは、一つで止んだ。
二つ目を待って、俺はしばらく穴の口を見ていた。鳴らなかった。一つだけの岩鳴りは、たいていどこかで小さく通路が動いた合図だ。昔の第二層では、週に何度も聞いた。
ただ、ここは第一層しかない、教習用の穴のはずだった。
◇
九時になって、十二人がそろった。仁科を先頭に階段を下りる。
広い部屋の手前で、俺は足を止めた。
おととい、湿っていた奥の壁。そこに、縦に一本、亀裂が走っていた。人の背丈ほどの長さで、幅は指二本ぶん。おととい見たときは、なかった。
「仁科さん」
俺が呼ぶと、仁科はうんざりした顔で振り返った。
「何ですか、真壁さん」
「奥の壁、おとといはなかった割れ目があります。朝、岩鳴りも一つ聞こえました。夜のうちに、組み替えがあったのかもしれません。今日は奥に近づかないほうがいいと思います」
仁科は亀裂を一瞥して、鼻で笑った。
「教習坑は組み替えない。開いてから十七年、一度もない。協会のお墨付きです。古い穴なんだから、ひびくらい入りますよ」
「でも――」
「おっさんは後ろで見ててください。おととい、減点もらったばっかりでしょう」
教習生の何人かが、くすりと笑った。瀬尾葉月は、こちらを見なかった。
俺は列のいちばん後ろに下がった。言っても無駄なときは、言っても無駄だ。そのかわり、亀裂から目を離さないことにした。
◇
今日の教習は、穴ネズミの群れの避け方だった。
仁科は部屋の真ん中に教習生を集めて、教本の第二部を開かせた。
「穴ネズミは群れで来る。壁を背にして、一匹ずつ相手にしろ」
教習生が二人ずつ組になって、仁科が放した穴ネズミを壁ぎわで受ける。猫ほどの大きさの鼠が、床をちょろちょろ走ってくる。瀬尾葉月は棒の構えも足の位置も教本の図のとおりで、そのぶん、ネズミの動きに一拍ずつ遅れていた。
俺は、列の後ろで、ずっと奥の壁を見ていた。
亀裂から、さらさらと細い砂が落ちている。最初は気のせいかと思うくらいだった。十分ほどで、床に小さな山ができた。耳を澄ますと、砂の音の下に、もう一つ、こり、こり、と何かが石を削る音が混じっている。止まって、また始まる。少しずつ、近づいてくる。
俺は、さりげなく列の端へ寄った。奥の壁と、教習生たちが固まっている場所の、ちょうど間になるように。
ネズミの教習が一巡して、仁科がもう一度、全員を部屋の真ん中に集めた。
「ついでに、こいつも覚えとけ。お前らが第三層の路上で会うやつだ」
仁科が、教本のページを掲げた。甲羅のような背中を持つ、四つ足の魔物の写真だった。
「岩喰い。大型犬くらいの大きさで、壁の中を掘って進んで、壁から飛び出してくる。前脚の爪で、ヘルメットごと頭を割る。背中の甲羅は硬くて、訓練棒じゃ割れない。お前らが会うのは三週間後だ。そのときは、俺たち教官が前に――」
ばきん、と、乾いた音がした。
奥の壁の亀裂が、内側から割れた。石の破片が床に散らばって、その穴から、灰色の甲羅が押し出されてくる。
大型犬ほどの大きさ。前脚の爪が、蛍光灯の光を跳ね返した。
写真と、同じものだった。
悲鳴が上がった。誰かが尻もちをつき、誰かが階段のほうへ走りかけた。
「壁から離れろ! 全員、集まれ!」
仁科の判断は、教本どおりだった。教習生を部屋の真ん中に寄せて、自分が前に出る。訓練棒を両手で構えて、岩喰いの頭を狙う。
岩喰いが跳んだ。仁科の棒が、甲羅の縁を打った。乾いた音がして、棒が弾かれる。仁科の体が、打った勢いのまま左へ流れた。左膝が、がくりと折れた。
「っ……!」
仁科が床に倒れた。
岩喰いは仁科を跳び越えた。爪が床を掻いて、向きを変える。
その先に、瀬尾葉月がいた。集まれと言われて走った拍子に、足をもつれさせて転んでいた。教本どおりに構えようとした棒が、床に転がっている。
