心得三、右から打て
あのとき俺は、「そうですか」としか言えなかった。
瀬尾葉月は写真を教本に戻して、それきり前を向いた。休み時間が終わり、仁科が法令の話を始め、俺は一日、教本の第三部を開かないようにして過ごした。開けば、また自分の字が浮かんでくる。
家に帰っても、押し入れは開けなかった。
◇
翌日、十月二十日。技能教習の一時限目は、教習坑だった。
教習所の敷地の奥、校舎の裏にフェンスで囲まれた一角がある。コンクリートの小屋の床に、地下へ下りる石の口が開いている。二〇〇九年に開いた、第一層しかない小さなダンジョンだ。協会が教習用に指定していて、中は体育館二つ分ほどの広さしかない。出るのはスライムと穴ネズミだけ。入口の横に監視室があって、中にカメラが十二台付いている。
十二人の教習生が、貸し出しのヘルメットと胸当てを着けて並んだ。手には一本ずつ、樫の訓練棒。長さは百二十センチ。
俺は、懐かしい匂いを嗅いでいた。湿った石と、鉄と、少しだけ甘い匂い。魔素の匂いだ。十五年ぶりだった。
階段を下りきったところで、俺は一度だけ足を止めた。
奥の壁の一か所だけ、石の色が濃い。湿っている。鼻の奥に、ほんの少し、冷えた鉄のような匂いが混じる。浅い層の匂いじゃない。もっと下の、水の多い層で嗅いだ匂いだった。
気のせいだと思うことにした。ここは第一層しかない、協会お墨付きの教習用の穴だ。十五年ぶりで、鼻が昔のことを勝手に思い出しているだけだろう。
「真壁さん、止まらないでくださーい。後ろつかえてまーす」
戸川に言われて、俺は列に戻った。
「いいか。今日やるのは、スライムだけだ」
仁科が、石の階段の下で振り返った。
「膝の高さのゼリーだ。中に親指の先くらいの核がある。核を割れば崩れる。体当たりで転ばされて、顔に張り付かれたら息ができない。毎年、ここで一人は救護室に運ばれる。心得三、言ってみろ。瀬尾」
「スライムは右から打て。理由、核は体の右寄りに沈む傾向がある」
瀬尾葉月が、間を置かずに答えた。
「そうだ。右に回り込んで、右から打つ。初日に一匹倒せれば上出来だ」
仁科は俺のほうを見て、口の端を上げた。
「おっさんは、腰をやるなよ。ぎっくり腰の救護は面倒なんでな」
何人かが笑った。
通路の先の広い部屋に、スライムが十匹ほどいた。濁った透明のゼリーが、床の上でゆっくり形を変えている。教習生が一人ずつ前に出て、仁科が横について声をかける。
最初の三人は、それぞれ五分ほどかけて一匹を倒した。
四人目が瀬尾葉月だった。
教本どおりに右へ回り込み、棒を構える。構えはきれいだった。たぶん、家で何度も練習してきたんだろう。一打目。ゼリーが波打って、棒が滑った。二打目、三打目も同じだった。四打目を振りかぶったところで、スライムが体を縮めて跳ね、彼女の膝に当たった。
瀬尾葉月は尻もちをついた。
「核を見ろ、核を! 右だぞ、右に沈んでる!」
仁科の声が飛ぶ。
……沈んでいない。
俺の位置からは、濁りの奥の小さな影が見えていた。影は、ゼリーの左の端をふらふら漂っている。右をいくら叩いても、核には届かない。
瀬尾葉月は立ち上がって、十分かけてそのスライムを倒した。最後は、核がたまたま右に流れてきたところに棒が当たった。彼女は肩で息をしながら、悔しそうに唇を結んでいた。
次が、戸川だった。
「いきまーす! 見ててくださいね、皆さん!」
胸ポケットのカメラに向かって手を振り、勢いよく棒を振り下ろす。外れた。スライムが跳ね、戸川の顔に張り付いた。
「もがっ」
仁科が舌打ちして、スライムの縁をつかんで引き剥がした。戸川はむせながら、それでも笑っていた。尻ポケットのスマホが、機械の声でコメントを読み上げている。
『顔面いった』『トガワ死亡』『ゼリーまみれで草』
