赤苔の項
核が見えるのか、と聞かれて、俺は「目が慣れてるだけです」と答えた。
嘘ではない。槙さんは表情を変えずに「そうですか」と言い、監視室に戻っていった。それで終わったと思っていたが、扉が閉まる前に、もう一度だけこちらを見た気がした。
◇
十月二十一日、水曜。学科の三時限目は、仁科の担当だった。
第一教室の前のスクリーンに、教本のページが映っている。仁科は指示棒で、太字の一文を叩いた。
「心得四十一。赤苔の通路は走るな。瀬尾、理由」
「胞子を巻き上げ、転倒の危険もある」
「そうだ」
仁科はスクリーンを切り替えた。湿った石の通路の写真で、壁と床が、錆のような赤い苔で覆われている。
「第三層から下の、湿った通路に生える。胞子を吸うと、手足がしびれて数時間動けなくなる。しびれてる間に魔物が来たら終わりだ。お前らが第三層に下りるのは、第二段階の路上が始まって一週間ほどしてからだ。卒検のコースにも、赤苔の通路が入ることがある。だから覚えとけ。赤苔の通路は、ゆっくり、足元を確かめて、声を掛け合いながら抜ける」
何人かが、ノートに書き込む音がした。
俺は、スクリーンの写真を見ていた。
赤い苔は走って抜けろ。止まると十秒で胞子が立つ。
十九の夏に、俺はそれを書いた。第三層の北側の通路で、瀬尾さんと二人、苔の真ん中で地図を確かめようとして立ち止まった。十秒くらいで、苔の表面がもやもやと煙を吐いた。瀬尾さんが俺の襟をつかんで走った。抜けた先で二人とも膝から崩れて、指先がしびれて、二時間、壁にもたれて動けなかった。運よく魔物は来なかった。
あの苔は、人の体温に寄ってくる。立ち止まると、そこに胞子を吹く。走れば三秒で抜けられる。三秒なら、苔は気づかない。
それが、「ゆっくり、足元を確かめて」になっている。
昨日のスライムとは、話が違った。右から打っても、休憩を二十分取っても、最後の一段を飛ばしても、誰も死なない。でも、赤苔の通路をゆっくり歩けば、十秒で全員がしびれる。
俺は、手を挙げていた。
挙げてから、しまったと思った。
「……真壁さん」
仁科が、指示棒を下ろした。教室の目が、また俺に集まる。
「何か」
「赤苔のことなんですが。あの苔は、人が止まっていると胞子を出すんです。十秒くらいで。走って抜けたほうが、胞子は立たないと思います」
教室が、少しざわついた。
仁科はすぐには答えなかった。俺を見て、それから教本に目を落として、ゆっくり顔を上げた。
「思います、ね」
「昔、そうだったので」
「昔」
仁科は笑った。笑ったが、目は笑っていなかった。
「真壁さん。あんたらの『昔』で、何人死んだと思います?」
教室が静かになった。
「教本には、協会が十五年かけて集めた事故の記録と、英雄の手記が詰まってるんです。それを、免許もない野良が、『昔そうだった』で書き換えようとする。それが一番、人を殺すんですよ」
仁科は指示棒を教卓に置いた。
「俺の兄貴は、二〇〇八年に死にました。二十歳でした。名前も知らない野良の連中に誘われて、第三層に下りて、帰ってこなかった。あの頃の連中は、みんなあんたみたいに言ってましたよ。俺はこうやって生きてきた、俺のやり方が正しい、って」
誰も、何も言わなかった。
さっきまで俺を珍しそうに見ていた目が、冷たいものに変わるのが分かった。前の席の若い男が、小さく舌打ちした。
「……すみません」
俺は頭を下げた。
言い返す言葉は、なかった。仁科の兄が死んだのは本当だろう。あの頃、無茶な連中はいくらでもいた。俺が知らないところで、俺の知らない誰かに誘われて、二十歳の若者が死んだ。そのことに、俺は何も言えない。
苔のことは間違っていない。でも今それを言っても、誰も聞かない。
「座ってください。続けます」
仁科は何事もなかったように、次の項を映した。