俺は、足元の石の破片を拾った。
心得七十二。壁を叩いて歩くな。理由、岩喰いを呼ぶ。
あいつらは、目がほとんど見えない。壁の中を、音を頼りに進む。だから、壁を叩くと寄ってくる。
俺は、瀬尾葉月と反対側の壁を、石で二度叩いた。
かん、かん。
岩喰いの頭が、ぐるりとこちらを向いた。
向いたときには、俺はもう、そいつの横にいた。甲羅の縁と床の間に、訓練棒の先を差し込む。体重をかけて、てこの要領で持ち上げる。岩喰いが、腹を見せてひっくり返った。白っぽい、柔らかい腹だった。
棒を持ち替えて、腹の真ん中を突いた。
岩喰いは脚を一度だけ大きく掻いて、動かなくなった。
部屋が、しんとした。
俺は訓練棒を床に立てて、息を一つ吐いた。腕が少し重い。十五年ぶりだと、こんなものか。昔なら、ひっくり返すのにもう少し手早かった気がする。
振り返ると、十一人の教習生が、部屋の真ん中で固まっていた。
誰も、何も言わなかった。
瀬尾葉月は、尻もちをついたまま、動けずにいた。目を大きく開いて、俺と、ひっくり返った岩喰いを、交互に見ている。口が少し開いていたが、声は出ていなかった。
俺は、床に転がっていた彼女の訓練棒を拾って、差し出した。
瀬尾葉月は、棒と俺の顔を見比べてから、ゆっくり手を伸ばした。受け取った手が、まだ震えていた。
「……ありがとう、ございます」
かすれた声だった。おととい、俺に心得を守れと言ったときの硬さは、どこにもなかった。
村瀬さんが、最初に動いた。つかつかと寄ってきて、俺の背中を平手で叩いた。
「ちょっと、真壁さん! 何なのよ今の! 何で平気な顔してんのよ!」
「……いや、あの、腕は結構重いです」
村瀬さんは「そういうことじゃないわよ」と言って、もう一度背中を叩いた。
村瀬さんの声が裏返っていた。叩く手が、少し震えていた。
教習生たちが、おそるおそる岩喰いのまわりに集まってくる。誰かが「腹、柔らか……」と呟いた。誰かが甲羅の縁を靴の先でつついて、慌てて引っ込めた。
戸川のスマホが、尻ポケットで喋り続けていた。
『いま何した』『ひっくり返した?』『え、岩喰いって第三層のやつだろ』『教習所に出るの?』『おっさん何者』『教官より強いおっさん』
戸川が、震える手でスマホを取り出して、画面を見た。
「……同接、さっきまで四十だったのに」
画面を、こちらに向ける。数字が、見ている間に変わっていく。八百。千二百。千九百。
「誰か切り抜いて流したっぽいっす。二千……三千、超えた」
戸川は、俺と画面を見比べて、なぜか泣きそうな顔で笑った。
「真壁さん、これ、マジでなんなんすか」
俺には答えようがなかった。俺はただ、三週間後に会う予定だった魔物に、今日会っただけだ。
ただ、一つ引っかかっていた。この穴には、第一層しかない。下から上がってきたのではない。だとしたら、あの亀裂の向こうは、どこにつながっている。
「……壁を、叩いたな」
低い声がした。
仁科が、左膝を押さえて床に座り込んだまま、俺を見上げていた。顔が青い。額に汗が浮いている。
「心得七十二違反だ。壁を叩くな。岩喰いを呼ぶ」
教習生たちが、仁科と俺を見比べた。
俺は、頷いた。
「はい。呼ぶために叩いたんで」
仁科の口が、何か言いかけて閉じた。
階段のほうから、靴音が駆け下りてきた。紺の作業服。槙さんだった。走ってきたのに、息はほとんど乱れていない。部屋を一目で見回して、ひっくり返った岩喰いと、倒れた仁科と、訓練棒を立てた俺のところで、視線が止まった。
「全員、その場を動かないでください。救護を呼んであります」
それから、俺のほうへ歩いてきて、いつもと同じ平らな声で言った。
「真壁さん。あとで、監視室に来てください」