村瀬さんは、悲鳴を上げながら七分で倒した。
「次。真壁さん」
俺は前に出た。
部屋に残っているスライムは、三匹だった。一匹は奥の水たまりのそばから這い出してきたところだ。
手前の一匹を見る。濁りの奥の影は、左にある。ゆっくり、ゼリーの内側を回っている。
左から一打。
棒の先が、影の真上に落ちた。核が割れる、硬い手応えがあった。ゼリーが形を失って、床に広がる。後には、小指の先ほどの魔石が残った。
隣の一匹は、影が手前にある。正面から突いた。奥の一匹は、こちらへ這ってくる途中で影が右に寄ったので、右から叩いた。
三匹とも、一打ずつだった。
振り返ると、仁科が、口を開けかけたまま止まっていた。何か言いかけていたらしい。たぶん、「肩の力を抜け」とか、そういうことだ。
部屋が静かだった。
スマホの読み上げだけが、間の抜けた声で続いていた。
『おっさん速くね』『三匹?』『今の何秒』『え、一撃ずつ?』
「……」
仁科は黙ったまま、腰のタブレットに何かを打ち込んだ。それから顔を上げて、俺を見た。
「心得三違反。減点十」
「……はい」
「一匹目と二匹目、右から打ってないだろ。教本を読めと言ったはずだ」
部屋のあちこちで、小さな笑いが起きた。
俺は、何と答えていいか分からなかった。
心得三。スライムは右から叩く(俺が右利きだから)。
十七歳の俺は、核なんて見えていなかった。右利きだから右から叩いて、何回か叩けばそのうち当たる。それだけの話を、ノートに書いた。核が見えるようになったのは、それから二年ほど潜ってからだ。その頃にはもう、ノートの最初のほうなんて読み返していなかった。
二十年あまり経って、そのメモは協会の教本に載っていて、理由が付いて、俺は自分のメモで減点されている。
笑えばいいのか、謝ればいいのか、分からなかった。
「どうして、心得を守らないんですか」
硬い声がした。
瀬尾葉月が、こちらをまっすぐ見ていた。尻もちのときの砂が、まだ膝に付いている。
「守れば、ちゃんと倒せるように書いてあるんです。父は――手記は、そういうふうに書いてあるんです」
俺は、彼女の膝の砂を見た。十分かかって、転んで、それでも彼女は右から打った。書いてあるとおりに。
「……核が、左にあったんで」
口から出たのは、それだけだった。
「核は右寄りに沈みます」
「沈まないことも、あります」
瀬尾葉月は何か言い返そうとして、やめた。言いかけた言葉を飲み込んだ顔のまま、列に戻っていった。
仁科が手を叩いた。
「はい、交代だ。残りの五人は奥の部屋。真壁さん、減点のことは覚えとけよ。今日のは見逃してやるが、検定でこういう減点を重ねたら、落ちるぞ」
「……はい。気をつけます」
戸川が、すれ違いざまに小声で言った。
「真壁さん、今のエグいっすね。同接、四十人しかいないの、もったいなすぎる」
「四十人も見てるんですか」
「少ないっすよ!?」
◇
教習が終わって、ヘルメットを返しに廊下を歩いていると、監視室の扉が開いた。
出てきたのは、紺の作業服の女の人だった。三十代半ばくらいで、髪を短く切っている。表情が、ほとんど動かない。胸の名札には「技能検定員 槙」とあった。
槙という人は、俺の前で立ち止まった。
「真壁さん」
「はい」
「さっきの教習、監視室で見ていました。一匹目、左から打ちましたね。二匹目は正面、三匹目は右です」
「……減点、もらいました」
「減点のことは聞いていません」
槙さんは、手に持ったタブレットに目を落とした。映像の一コマを止めてあるらしい。それから、もう一度、俺を見た。
「三匹とも、核の真上を打っています。打つ前に、毎回、一拍だけ止まっている」
俺は黙っていた。
槙さんの声は、少しも大きくならなかった。
「真壁さん。核が、見えるんですか」