座ると、右から視線を感じた。
瀬尾葉月が、こちらを向いていた。昨日の硬い声より、もっと静かな声だった。
「父の手記を、勝手に変えないでください」
「……」
「父は、第七層まで潜った人です。父が書いたことには、全部理由があります」
全部ではない。煙草一本半とか、二回こけたとか、そういう理由のものもある。
そう言えるはずがなかった。
「……すみません」
瀬尾葉月は前を向いて、それきり授業が終わるまで、俺のほうを見なかった。
◇
昼休み、教室の後ろの席でコンビニの袋を開けていると、村瀬さんが隣に座った。
「はい、これ」
アルミホイルに包んだおにぎりを、二つ置かれた。
「鮭と梅。作りすぎちゃったの。真壁さん、どうせコンビニのパンでしょ」
「……ありがとうございます」
「さっきのは、あんな言い方ないわよね。お兄さんのことは気の毒だけど、真壁さんが殺したわけじゃないでしょ」
村瀬さんは、からりと言った。
「それに私、あの教官に言われたとおり、ゆっくり歩いてしびれる自信あるわ。足遅いもん」
俺は少し笑った。笑ったのは、入校してから初めてだった。
戸川が、パンをくわえたままやって来て、俺の前の机に腰かけた。
「真壁さん。俺、真壁さん派っす」
「派閥があるんですか」
「今できました。昨日の三匹、配信のアーカイブで何回も見たんすよ。あれ、まぐれじゃないっすよね。だったら苔の話も、たぶんなんかあるんでしょ」
戸川は胸のカメラを指でつついた。
「あ、今は切ってますよ。昼休みは休業っす」
◇
夜、梅島のアパートに帰って、俺は初めて、教本の第三部を最後まで読んだ。
台所の小さなテーブルに教本を置いて、心得一から順にめくる。癖に理由を付けられたもの。言い回しだけ整えられて、中身はそのままのもの。壁を叩くな、水場の水は沸かしても飲むな。そのあたりは、ちゃんと俺の書いたとおりだった。理由もおおむね合っている。編纂した誰かは、分かる項は分かるように、分からない項は分からないなりに、理由を付けたらしい。
分からないなりに付けた理由のうち、ひっくり返っているのは、今のところ四十一だけだった。
心得八十八で、手が止まった。
岩鳴りが三つ聞こえたら、来た道を戻れ。
理由、前方の通路が閉じるため。
合っている。俺が書いたとおりだ。そして、そこで終わっている。
続きは、ここには載っていない。載っているはずがなかった。続きを書いたのは十三冊目で、十三冊目は協会に渡っていない。
俺は教本を閉じて、押し入れを開けた。
奥に、段ボール箱が一つある。丸新運輸に入った年に、引っ越しのついでに詰めたまま、一度も開けていない箱だ。ガムテープをはがすと、古い作業着の下に、大学ノートが一冊入っていた。
表紙に、マジックで「13」とある。俺の字だ。
十三冊目。あの日、俺の鞄に入っていた一冊。
表紙に手をかけて、そこで止まった。
開ければ、最後のページに何が書いてあるか、俺は知っている。知っているから、十五年、開けなかった。
ノートを箱に戻して、押し入れを閉めた。
第三層に下りるのは、第二段階の路上が始まって一週間ほどしてからだと仁科は言っていた。今日から数えて、三週間はある。それまでに、どうにかすればいい。どうにか、というのが何なのかは、分からなかったが。
◇
翌朝、十月二十二日。
技能の三時限目の前、俺は少し早く着いて、教習坑の小屋の前に立っていた。フェンスの中はまだ誰もいない。コンクリートの床に開いた石の口から、冷たい空気が上がってくる。
その空気に、また、あの匂いが混じっていた。冷えた鉄の匂い。水の多い、下の層の匂い。
そのとき、穴の奥で音がした。
ごうん、と、遠い鐘を一つ打ったような、低い音だった。
足の裏から、腹のほうへ、震えが上がってくる。二十年前から、体が覚えている音だった。
「……岩鳴り?」




